第31話 遠ざけたはずの名前 #アシュレイ目線
彼女が嵐のように去った後の会場は、まるで幕が下りた後の舞台のような、奇妙で空虚な静寂に包まれていた。
華やかな弦楽の調べも、貴族たちの空疎な笑い声も、確かにまだそこにある。けれど、つい先ほどまでこの空間の「熱」の中心にあった何かが、すっぽりと抜け落ちてしまった――そんな言いようのない違和感だけが、澱のように胸の奥へと沈んでいく。
(……エルゼ・ヴァレンティ)
無意識のうちに、その名を舌の上で転がすように、心の中でなぞっていた。
そんな自分自身に、微かな驚きを覚える。
これまで、僕は彼女を一体どう定義してきた?
傲慢で、独善的。常に己の欲望を最優先し、他者を踏み台にしてでも、自分が一番でなければ気が済まない女。
魔力を持たないという、貴族社会における致命的な欠陥を抱えながら、その劣等感を隠すために家柄と美貌を盾にし、聖女候補であるリリアーヌを執拗に追い詰めて傷つける――。
そんな、あまりにも典型的な悪女だと、疑いもしなかった。
正直に言えば、かつて彼女から向けられていた好意は、僕にとって迷惑でしかなかった。
投げかけられる視線も、紡がれる言葉も、すべてが計算高く、どこか芝居がかっていて空虚に見えた。
彼女は僕という「一人の人間」ではなく、「ソルフェリナの王子」という肩書きにしか興味がない――そう思い込むのは、あまりにも容易だったのだ。
(……だが、本当に、そうだったのか?)
今日の彼女は、僕の記憶に刻まれているエルゼとは、あまりにも――決定的なまでに違っていた。
夜の闇に溶け込むような、慎ましい藍色のドレス。
華やかな光を避け、会場の隅で静かに息を潜めていた姿。
誰かの視線を集めることを極端に恐れ、誰かを押しのけてまで目立とうとすることもなく、ただ透明な存在になろうと必死にもがいていたあの危ういほどの謙虚さ。
そして――エルゼを捜していた時、リリアーヌが涙ながらに零した言葉が、今になって胸を強く打つ。
『お姉様は、本当は誰よりも優しくて、温かい方なんです』
『私を、聖女という「象徴」ではなく、「リリアーヌ」という一人の妹として見てくれた……』
『私に、真っ直ぐに向き合ってくれる……そんな人なんです』
最初は、無邪気で心優しいリリアーヌ特有の、身内への贔屓目だと思った。
だが、先ほど彼女に抱きつかれた時の、エルゼの狼狽しきった表情。そして、僕が近づいた瞬間に見せた、あの絶望に近い色を湛えた瞳。
(あれは……嫉妬に狂った人間の顔なんかじゃない)
むしろ――。
自分の存在そのものが、周囲に害をなすと信じ込み、そこから必死に逃れようとする者の、悲痛な顔だった。
自分が悪役として忌み嫌われていることを、誰よりも深く理解していて。
だからこそ、前に出ることも、汚名を弁解することも放棄し、ただ自分の世界が壊れないように、誰かを壊さないようにと、ひたすら慎重に生き延びている――。
その、あまりにもひたむきで孤独な在り方に、僕は。
(……僕は、ひどく傲慢な正義を振るっていたのかもしれないな)
分かったつもりで、理解した気になって。
彼女には悪役という、都合のいい役割が似合うのだと決めつけてレッテルを貼り、その瞳の奥にある真実に手を伸ばそうともしなかった。
気づけば胸の奥底に、まだ名前のつかない熱が芽生えていた。
それは一方的な同情とも、浅はかな好奇心とも、ましてや甘い恋とも、すぐには呼べない感情。
けれど、はっきりしていることが一つだけある。
(――もっと、深く。君の心に触れてみたい)
エルゼ・ヴァレンティという人間が、何を恐れ、何を守るために、あんなにも震えていたのか。
彼女が本当は、どんな色で、どんな声で笑うのか。
それを知ろうともせずに、彼女を「悪」と断じる資格など、もはや僕にはない。
アシュレイは、彼女がカイルを連れて走り去った、闇深い庭園の方角を、静かに見つめ続けていた。
今は、追いかけない。それが彼女をさらに追い詰めることになると、ようやく理解したから。
だが、藍色のドレスを翻して去っていったあの背中は、網膜に、そして心臓の奥深くに、消えない残像として焼き付いている。
(次に会うときは……きっと、今までのような王子と悪女ではない)
この変化が、彼女にとって救いとなるのか、あるいはさらなる混乱の始まりなのかは、まだ分からない。
それでも――。
エルゼ・ヴァレンティは、もはや僕にとって「遠ざけるべき不快な存在」ではなかった。
彼女は今、アシュレイ・ソルフェリナという人間の心に、決して抜けない鋭い楔を、確かに打ち込んでしまったのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます