第29話 悪役令嬢は目立ちたくない

 会場の隅、最も影が濃く、最も目立たない場所にひっそりと立つ。


(生きている……。私、まだ生きてる……!)


 差し出された銀盆から、とにかく一番冷えた炭酸水をひったくるように受け取り、一気に喉に流し込む。喉を焼くような刺激が、パニックで沸騰していた脳を少しだけ冷却してくれた。

 藍色のドレスの重みを感じながら、私は壁の一部になりきろうと、再び「気配遮断」のスキルを最大出力で発動させる。


 あとは、このまま宴が終わるのを待つだけ。

 リリアーヌとアシュレイ殿下が、今頃どこかドラマチックな場所で、二人だけの甘い時間を過ごしてくれていれば、私の任務はコンプリートだ。


 ――そう、思っていたのに。


「……お姉様! ああっ、お姉様っ!!」


 会場の喧騒を突き抜けて、鈴の音のような、けれど今は私にとって「破滅の呼び笛」にしか聞こえない愛らしい声が響いた。振り返る間もなく、柔らかな感触と、百合の花のような甘い香りが私に激突する。


「お姉様! 探しましたわ、ずっと探していたのですからっ……!」


 リリアーヌが、私の腰に全力で抱きついていた。その大きな瞳には今にもこぼれ落ちそうな涙が溜まり、潤んだ視線が私を真っ直ぐに見つめている。


(ひ、ひぇぇぇっ!? リ、リリアーヌ!?)


 ちょっと待って。なんでここにいるの!? アシュレイ殿下はどうしたの!?

 今、あなたたちがバルコニーで月を見ながら「君の瞳は星より美しい」的なセリフを交わして、私の死亡フラグを根こそぎ折ってくれているはずの時間じゃないの!?


「急にお姿が見えなくなるものですから、私、心配で、心配で……!」


 そう言って私の胸に顔を埋めるリリアーヌ。

 ……可愛い。めちゃくちゃに可愛い。前世で徳を積み忘れた私に、こんな天使が懐いてくれるなんて、これだけで今世に悔いはないかもしれない。私はリリアーヌの柔らかな髪をおそるおそる撫でながら、一瞬だけ現実逃避の癒やしに浸った。


(ああ、癒やされる……。リリアーヌ、あなたは本当に私の救い……)


 だが、その安らぎは、周囲から突き刺さるような視線によって瞬時に打ち砕かれた。


(……え? 何、この空気。凍てついてる……?)


 ふと視線を上げると、そこにはパーティーを楽しんでいるはずの貴族たちが、一斉にこちらを……正確には「私」を、汚物を見るような、あるいは冷酷な断罪を下すかのような冷たい目で見つめていた。


「見なさい、またエルゼ嬢がリリアーヌ様を……」

「今度はあんな人気のない場所へ連れ出して、何を吹き込んだのかしら」

「聖女候補のリリアーヌ様をあんなに泣かせるなんて、なんて底意地の悪い……」


 ヒソヒソという呟きが、鋭いナイフのように耳に飛び込んでくる。


(……そ、そうだ。忘れてたわ!!!)


 私は天を仰いだ。心の中で、全力の叫び声を上げながら。

 周りから見れば、これは「仲の良い姉妹の再会」なんかじゃない!

「性格最悪な悪女エルゼが、可憐で無垢な時期聖女候補のリリアーヌを隅っこに追い詰め、泣くまで虐めている現場」なのだ!!


(違うの! これ、抱擁なの! 姉妹愛なの! 虐めてない! むしろ私が精神的にボコボコにされてる方なのよ!!)


 しかし、私の「愛嬌」スキルも、この圧倒的な「悪役としての固定概念」の前では、紙切れ一枚の防御力も持たなかった。


 リリアーヌを優しく引き剥がそうとすれば「拒絶した」と言われ、このまま抱き合っていれば「無理やり拘束している」と言われる。

 私はもはや、笑顔を貼り付けたまま固まるしかない、詰みの状態に陥っていた。


(お父様……マーサ……。助けて……。ここ、噴水より寒い。社会的な意味での氷河期が来てるわ……!)


 私は絶望に染まった瞳で、華やかな会場の天井を見つめ、ただただ「透明になりたい」と願うしかなかった。

 抱きついてくる天使リリアーヌの愛らしさが、今や私を社会的に抹殺する最強のギロチンにしか見えない。


(終わった。私の社会的な死が、今ここで確定したわ……)


 絶望のあまり白目を剥きかけ、意識をどこか遠い銀河系へ飛ばそうとしたその時。


「――エルゼ嬢」


 会場の騒めきを割って、心地よい風のように爽やかで、けれど逆らえない重みを持った声が響いた。


 アシュレイ・ソルフェリナ。

 この物語の光り輝く主人公が、後光を背負ってこちらへ歩み寄ってくる。


(ひぃっ! ついに断罪される!)


 私は反射的にリリアーヌを離し、一歩、いや三歩ほど後ずさった。

 ところが、アシュレイ殿下は涙目のリリアーヌを優しく一瞥して安心させるように微笑むと、あろうことか、私に向かって手を差し出したのだ。


「えっ……?」


 呆然とする私の手。それを彼が、驚くほど滑らかな動作で包み込む。そして、跪くような姿勢で、私の手の甲に――羽が触れるような、柔らかな唇を落とした。


「……無事に見つかってよかった。探し回ったよ、エルゼ」


(……は??)


 脳内の計算機がエラーを起こし、火花を散らして爆発した。

 周りの貴族たちも「え、何が起きたの?」「殿下がエルゼ嬢に……!?」と、先ほどまでの冷たい視線をどこかへ放り投げて困惑の渦に叩き落されている。


「リリアーヌ嬢がずっと、君がいなくなったことを心配していたんだ。彼女と一緒に君を捜しながら、道すがら色々と君の話を聞かせてもらったよ」


(リリアーヌ……あなた、一体何を喋ったの!? )


 アシュレイ殿下は立ち上がると、これまで私に向けたことがないような、熱を帯びた、けれどどこか反省を含んだ深い眼差しで私を見つめた。


「……どうやら、僕が見ていた『君』という人間は、ほんの一側面に過ぎなかったようだ。今日のリリアーヌ嬢への接し方、そして……この藍色のドレスを選んだ君の真意」


(あー、ちょっと待って。殿下、それ以上は言わないで。その深読みはただの誤解よ! 私の真意は死にたくない、ただそれ一点なの!)


 私が必死に口を開いて反論しようとするのを、殿下の優しい声が遮る。


「僕は、君のことを何も分かっていなかったのかもしれない。……エルゼ、僕ももっと、君のことが知りたくなったんだ」


(終わった!!!!!)


 心の中で、盛大な断末魔の叫びを上げた。

 知りたくなくていい! 興味を持たなくていい! 私のことは「空気」か「背景のゴミ」だと思って、リリアーヌだけを見ていればいいのに!


 攻略対象の第一王子から、まさかの興味津々フラグが立ってしまうなんて。


 リリアーヌは「お姉様の良さが伝わって嬉しい!」という顔でニコニコしている。

 アシュレイ殿下は「新世界を発見した冒険家」のような顔で私を見ている。


(帰りたい。今すぐ、この世界からログアウトしたい……!)


 煌めくシャンデリアの下、私はかつてない「愛嬌」の限界を超えた引きつり笑いを浮かべながら、もはや修復不能なまでに混線してしまった運命の糸を前に、立ち尽くすしかなかった。

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