第26話 父と王子に追い詰められてます

 月光に青白く照らされた噴水広場。

 逃げ場のないギルバート殿下の腕の中。至近距離で見つめられる、獲物を弄ぶ策士の冷徹な瞳。


(心臓が……心臓が持たない! 誰か、誰か助けて! でもアシュレイ殿下やリリアーヌは絶対呼ばないで! ややこしくなるから!)


 私は渾身の力でギルバート殿下の胸板を押し返そうとした。

 しかし、華奢に見える彼の腕は、まるで魔法で固定された岩のようにびくともしない。さらに、彼が唇を歪め、私の耳元に甘く危険な吐息を寄せようとした――その瞬間だった。


「――そこで何をしている」


 夜の空気が一瞬で凍りつき、周囲の虫の声さえ絶命したかのような、地を這う重低音。背筋に電流が走り、喉の奥から「ヒッ……」という情けない悲鳴がこぼれ落ちた。


 錆び付いた人形のように首を巡らせると――そこには。漆黒の礼装に身を包み、この世の憤怒を全て煮詰めて形にしたかのような、世にも恐ろしい顔をした父、ヴォルガードが立っていた。


(お、お、お、お父様ぁぁぁあああ!!!???)


 その表情は、食卓での不器用な沈黙や、ドレスの仕立てを静かに見守っていた時とは比べものにならないほど、正真正銘の「冷酷無慈悲な公爵」そのもの。

 眉間の皺は岩を断つほどに深く刻まれ、瞳の奥には、今すぐ私を粉砕し跡形もなく消し去りかねない絶大な威圧感が渦巻いている。


「お父、様……。これは、その、あの……事故、でして……」


 私の震える細い声など、父の耳には届かない。視線は、腰に無遠慮に回されたギルバート殿下の腕に一点集中で釘付けだ。一歩、また一歩と踏み出すたびに、石畳が悲鳴を上げるかのようにミシリと鳴る。これぞ本物の覇王の気迫。


(待って、お父様! 顔! 顔がいつもより五割……いや、三倍は怖いですわ! もはや魔王の風格……! 『またエルゼが卑怯な真似を』って激怒してるのね!?)


 私はパニックのあまり、拘束されていたギルバート殿下の手を振り払い、千鳥足で父の方へ転がるように駆け寄った。


「お父様、誤解です! 邪な気持ちなんてこれっぽっちも! 私はただ、不可抗力で足元が滑って……!」


「……エルゼ。貴様は、あれほど自重しろと言った矢先に、このような場所で殿下を誘惑していたのか」


(違うの! 誘惑されたのは私の方……じゃなくて、一方的に捕獲されただけなの! 助けてもらった恩義どころか、今すぐ逃げ出したい恐怖しかないの!)


 父の瞳が鋭く冷徹な光を放ち、私を射抜く。

 それは、愛する娘を見る目ではない。

 罪人を断罪する裁判官の眼差しであり、同時に「信じていたものに裏切られた」かのような激情が滲んでいる。


 隣ではギルバート殿下が、余裕の笑みを一分たりとも崩さず、優雅に肩をすくめてみせた。


「おやおや、ヴォルガード公爵。そう怖い顔をしないでください。私はただ、エルゼ嬢が転びそうになったところをエスコートしていただけですよ」


「……殿下。不束な娘が失礼を。エルゼ、今すぐ私の後ろへ来い」


(あ、圧倒的……拒絶感……!!)


 父の太い指が私の腕を痛いほどぐいと引き寄せる。その手は焼けるように熱く、それでいて、僅かに震えているように感じられた。


(ああ、もうダメだ。リリアーヌを立てるどころか、私が一番ド派手に目立ってるじゃない!)


 お父様の逆鱗に触れ、攻略対象のギルバート殿下には『玩具』として目をつけられ、会場では殿下を連れ出した不審令嬢扱い……。


(私の目指す穏やかなモブライフが、ガラガラと音を立てて崩落していく……!)


 父の広大な背中の陰に隠れながら、月明かりに照らされた、あまりにも残酷で美しい夜空を見上げた。


(神様……。私、いっそ噴水に落ちた方がマシだったかもしれないわ……!)


 私は爆発寸前の心臓を鎮めようと必死になっていた。

 だが、目の前の策士――ギルバート殿下は、そんな私の絶望を糧にするかのように、にやりと残酷に口角を歪めた。


「ふむ……公爵。ずいぶんと厳しい表情をなさっていますね。まさか、娘が私に抱きつかれた程度で、そこまでご立腹とは」


(や、やめて……! 火に油を注がないで!)


 私は完全に頭を抱え、心の中で血を吐くような悲鳴をあげた。


「……ギルバート殿下! 言葉が過ぎますわ!」


「おっと、そう怒らないでください、エルゼ嬢。私はただ、夜風に当たっていた貴女の危うい体を支えただけですよ。……紳士としてね」


 しかし、その切れ長の瞳に宿る光と、含みを持たせた口調は明らかに小悪魔的だ。

 父・ヴォルガードの眉間の皺が、物理的にメキメキと音を立てるように深まっていくのが分かり、私の胃はきゅっと締め付けられた。


「お、お父様……誤解です! これは、あの、その……不可抗力な偶然なんです! 決して、決して不適切な行為をしていたわけでは……!」


 私が必死に、震える声で弁明する。

 しかしギルバート殿下は、追い打ちをかけるようにわざとらしく首をかしげると、低くて甘い声でささやいた。


「偶然、ですか? ふむ……貴女のような令嬢の周りでは、そういう偶然はよく起こるものなのでしょうか、エルゼ嬢? ……だとしたら、俺も目が離せませんね」


 言葉の端々に、まるで「面白い玩具を捕獲した」と言わんばかりの、粘着質な悪戯心が滲んでいる。


(ああああああ……! 目の前でお父様が、社交界史上かつてないレベルの暗黒オーラを放って怒っていく……!)


 私は思わず頭を抱え、高級な石畳に突っ伏して、そのまま地底まで掘り進んで逃げたくなる衝動に駆られた。


「……公爵、落ち着いてください。エルゼ嬢は、ただ転びそうになっただけです。私の腕に抱かれるのは、必然の事故というやつです。誰が責められましょうか」


 ギルバート殿下の声は冷静そのものだが、そのわざとらしい慇懃無礼さと不敵な笑みが、さらにお父様の苛立ちという名の火薬庫を刺激している。


「……っ……!」


 もはや声にならない悲鳴が喉元まで上がってくる。


(神様……どうして、私の人生はこうも絶望のフルコースなの……? 全ての選択肢がデッドエンドに繋がってるじゃない!!)


 ギルバート殿下は、私の顔面蒼白な表情を慈しむように、じっと、逃がさないように見つめる。そして、獲物を仕留める最後の一刺しのように、父・ヴォルガードに向かって悪魔の微笑みを投げかけた。


「しかし、公爵。娘さんの先ほどの可愛らしい悲鳴は、なかなか……いや、実に、実に愛らしいものですね」


(うわぁぁぁぁぁ!!! もう無理! 頭を抱えて回転するしかない!!)


 私は完全に絶望し、両手で頭を強く押さえながら、心の中で叫び続けた。


(や、やめて……余計なこと言わないでぇぇ!! 私のライフはもうゼロよ!!)

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