第24話 瀕死令嬢の愛嬌サバイバル

 会場の扉が開いた瞬間、網膜を焼くような光の暴力に襲われた。

 そこはまるで宝石箱をひっくり返し、さらに魔法の粉をぶちまけたかのような華やかさ。天井から吊るされた巨大なクリスタル・シャンデリアの光が、貴族たちの纏うドレスや宝石と共鳴し、目眩がするほどの煌めきの渦を作り出していた。


(落ち着け、エルゼ。お前は壁だ。お前は空気だ。お前はただの、歴史の隅っこに描かれた匿名の婦人だ……!)


 私は心の中で、自分を「背景グラフィック」だと思い込むための自己暗示を高速で唱え続けた。だが、運命という名のシナリオライターは、そんな安息を許してはくれなかった。


「お姉様!まぁ、なんて素敵な……!今日も本当にお綺麗ですわ!」


 私の右側から、春の訪れを告げる女神のような声が響く。振り返れば、そこには笑顔のリリアーヌがいた。

 いや、「笑顔」という言葉では生ぬるい。光そのものが擬人化して近づいてきたような眩しさ。サングラスなしで直視すれば、一瞬で視神経がバグを起こして強制終了シャットダウンしかねないレベルのヒロインオーラである。


(くっ……!これが……世界に愛された女の輝き……!藍色のドレスじゃ太刀打ちできない……いや、でもこれで正解なのよ……!)


 私は内面の絶叫を押し殺し、全神経を集中させて「愛嬌モード」を起動した。

 生存本能に突き動かされた、元・悪役令嬢による渾身のディフェンスである。


「ふふ、リリアーヌ……そんな風にお褒めいただけるなんて光栄だわ……」


 鏡の前で百回は練習した「毒気抜きの微笑」を、なんとか維持する。顔の筋肉は悲鳴を上げ、乳酸が溜まっているのを感じるけれど、ここで表情を崩せば即、破滅フラグが立つ。


 すると視界の端に、絶対零度の冷気を纏った影がちらりと映り込んだ。


 ――カイル・ロストール。


「…………」


 私を射抜くその視線。精神攻撃の範疇を超え、物理的ダメージ判定すら発生していそうな鋭さだ。サバイバルゲームにおける「見つかったら即ゲームオーバー」の即死トラップ並みの威圧感で、会場の隅から私をロックオンしている。


(ひぃっ……!心臓が止まったら『ショック死した悪役令嬢』として歴史に刻まれちゃう!耐えろ、耐えるのよエルゼ!)


 私は必死に、引きつりそうになる口角を鋼の意志で固定する。リリアーヌにだけは、最大限の柔和さを向ける。カイルの視線という名のレーザー照射を受けながら。


「ええと……あの……その……リリアーヌ。本日も……一段と、その、華やかで、可憐で……愛らしいわね……ふふ、ふふふっ……」


 声が震え、扇を握る指先もわずかに震える。

 頭の中の生存計算機は、赤文字で「警告:HP瀕死、MP枯渇」と点滅し続けている。


 しかし、リリアーヌは私のこのあがきを、純粋な慈愛で受け止めてくれた。


「ふふ、お姉様も本当にお素敵ですわ。今日はいつもよりずっと落ち着いた雰囲気で……なんだか、とても上品に見えます。私、今のお姉様が大好きです!」


(上品……!?今、上品って言った!?「地味で存在感がない」の超高級な言い換えじゃないの!?リリアーヌ、あなた本当に聖女……!)


 心拍数は、もはやツーバスどころかドラムロールのように跳ね上がっている。それでも、彼女の肯定という名のバフのおかげで、なんとか踏みとどまった。


 だが、カイルの目は一切緩まない。むしろ、「こいつ、何らかの邪悪な術をリリアーヌにかけたな?」とでも言いたげに睨みの圧力がマシマシになっている気がする。


(くっ……!愛嬌、愛嬌だ!これこそが唯一の防御……!)


 私は必死に口角を吊り上げ、少しでも「無害な生き物です、攻撃しないでください」というオーラを放つ。膝はドレスの中でガタガタと震えているが。


「そ、そうかしら……?リリアーヌ、あなたこそ……ダイヤモンドより輝いて……いらっしゃいますわよ……ふふっ……」


 もはや「微笑む」という優雅な動作ではない。「生きるための最後の力を振り絞った、生命維持活動」である。


 私は扇で顔の下半分を隠し、心の中で血を吐く思いで呟いた。


(今日一日……私、生き残れるかしら。いや、絶対生き残ってやる! 愛嬌、それがこの理不尽な世界での最強の武装なんだから……!)


