第27話 愛嬌で生還します!

 静寂と殺意の噴水広場。

 ギルバート殿下の「愛らしい」という、まるで火薬庫に松明を投げ込むような一言が投下された瞬間、お父様の背後から吹き出した負のエネルギーが、物理的な突風となって私の前髪を激しく揺らした。


(ひ、ひぃぃぃ……ッ! これ、アカンやつ……! 今世紀最大のアカンやつよ、エルゼ!)


 お父様の眉間の皺は、もはや深い裂け目のようだった。

 額には青筋が血管網のごとく浮かび、握りしめられた拳は「ミシミシ……メキィ……」と、人間から発せられてはいけない不穏な音を立てて肉に食い込んでいる。

 このままでは明日、王都中の新聞に「ヴァレンティ公爵、実の娘を噴水に沈める」という物騒な見出しが躍り、私の更生ライフが血塗られたデッドエンドに直行する未来が、スローモーションで見えてしまった。


(逃げちゃダメだ……! ここは私の「愛嬌」という名の最大防御スキルを、全出力で叩きつけるしかない……ッ!)


 私は、絶望に両手で頭を抱えていた姿勢から、まるで強力なバネを仕込んだ操り人形のように飛び起きた。そして、お父様とギルバート殿下の間に、特攻隊さながらの覚悟で割って入る。


「……っ、ふふ、ふふふっ。お父様! 見てください、お父様っ!」


 半ば涙目になりながらも、顔面全体の筋肉を総動員し、満開の花――というより、もはや発光ダイオードばりの輝きを放つ笑顔を、お父様の至近距離で炸裂させた。


「ギルバート殿下は、その……私のあまりに壊滅的な運動神経を、ユーモアたっぷりに励ましてくださっただけですの! 私、本当におっちょこちょいですわね……っ。お父様をこんなにハラハラさせてしまうなんて……っ、ふふ、うふふふふ! お恥ずかしいわ!」


 必死。

 もはや「愛嬌」の定義を軽々と飛び越え、「狂気」に近い微笑みだった。私はそのまま、お父様のガチガチに固まった、岩塊のような右腕を両手でぎゅっと抱きしめる。


「もうっ! 殿下ったら冗談がお上手すぎて、お父様が本気で驚いてしまわれましたわ。……さあ、お父様! 私、踊りすぎてお腹が空いて……あ、じゃなかった、喉が渇いて渇いて、干からびてしまいそうですの! 一緒に会場に戻って、一番冷たいお飲み物を取ってきてくださいませんか?」


 お父様の鋼のような瞳が、ほんのわずかに揺れた。

 この世の終わりのような必死さと、あまりにも不自然すぎる猫なで声の甘え作戦に、呆気にとられたのかもしれない。


「エルゼ、貴様……」


「お・ね・が・い、ですわ! 素敵なお父様のエスコートがなければ、私、不安でまた足が縺れて転んでしまいます!」


 私は文字通り全身の体重をこれでもかと預け、お父様の腕を引き、ギルバート殿下から背を向けさせる「強制ターン」を実行した。

 背後から「くくっ、面白いな」という笑い声が聞こえたが、今は完全スルーだ。振り返ったら負ける。


 お父様はしばらく無言で、底知れぬ深淵のような目で私を見つめていたが、やがて――


「フゥゥゥ……」


 大地の底から響くような、深く、深い溜息を吐き出した。


「……致し方ない。これ以上、殿下に不快な思いをさせるわけにもいくまい。行くぞ、エルゼ」


(よし、乗ったぁぁぁ!! お父様の鎮圧、および懐柔に成功したわ!!)


 拳から、ゆっくりと、しかし確実に殺意が抜けていくのを感じる。

 私はそのまま、絶対に離さないと言わんばかりに腕を絡め、猛牛を引きずる闘牛士のような執念で、お父様を会場へと連れ戻した。


 廊下を戻る間、お父様は一度も私と目を合わせなかった。

 けれど、私を導く腕の力は驚くほど穏やかで――この無茶苦茶な「愛嬌」という名のゴリ押しを、彼は彼なりのやり方で受け入れてくれたのだと、私は確信していた。


(はぁぁ……。リリアーヌと殿下の仲を取り持つどころか、自分の首の皮一枚を繋ぎ止めるだけで精一杯だったわ……)


 煌めくシャンデリアの下、再び騒がしい会場に戻り、私はようやく肺に溜まった空気を吐き出した。

 母から譲り受けた藍色のドレスは、冷たい夜風と、お父様が放った負のオーラをたっぷりと吸い込み、少しだけ重くなっていたけれど。


(でも、お父様に殺されず、ギルバート殿下の手からも生還した! 今日の私は、間違いなく公爵家の、いや、世界のMVPよ!)


 私は再び、お父様の横で淑女の仮面を貼り付け、愛嬌たっぷりの微笑みを浮かべ直す。

 次の波乱が訪れる前に、とりあえず胃薬代わりに一番強い炭酸水を飲み干そう。


 私の生存を懸けた神経衰弱は――まだ、終わっていないのだから。

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