第28話 月光に囚われた策士 #ギルバード目線

 遠ざかっていくヴァレンティ公爵の重苦しい足音と、それに必死に食らいつく、藍色のドレスの少女の騒がしい気配。

 そのすべてが完全に消え去るまで、俺は月光の下で一人、唇に指を当てて立ち尽くしていた。


「……面白いものを見たな」


 低く、冷たい独り言が、水音に混ざって夜の闇に溶ける。

 指先には、さっきまで抱きしめていたエルゼの腰の感触と、必死に俺を押し返そうとしていた微かな熱がまだ鮮明に残っていた。


 エルゼ・ヴァレンティ。

 傲慢さをそのまま煮詰めて形にした女。

 十歳の頃、初めて顔を合わせた時の印象は、今でも鮮明だ。

「退屈」と「不快」、それだけで、彼女の存在は俺にとって解析する価値すらなかった。


 当時の彼女は、己の美貌と家柄という、本人のものではない力に溺れた、ただの空っぽな人形だった。

 気に入らないことがあれば金切り声を上げ、周囲を威圧し、兄上の視線を引くために見え透いた嘘を並べる。

 考えることを放棄した愚か者。

 俺にとって彼女は、道端の石ころを観察するよりも価値のない存在だった。


 ――それが、どうしたことだ?


 先ほど、腕の中で必死に背景モブになろうともがいていたあの姿。

 以前の彼女なら、俺に抱きしめられた瞬間に「不遜だ」と怒り狂うか、あるいは媚びを売ろうとするかのどちらかだったはずだ。だというのに、彼女が選んだのは、その場しのぎの「愛嬌」という名の泥臭い防衛戦。


 そして――あのヴァレンティ公爵を相手に、堂々と物理的な「甘え」を駆使し、あそこまで牙を抜くとは。

 たしか親子仲は壊滅的だと聞いていたが、ここまでやるとは思わなかった。


「あの絶望しきった目……それでいて、生への執着だけはギラついていた。まるで、自分が死ぬ未来を予見しているかのような」


 思い出すだけで、唇の端が歪む。

 以前の彼女がまとっていた、不快な圧迫感――まるで毒を撒き散らす香水のようなそれは消え、代わりに今の彼女からは、知的好奇心を刺激する違和感が漂っている。


 猫を被っているのか?

 それとも、空っぽだった脳に、ようやく何らかの知性が宿ったのか。


 俺は、廊下の向こうに消えていった二人の後ろ姿を、獲物を狙う猟犬のような目で見据えた。

 かつては兄上に固執していたはずの彼女が、今は全力で逃げようとしている。その理由も、裏にある策略も、まだ何一つ読み取れない。


「……いいだろう、エルゼ・ヴァレンティ」


 かつて見下していた「愚かな女」は、今、俺の中で「解析すべき謎」へと昇格した。

 一度食らいついたら離さない、ソルフェリナの血筋の性質を、彼女はまだ知らないらしい。


「精々、次はもっと上手く隠れてみせろ。……暴き甲斐があるというものだ」


 俺は冷たい噴水に背を向け、煌々と明かりが灯る会場へ、ゆっくりと足を向けた。

 今夜の晩餐会は、当初の予定よりもずっと、有意義なものになるだろう――いや、なるに違いない。

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