第22話 媚びでも虚勢でもない、その姿を #マーサ視点

 仕立て上がった藍色のドレスは、陽光の差し込む部屋の中央に、静謐な佇まいで置かれていた。

 目を引く派手な装飾は何一つない。

 だが、一度視線を奪われれば、そこから目を離す理由は、どこにも見当たらない。


 私は壁際に音もなく控え、仕事に徹した冷徹な観察眼で、その前に立つお嬢様――エルゼ様の様子を見守っていた。


 お嬢様は、ドレスを抱えている。

 かつてのように「これは私の価値を高める道具だ」と誇示するように掲げるのでもなく、誰かに見せつけるためでもない。

 それはまるで、少しでも力を入れれば壊れてしまいそうな、繊細な硝子細工を拾い上げたかのような――慎重で、慈しむような所作だった。


(……ドレスの、持ち方が違いますね)


 私の思考は、あくまで淡々と進む。

 感情は交えない。

 ヴァレンティ家の侍女として、主の変化を一滴の歪みもなく映し取る鏡であること。それが私の矜持だ。


 少し前までのお嬢様にとって、装いとは武装だった。

 より派手で、より強く、より近寄りがたいほど価値がある。そうでなければ、誰からも顧みられない。そうでなければ、自分は存在を許されない。――そんな強迫観念に縛られているように見えた。


 会場の視線を力ずくで奪い、声を張り上げ、先に威圧する。

 屋敷の使用人に対しても、社交界に対しても、彼女は常に抜き身の剣を振り回しているかのようだった。


(……あれはあれで、苛烈な生存戦略の一つではありましたが)


 ただ、あまりにも不器用で、ひどく疲弊するやり方だ。

 常に敵を作り、気を張り詰め、先手を打ち続ける。

 そんな悪役ヒールの役割を、彼女は血を吐くように演じていた。


 けれど今、鏡の前に立つエルゼ様は、以前とはまるで違う空気を纏っている。


 ドレスを抱きしめる腕に、余計な力は入っていない。

 だが、それを手放す気もない。


 もはや「誰に見られているか」を病的に気にしてはいない。称賛や優越、格下への勝利――そうした渇いた数字は、今の彼女には意味を持たないようだった。


(……大切にしている。ただ、それだけの表情ですね)


 それは、私の中に小さく、けれど確かな違和感として沈殿した。


 ここ最近のお嬢様は、確かに愛嬌を使うようになった。

 声を和らげ、笑顔を選び、相手の望む反応を差し出す。それが意図的な「計算」であることは、長年仕えてきた私には明白だ。


 だが――。


(……演技、という言葉で片付けるには、あまりにも温度が通り過ぎています)


 これは、単なる社交術の習得ではない。

 計算だけで身につくものでもない。

 少なくとも、このドレスを見つめる無垢な仕草は。


 ――誰かに好かれようと媚びているのではない。

 ――拒絶を恐れて、怯えているのでもない。


 もっと深い、魂の内側に触れる変化。

 虚勢を張り、自分を大きく見せる必要がなくなった者の――「自分という存在」を、ようやく許し始めた者の、静かな身の置き方だ。


(……ご自身の立ち位置を、疑い、選び直し始めた……ということでしょうか)


 それは、公爵令嬢としての権威を手放す危うさでもある。

 だが同時に、一人の人間として立とうとする、確かな成長の兆しでもあった。


 ふと、エルゼ様が迷いを含んだ仕草でこちらを振り返る。


「……マーサ」


「はい、お嬢様」


 呼び方は、聞き慣れたいつものもの。

 だが、声に無駄な張りはない。命令でも、虚勢でもない。


「これ……変じゃないかしら。私、本当にこれでいいのかしら」


 揺れる視線。

 彼女が問うているのは、布地の良し悪しではない。――この選択をした自分自身は、間違っていないか。そう問われているようだった。


 私は、寸分の迷いもなく答える。


「はい」


 お世辞ではない。

 冷徹な事実として、そう告げる。


「このドレスは、お嬢様を引き立てます。……飾り立て、塗りつぶさずとも、貴女様は十分に美しい。それを、この藍色が証明するでしょう」


 一瞬、彼女は目を瞬かせ――そして、少し困ったように、けれどどこか晴れやかに、ふわりと笑った。


 ――ああ。この笑顔だ。


 相手を値踏みする嘲笑でもなく、勝利を誇る高慢な笑みでもない。


(……自然ですね。毒気が抜けたというより、潤いを得た、と言うべきか)


 それが、私の中で確信に変わる。


 お嬢様は今、誰かに勝とうとしていない。

 ただ、この世界で自分が息をしやすい場所を、手探りで見つけようとしている。


 それは、これまで掲げてきた「強さ」とは正反対の方向。

 だが、決して弱さへの逃避ではない。


(……長く、美しく保つには……こうでしょう)


 私は一歩下がり、室内を整え始める。

 いつも通りの仕事。いつも通りの、感情を排した無表情。


 けれど心の内で、観察記録にひとつだけ、大きな修正を加えた。


 エルゼ・ヴァレンティは、変わった。

 それも仮面を塗り替えただけではない。魂の輪郭そのものが、別の形を結び始めている。


 抱きしめられた藍色のドレスは、その変化を祝福するかのように、窓からの光を受け、微かな紺碧の輝きを返していた。


(……見守りましょう。結論を出すのは、あのお方がそのドレスを纏い、晩餐会の地を踏んでからでも遅くはありません)


 私はそう判断し、今日の記録を記憶の奥底に封じ込めた。


 参謀とは、先回りして支配する者ではない。

 主の変化を誰よりも早く察し、その行く末が真実であるかを見極める者であれば――それでいい。

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