第33話 嫌われ者に差した月明かり

 静寂が支配する月下の庭園。

 私の剥き出しの本音を、カイルは否定も肯定もせず、ただ隣で受け止めてくれていた。

 その沈黙に救われ、張り詰めていた呼吸が、ようやく元に戻り始めた――その時だった。


「……俺は、お前が嫌いだ」


 氷の礫を投げつけられたような、あまりにも唐突で、あまりにも真っ直ぐな拒絶。


「……は?」


 え、ちょっと待って。

 今、この流れでそれ言う?

 たった今まで、「孤独な二人の魂が、静かに寄り添っている」みたいな空気だったわよね?

 いや、知ってる。知ってるわよ、あんたが私のことを蛇蝎のごとく嫌ってることくらい。でも、わざわざ今、声に出して再確認する必要ある!?


「何も悪くないリリアーヌを、一方的に傷つけて、嘲笑って、優位に立った気でいるお前が……反吐が出るほど嫌いだった」


 カイルは私を見ない。

 月明かりの下、真っ直ぐ前方を見据えたまま、淡々と言葉を重ねる。


「……俺は、お前が聖女であればいいのにとすら思った」


「……えっ?」


 あまりにも予想外の言葉に、思考が完全に止まった。


「この国に使い捨てられるようにして、命を削りながら務めを全うする。リリアーヌがそんな聖女の宿命を背負うくらいなら……名誉欲に塗れたお前が、代わりになればいいと。本気で、そう思っていた」


 彼の横顔は、夜の闇よりも深く、苦しげに歪んでいるように見えた。


「お前は昔から、ずっと聖女になりたがっていただろう。地位が欲しい、称賛が欲しいと言って……リリアーヌの座を奪おうとしていた」


 それは、この身体の持ち主が、かつて彼女に浴びせ続けた、醜い嫉妬の言葉たち。


「……でも、俺は」


 わずかな間を置いて、カイルは低く息を吐いた。


「リリアーヌが大切すぎるあまり……お前のことを、正しく見ようとしなさすぎたのかもしれない」


「カイル……。ううん、それは……あんたが悪いわけじゃ……」


「分かってる」


 遮るように、彼は首を振る。


「お前のこれまでの行いは、到底許されるものじゃない。それは事実だ。……それでも、リリアーヌが聖女候補として世間の話題に上がるたびに、俺は思ってしまったんだ。『まだ彼女は子供なのに、どうしてこんな重荷を背負わされる』って」


 そして、そこで初めて。

 カイルは、私の方を向いた。


「……お前も、まだ子供なんだよな」


「…………」


 言葉が、出なかった。

 カイルが、そんなふうに考えていたなんて。

 原作には、確かに書かれていなかったはずの感情。


「……まだ、完全に信じられるわけじゃない」


 彼は視線を逸らし、言葉を選ぶように続ける。


「俺はリリアーヌが好きだし、大切だ。彼女を傷つける奴は、たとえお前でも絶対に許さない。……だけど」


「カイル?」


 一瞬、気まずそうに視線を彷徨わせてから。

 意を決したように、彼はぶっきらぼうに言い切った。


「……今の、お前のことを、悪女だとは思わない」


「え……」


「あと……」


 顔を背け、耳まで赤くしながら。


「……その藍色のドレス。似合ってるぞ」


 その瞬間。

 今日一日、ずっと喉の奥に引っかかっていた、冷たくて鋭い何かが、一気に溶け落ちた気がした。


「アハハッ!!」


 私は今日、初めて。

 お腹の底から声を上げて笑った。


「なっ……! な、何を笑ってる! せっかく人が……!」


「あはは、ごめん、ごめんねカイル……! ふふっ、ありがとう。本当に……嬉しいわ」


 可笑しくて、嬉しくて、少しだけ泣きそうだった。

 アシュレイ殿下の眩しすぎる光でもなく。

 ギルバート殿下の、毒を含んだ執着でもない。


 ――私を嫌いだと言い切った男が。

 私が選んだ「目立たないためのドレス」を、認めてくれた。


「……ふふ。あんたって、本当に不器用な騎士様ね」


 目尻の涙を拭い、私は清々しい気持ちで彼を見上げる。

 月光の下。今日初めて、悪女ではない私として、呼吸ができた。


(……生き延びられる)


 胸の奥に、静かな確信が灯る。


(私、まだ……頑張れるわ)


 この不器用な騎士が、隣に立ってくれている間だけは。

 最悪のシナリオでさえ、書き換えられる気がして。


 そんな、根拠のない希望が――

 月明かりのように、胸を満たしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る