第32話 月の下で息をする

 夜の庭園は、思っていたよりもずっと静かだった。

 背後の会場から漏れてくる狂騒も、王族たちの放つ眩い光も、厚い夜の帳に遮られて、ここまでは届かない。あるのは、冷徹なまでに澄んだ月明かりと、肌を刺すような夜風だけ――場違いな私を、無遠慮に包み込んでいる。


 ――逃げ切った。


 そう思った瞬間、張り詰めていた生存本能の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。


「……いい加減にしろ、エルゼ!」


 乱暴に腕を振り払われ、私はよろめいて足を止める。

 月光を背にしたカイルは、苛立ちを隠そうともせず、射抜くような視線で私を睨みつけていた。


「この手を離せ。俺は、お前の都合で連れ回される駒じゃない」


 正論だった。

 ぐうの音も出ないほど正しくて、胸の奥に鋭く突き刺さる。


(……うん、そうよね。本当に、その通り)


 私は、いつもそうだ。

 追い詰められ、逃げ場がなくなると、なりふり構わず誰かを巻き込んで逃げる。説明もしない。理解も求めない。ただ、自分が助かるために、他人の「正義」を土足で踏み荒らす。


 本当は、深く頭を下げて謝るべきなのに。

 ここで「ごめんなさい」と言って彼を解放し、また一人に戻るべきなのに。


 ――でも。


 顔を上げた瞬間、カイルが次に吐き出そうとしていた罵倒が、喉の奥で止まったのが分かった。

 月明かりの下、彼の視線の鋭さが、一瞬だけ戸惑うような色に濁る。


「……エルゼ?」


 たぶん、私は今、ひどい顔をしている。

 泣いてはいない。声も震えていない。けれど、笑顔を貼り付けるだけの余力が、もう一滴も残っていなかった。


 疲れていた。

 本当に、どうしようもないほどに。


 華やかな愛嬌も、冷徹な計算も、生き延びるための立ち回りも。

「破滅を避ける」ために必死に被ってきた仮面は、今夜の出来事に耐えきれず、音もなく砕け散っていた。


「……カイル」


 自分でも驚くほど、枯れ果てた静かな声が出た。


「お願い。今だけでいいから……私のそばに、いて。どこにも行かないで」


 縋るつもりなんてなかった。

 淑女の武器である泣き落としをする気もなかった。


 ただ――これ以上、この冷たい夜の闇で、一人になるのが死ぬほど怖かった。


「少しでいいの。私の味方になんてならなくていい。軽蔑したままでいいから……ただ」


 震える指先で、自分の腕を抱きしめる。


「今、私が……私一人で立っているのが、もう、無理なの」


 沈黙が落ちた。

 風に揺れる木の葉のざわめきと、遠くの噴水の虚ろな水音だけが、やけに鮮明に鼓膜を叩く。


 カイルは、しばらく何も言わなかった。

 剣を握る手に青筋を立てたまま、彫像のように私を見つめている。


(……怒ってる、よね。呆れてるよね)


 リリアーヌを世界で一番大切に思う彼にとって、私は「警戒すべき猛毒」で、「信用に値しない虚言癖の女」なのだから。


 ――それなのに。


「……そんな顔で、よく言えたものだな」


 吐き捨てるような、低い声。


「そんな、今にも消えそうな顔をされて……背を向けて行けるほど、俺は非道じゃない」


 一歩、彼が近づく。

 私は逃げない。もう、逃げる力すら残っていない。


 カイルは私の隣に立った。

 触れ合えば熱が伝わりそうなほど近く、それでも決して触れない、絶妙な距離で。


「勘違いするな。お前の味方になる気は微塵もない」


 そう前置きしてから、月を見上げる。


「……今夜だけだ。ここにいるくらいはしてやる」


 胸の奥で、張り詰めていた何かが、音を立てて崩れ落ちた。


「あ……ありがとう……」


 それだけを、かろうじて絞り出す。


 月明かりの下、並んで落ちる二つの影。

 主と騎士でも、悪役令嬢と監視役でもない。

 ただ、摩耗しきった一人の人間と、それを見過ごせなかった、あまりにも実直な一人の騎士。


 沈黙に耐えきれず、私はぽつりと、行き場のない言葉を零した。


「……私、さ。必死なんだよ」


 自嘲気味に、少しだけ笑う。

 命懸けの告白なのに、どこか他人事みたいで。


「生き残るのに、必死なの」


 カイルの視線が、ゆっくりとこちらを向く。

 でも、私は彼を見なかった。見てしまったら、隠していた本音が全部溢れ出してしまいそうだったから。


「何もしなければ、ただの傲慢な悪女。何かをすれば、狡猾な策を巡らす女……どう転んでも嫌われて、疎まれて、最後には捨てられる未来が確定してる」


 肩をすくめ、力なく笑う。


「だったら、少しでも被害が少ない道を選びたいじゃない? 誰にも迷惑をかけず、静かに消えられる場所を」


 冗談めかした口調の裏で、心臓がじくじくと痛んだ。


「リリアーヌはね、本当に光みたいな子なの。優しくて、純粋で、まっすぐで……私みたいな影が隣に立ったら、その輝きを汚してしまいそうで」


 冷たい息を吐く。


「だから、端っこにいればいい。空気みたいに、背景みたいに。誰の物語にも入り込まなければ、誰も傷つかなくて済む……そう信じてきたのに」


 声が、わずかに震えた。


「それでも、逃げ場がなくなる瞬間って、あるんだね」


 今夜の会場。

 好奇の視線。善意という名の無理解。


「誰かに見られるたびに、『ああ、また悪役の顔を期待されてる』って分かるの。弁解しても無駄。何を言っても、私の言葉は悪女の嘘として処理される」


 そこで、ようやくカイルを見る。

 月光に照らされた横顔は、峻厳で、それでも静かだった。


「……疲れたの。もう、笑えないくらいに」


 たった一言。

 それ以上に剥き出しの真実はなかった。


 カイルは月を見上げたまま、ぽつりと言う。


「……面倒な女だな。お前は」


 でも、その声に、もう最初の棘はなかった。


「分かってる。だから、誰にも見せないつもりだった……あんた以外には」


「選んだ理由は」


「……あんただけが、私を正気で見てくれるから。勝手な理想も、余計な期待も押し付けない。ただの、手に負えない厄介な女として扱ってくれる。その距離感が、今は一番、救われるの」


 また、沈黙。

 けれどそれは、凍りつくものではなく、微かな温度を帯びていた。


「……逃げ続ければ、いつか限界が来る」


「……うん。今日が、その日だったのかも」


 小さく笑う。不思議と、心は穏やかだった。


「でも、大丈夫。今……ほんの少しだけ、息ができたから」


 カイルは何も返さない。

 ただ、月明かりの下、剣を携えたまま、揺るぎない壁のように私の隣に立ち続けている。


 今夜、私の世界に「何も求めず、ただそこにいてくれる誰か」が現れた。


 それが、これほどまでに救いになるなんて、思いもしなかった。

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