第21話 箱の中の思い出は、着るためにある
「仕立て直し」という言葉を聞いたとき、私は正直、もっと穏やかな光景を思い描いていた。
丈を少し詰めて、ウエストを絞って、はい完成――そんな、ちょっとしたお色直しのようなものだと。
――甘かった。
「では、始めます。一寸の狂いも許されません」
マーサのその一言は、疑いようもなく宣戦布告だった。
部屋に次々と運び込まれる最高級のシルク糸、研ぎ澄まされた銀の針、そして膨大な数の型紙。
腕利きの仕立屋たちが並んだ瞬間、空気は一変する。
ぴん、と張り詰めた室内は、もはや作業場ではなく――戦場だった。
マーサは一切の無駄を排し、冷徹なまでの的確さで指示を飛ばしていく。
「肩のラインは残してください。ただし背中の切り替えは三センチ内側へ。……違います、その角度ではありません」
仕立屋が息を呑む。
「お嬢様の立ち姿は、以前よりもずっと真っ直ぐです。芯があります。布に語らせる必要はありません」
「は、はい……! 直ちに!」
百戦錬磨の職人が、思わず声を裏返して頭を下げる。
(……こわ……)
いや、違う。
怖いのではなく――圧倒的に、強いのだ。
マーサはドレスを飾りとして見ていない。
彼女が見据えているのはただ一つ――エルゼ・ヴァレンティという人間を、どう世界に提示するか。
「華美な装飾は不要です。この方は、余計なものを足すほど品格が削がれる」
(え、私ってそんな高尚な存在だった!?)
「素材の良さと、仕立ての潔さだけで十分です」
(悪役令嬢って、もっと盛ってナンボじゃなかった?)
「裾の広がりは最小限に。衣擦れの音が響くのは論外です。晩餐会では――」
一拍、間を置いて。
「静かに、しかし視線を離せなくさせる。それが正解です」
(そんな高度な暗殺術みたいな技、存在したのね……)
私は半ば呆然としたまま、鏡の前で彫像のように立たされ、ミリ単位の採寸を受け続けていた。
少し離れたソファから、その様子をシエラが柔らかな眼差しで見守っている。
慈しむように。あるいは、遠い日の自分を重ねるように。
――そして。
いつの間にそこにいたのか。
部屋の壁際に、ヴォルガードが立っていた。
腕を組み、作業の邪魔にならぬ距離を保ちながら、鋭い双眸は藍色のドレスから一度も離れない。
布の擦れる音、針が通る乾いた響き。
その規則正しいリズムの隙間に、彼はまるで思いついた言葉をそのまま落とすように、低く呟いた。
「……気に入っていただろう。あれを」
語尾が、わずかに曖昧だった。
けれど、そこには確かな熱が滲んでいた。
シエラは一瞬だけ目を瞬かせ、それからすべてを包み込むような微笑みを返す。
「ええ」
迷いなく、穏やかに。
「でも、いいのよ」
ヴォルガードの眉が、ほんのわずかに寄った。
「……本当に、良かったのか」
それは責める声音ではない。
大切な記憶を手放すことへの戸惑いと、守りたいものへの不器用な執着が混じった問いだった。
冷酷無慈悲と噂される公爵。
その鋼の鎧の隙間から、確かに情が零れ落ちていた。
シエラは視線を伏せ、諭すように言う。
「箱の中に閉まっておくだけでは、服は死んでしまうわ。……思い出も、同じよ」
そして、鏡越しに私を見る。
「着る人がいてこそ、服は輝くの。……今のエルゼなら、この藍色を、私よりもずっと美しく着こなせるわ」
その瞬間、胸の奥で、何かがすとんと落ちた。
(……やっぱり、お父様は……)
公式設定では、妻が亡くなっても顔色一つ変えなかった冷酷な男。娘を処刑台へ送る父。
――けれど。
今、目の前にいるこの人は。
妻の想いを、選択を、未来へ繋ごうとしている。
(……本当は、あんなにも……)
それ以上、言葉は要らなかった。
針が布を縫い進める音が、止まることなく未来を紡いでいく。
マーサは相変わらず無双状態。
仕立屋たちは神業を重ね、両親は、同じ方向――私というこれからを、静かに見つめている。
私は鏡の中の自分を、もう一度見つめた。
派手ではない。
強そうでもない。
けれど――母の藍色を纏い、父の視線を受け止め、私は確かに、私として立っている。
(……大丈夫。きっと、やれる)
この家は、この人たちは。
私が恐れていた設定よりも、ずっと複雑で、不器用で――そして、温かい。
仕立て直されるドレスと共に、私の運命という名の糸も、静かに、しかし確かに書き換えられ始めていた。
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