第20話 ドレスに託されたもの
派手なドレスの山に囲まれ、床に座り込んだまま、私は魂が半分抜けかけていた。
クローゼットから溢れ出した深紅や金色の生地が、過去の業となって私を絡め取ろうとする触手のように見え、視界がわずかに揺れる。
――そのとき。
背後で、ふと空気が変わった。
正確には、古びてはいるが、長い年月、大切に扱われてきた音がしたのだ。
きぃ……と、部屋の片隅にある、普段は決して開かれることのない重厚な木製チェストが、控えめに軋む。
「……エルゼ」
春の陽だまりを溶かしたような声に名を呼ばれ、私はびくりと肩を跳ねさせた。
「お母様……?」
振り返ると、シエラがいつもの穏やかな微笑みを湛えて立っていた。
けれどその瞳は、ほんの少しだけ――遠い時間を慈しむような、淡い郷愁を宿している。
彼女の細い腕には、ひとつの細長い箱が抱えられていた。
装飾のない、素朴な白木の箱。
豪奢な彫刻もなければ、目を引く意匠もない。ただ、時間だけが静かに染み込んだような、落ち着いた気品を纏っている。
「これね、あなたが生まれるずっと前から、ここにしまってあったのよ」
そう言って、シエラは私と同じように床に膝をつき、宝物を扱うような手つきで、ゆっくりと箱の蓋を開けた。
――現れたのは。
夜の静寂をそのまま切り取ったかのような、深く、深く澄んだ藍色のドレスだった。
「……っ」
思わず、肺の奥の空気をすべて吐き出すように息を呑む。
眩い宝石も、誇示するような刺繍もない。
けれど生地は月光を浴びた水面のように柔らかく光を吸い、極限まで無駄を削ぎ落としたカッティングが、静かに、しかし確かに見る者の心を捉えていた。
「これ……お母様の……ドレス?」
「ええ。私が、今のあなたくらいの頃に、初めての夜会で着たものよ」
シエラはそう言って、生地を指先でなぞる。
その仕草は、過去の自分に触れているかのように、どこか優しい。
「当時の社交界ではね、地味で目立たないって、よく言われたわ。あなたのクローゼットにあるような華やかさもなかったし、私の声は、あの方たちの喧騒にすぐかき消されてしまうほど小さかったから」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
控えめで、誠実で、それゆえに正当に評価されなかった母。
かつてのエルゼが「弱々しい」と苛立ちをぶつけていた理由の輪郭が、今になって、ようやく見えた気がした。
「でもね、エルゼ」
シエラはドレスの裾を整えながら、穏やかに続ける。
「私はこのドレスが、どんな高価な絹よりも好きだった。誰かを押しのけなくても、誰かに勝とうとしなくても――私はちゃんと、私としてここにいるって、信じさせてくれたから」
――ちゃんと、そこにいる。
その言葉が、温かな雫のように胸の奥へ落ちてくる。
誰かを圧倒し、支配することでしか存在を証明できなかった
ただ一人の人間として、静かに立つこと。
それは今の私にとって、どんな魔法よりも救いのある肯定だった。
「エルゼ」
母の眼差しが、私の迷いを見透かすように、まっすぐに向けられる。
「あなたは今、必死に変わろうとしているのでしょう?」
心臓が、どくりと跳ねた。
転生のことも、筋書きのことも言えない。
それでも――「これまでの自分を脱ぎ捨てようとしている」ことだけは、この人には伝わっている。
「……そんな、大それたことじゃ……」
「いいえ」
シエラは、優しく、けれど揺るぎなく言い切った。
「とても勇気のいることよ。……あなたは、私の自慢の娘だわ」
その一言で、張り詰めていた心の結び目が、静かに解けていく。
死の恐怖に追われ、愛嬌という鎧で武装していた内側の私が、ようやく息をついた。
「だからね、エルゼ。このドレスを――今のあなたに一番似合う形に、仕立て直してもらいましょう」
「……えっ? いいの? これ、お母様の……大切な思い出なのに……」
「いいのよ」
微笑みながら、確かな意志を込めて、シエラは言う。
「これは、かつての私が選んだ服。今度は、あなたが新しい自分を選ぶ番よ」
その瞬間、胸の奥で、何かが静かに噛み合った。
派手じゃなくていい。
強く見せなくていい。
誰かを圧倒しなくても、私は私のままで生きていい。
生き残るために悪役令嬢を演じなくてもいい。私は、私として生きるために、この役を脱ぎ捨ててもいいのだと。
「……ありがとう、お母様。……本当に、ありがとう」
声が、どうしようもなく震れた。
シエラはそれに気づかないふりをして、ふふ、と小さく笑う。
「マーサ、明日の朝一番に仕立屋を呼びましょう。目立たなくて美しい魔法をかけてもらわなくちゃ」
「かしこまりました」
控えていたマーサは淡々と答えながらも、藍色のドレスを一瞥し、ほんのわずかに――本当にわずかに、口元を緩めた。
「お嬢様。ようやく武器ではなく、装いを選ばれましたね」
「やかましいわ」
照れ隠しに返しながらも、その言葉を否定する気にはなれなかった。
色彩の暴力が眠るクローゼットを背に、私は母から託された藍色のドレスをそっと抱きしめる。
ひんやりとした生地の感触が、熱くなった頬に心地よい。
(大丈夫。もう、迷わない)
(私は、誰かに決められた悲劇の役だけで終わらない)
断罪の晩餐会は、まだ少し先。
けれど確かに私は今――昨日までとは違う、新しい物語の入口に立っていた。
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