第30話 これは乙女ゲームですか? いいえ、地獄です

 アシュレイ殿下からの、まさかの「興味津々宣言」。

 手の甲に残る熱を帯びた感触と、周囲の貴族たちのどよめき。

 私は引き攣りそうになる頬の筋肉を必死に制御しながら、もはや芸術の域に達した愛嬌の笑みを貼り付けていた。


(殿下、お願いだから正気に戻って! 私はあなたの未来を邪魔する悪なのよ! 早くリリアーヌの元へ戻って、「やっぱり君が一番だ」って愛の囁きをしてちょうだい!)


 心の中で必死に念じつつ、私は救いを求めるようにリリアーヌへと視線を向けた。

 つい先ほどまで「お姉様の良さが伝わって嬉しい!」と、天使の純真さ全開で微笑んでいた彼女。だが――アシュレイ殿下が私の手を取り、熱のこもった視線を注ぎ続けているのを見た瞬間、その表情が、刻一刻と変化していく。


(……えっ、待って。リリアーヌ、なんでそんなに顔が暗くなってるの!?)


 眩しかった彼女のオーラが、見る間に曇天へと変わっていく。

 瞳から輝きが消え、代わりに、言葉にならないドロリとした感情が滲み出しているようで――。


(ああ、そうよね!! そうなるわよね!! 私が邪魔なのよね!! せっかくの殿下との甘い時間を、この厚かましい姉が横取りしてるように見えるわよね!! ごめんねリリアーヌ、今すぐ私はこの場から消え去るから……!)


 私は彼女の嫉妬という名の悲しみを感じ取り、猛烈な罪悪感に襲われた。

 そして、アシュレイ殿下の手を強引に引き抜き、逃げ道を探そうとした――その瞬間。


「……お姉様」


 不意に、リリアーヌが私のもう片方の腕を、ぎゅっと掴んだ。

 それは、アシュレイ殿下よりも強い力で。

 そして彼女は、私の脇腹に頭を預けるようにして、再び抱きついてきた。


「……リリアーヌ?」


「アシュレイ殿下ばかりズルいです。……お姉様、私ともお話しましょう? 私のお姉様なんですもの」


 少しだけ頬を膨らませ、拗ねたように見上げてくるリリアーヌ。

 その瞳に宿っていたのは、殿下への嫉妬――ではない。明らかに、「殿下に私を奪われること」への不満だった。


(違うわリリアーヌ!!! 矛先が逆よ!!!

 貴女が取り合うべきは殿下であって、私じゃないわ!!)


 私の脳内では、数千人のエルゼが一斉に頭を抱えて転げ回っていた。


「リリアーヌ嬢、独り占めは感心しないな。僕も彼女と話したいことが山ほどあるんだ」


 困ったように、けれどどこか楽しげに、アシュレイ殿下が身を乗り出す。


「いいえ。今日はお姉様を一番に探したのは私です。ですから、今は私の時間ですわ」


 リリアーヌは一歩も引かず、私の腕を抱く力をさらに強めた。


(やめて……二人ともやめて……! 攻略対象とヒロインが、悪役令嬢を挟んで綱引きするなんて、どんなバグなの!? どんなクソゲーよ!!)


 周囲の貴族たちの視線は、もはや困惑を通り越して、「一体、エルゼ・ヴァレンティは何をしたんだ……?」という、戦慄に近いものへと変わっていた。


 アシュレイ殿下とリリアーヌ、その両方に挟まれ、私は笑顔という名の仮面が剥がれ落ち、魂が口から抜けていくのを感じていた。


(神様……。私、今からでも噴水に飛び込んできていいかしら。この状況より、物理的に冷やされた方がマシな気がするわ……)


 まさに、豪華絢爛な地獄のど真ん中。

 私は物理的にも精神的にも、引き裂かれる寸前だった。


(助けて。誰か、この異常事態を止めて。攻略対象とヒロインが悪役令嬢を奪い合うなんて、そんな話聞いてないわよ……!)


 意識が遠のきかけたその時。

 背後から、凍てつくようでいて、どこか愉悦に満ちた囁きが響いた。


「やあ、随分と賑やかだね。……俺の獲物を囲んで、一体何の話かな?」


 ――ギルバート殿下、再登場。


(ひ、ひぃぃぃ! 第二の刺客きたぁぁぁぁぁ!!!)


 彼は優雅な足取りで輪の中へ割って入り、その瞳は、先ほど噴水で私を捕らえた時以上にギラついていた。

 好奇心と独占欲をブレンドした、最も関わってはいけない色。


「ギルバート? 君も、エルゼに用があるのかい?」


「ええ、兄上。……彼女は先ほど俺の腕の中で、なかなか面白い悲鳴を上げてくれましてね。その続きを聞こうかと」


(バカァ!! その言い方は誤解を招くって言ってるでしょ!!)


 アシュレイ殿下の目が据わり、リリアーヌの抱きしめる力がさらに強まる。

 王子二人と聖女候補一人。

 本来なら乙女ゲープレイヤーが歓喜するはずの状況――だが、当事者の私にとっては、全方位からの一斉掃射に等しかった。


「……っ、う、ううぅ……」


 語彙力が死にかけ、視線を彷徨わせた、その時。

 少し離れた柱の陰で、この異常すぎる光景を、冷めた……いや、完全にドン引きした眼差しで見つめる人物と目が合った。


 ――カイル・ロストール。

 リリアーヌの守護騎士。


(カイル……!! そう、その反応よ! その『何だこの茶番は……』って顔こそ、この世界で唯一の正論だわ!!)


 私の中で、火事場の馬鹿力にも似た生存本能が炸裂した。

 この場から脱出するには、このカオスに一切加担していない正気の第三者を利用するしかない!


「……あ! 私、カイルと大事な用があったのを思い出しましたわ!」


「……は?」


 素っ頓狂な声を上げるカイル。


「そうなの! 急ぎの用事ですの! ごめんあそばせ、殿下たち! リリアーヌもまた後でねっ!!」


 私は驚異的な瞬発力で二人の手を振り払い、獲物に飛びかかる豹の勢いでカイルに突進した。

 彼の逞しい腕を掴み、そのまま会場の奥へと引きずる。


「おい、何を……ッ! 離せ、エルゼ!」


「いいから来て! 今この瞬間、私の命を救えるのは、あんたのその冷たい視線だけなのよ!!」


 背後から飛んでくる三方向の追跡ボイスを全力で無視し、私はカイルを盾にするようにして、夜の静寂が広がる庭園へと駆け出した。


(ごめんカイル! あとでいくらでも睨まれてあげるから、今はとにかく――あの異常者たちの包囲網から、私を連れ出して!!)


 煌びやかな喧騒が遠ざかり、冷たい夜風が頬を打つ。


 混乱するカイルを引き連れ、私は暗い庭園の奥深くへと、なりふり構わず突き進むのだった。

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