 会場を支配する圧倒的な煌めき、ヒロインの眩しすぎる慈愛、護衛騎士の殺意。

 その巨大な渦のど真ん中で、私は「絶対に噴水には近づかない」という鋼の誓いを胸に、必死の笑顔で背景に同化する作戦を継続するのであった。


 突如、会場の奥から波打つような、地鳴りに近いどよめきと歓声が上がった。


「……え、なに、何事……?!」


 反射的に身を竦ませ、ざわめきの中心に目をやると、そこには全ての光を一心に集め、物理的に発光しているのではないかと疑いたくなるほどの眩い金髪が揺れていた。


 ――アシュレイ・ソルフェリナ。

 この国の第一王子にして、乙女ゲーム『煉獄のロザリオ』における絶対的メインヒーロー。

 涼やかな切れ長の瞳は冬の星空のように澄み、完璧な黄金比で構成されたその容姿は、神が余暇の全てを費やして造形したとしか思えない。太陽のような慈愛と、王族としての冷徹な威厳を同居させた笑みを浮かべ、彼は群がる貴族たちを優雅にあしらっていた。


(うわっ……光が強すぎる……! まさに人間サンライト……! 網膜が焼けるわ!)


 私は本能的な危機察知能力に従い、即座に姿勢を低くして「壁際のモブ化作戦」をフル稼働させた。せっかく仕立て直した藍色のドレスも、激しく動けばこの煌びやかな会場では逆に目立ってしまう。

 扇を盾のように構えて顔の下半分を隠し、足元は忍者のごとくそろりそろりと、巨大な花瓶や柱の影に溶け込むようにスライド移動した。


(くっ……ここからが本当の勝負よ。私が断罪されないためには、殿下の視界をリリアーヌで埋め尽くして、不可侵の愛の導線を作らなきゃ……!)


 私は物陰からハンターのような鋭い目付きで、リリアーヌとアシュレイ殿下という二大発光体にロックオンした。

 脳内ホワイトボードに必死で最終作戦を書き連ねる。


 一、殿下とリリアーヌを同じフレーム内に収め、物理的な接点を生み出す。

 二、私の存在は最小限。あくまで無機質な空気として、景色の一部に徹する。

 三、絶対に自分から会話の輪に入らない。


「お姉様、あちらをご覧になって……。あの方が、アシュレイ殿下……」


 隣でリリアーヌが、夢見心地な声で囁く。

 その声すら、私には運命の女神からの「早く仕事をしろ」という冷徹な指令のように響いた。


「ええ、本当に……。あの方こそ、貴女に相応しい光だわ、リリアーヌ……」


 私は慈愛に満ちた微笑を維持しつつ、扇で顔を半分覆ったまま、巧みにリリアーヌの背中を数ミリだけ殿下の方へと促す。


(……今よ、視線誘導! 私は右、貴女は中央! ああ、もっと自然に……私を見ないで、彼を見て!)


 作戦は功を奏したのか、人混みを割って歩みを進めていたアシュレイ殿下が、不意に足を止め、リリアーヌへとその麗しい視線を向けた。彼が優雅に微笑みかけた瞬間、リリアーヌの白い頬が、熟した林檎のようにほんのり紅く染まる。


(ふふ……うまくいってるわ……! これよ、このピンク色のオーラを待ってたの! まさに裏方エルゼの本領発揮よ……!)


 しかし、任務遂行中とはいえ、私の心臓はフルスロットル状態。

 興奮と緊張のあまり足元がガタつき、ドレスの裾を踏みそうになった瞬間、私はバレエダンサーのような体幹で必死にバランスを取り、何事もなかったかのように「背景として揺れるカーテン」のフリをした。


 アシュレイ殿下がリリアーヌに一歩近づくたび、私は内心で激しいガッツポーズを繰り出す。


(いいわ、その距離! 手を取るのもあと数秒……! あくまで自然な、運命的な流れでお願い! 私はここにはいない、私はただの炭素の塊……!)


 扇の隙間から、私は呪文のように唱え続けた。


 どうか自然に、邪魔せず、二人の距離を縮めて。

 殿下、どうか私に気づかず、リリアーヌだけを愛でて。ここは私、空気……背景テクスチャ……歴史の脚注にすら残らない端っこ……!


 会場の眩い光、ヒロインの神々しい輝き、そして王子の微笑み――そのすべてに押し潰されそうになりながらも、私は精一杯、愛嬌という名の生存魔法を周囲に展開する。

 私はあなたの味方ですよ、でも存在は消してますよ。という超高等技術を駆使し続けるのであった。


(今日一日……絶対に生き延びて、この二人をくっつける作戦を成功させてやる……! そして、噴水という名の処刑場には、一歩たりとも近づかない……絶対に……!)


 だが、その時。リリアーヌを見つめていたはずのアシュレイ殿下の視線が、ふと、不自然に私――藍色のドレスを着たまま、壁と同化しようと必死な不審人物の方へと、ゆっくりと向けられ始めたことに、私はまだ気づいていなかった。

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