第19話 私のドレスが全部悪女仕様なんですが

 リリアーヌと別れ、離宮から脱兎のごとく逃げ帰った私は、自室の扉を閉めた瞬間に豹変した。

 呼吸を整え、両手で頬を「パンッ!」と叩く。気合注入だ。

 そして、私は部屋の隅に鎮座する巨大なドレスクローゼットを、親の仇でも見るかのような鋭い眼光で睨みつけた。


「……よし。現実と向き合いましょう。逃げちゃダメよ、エルゼ。これは生存競争なんだから」


 自分に言い聞かせるように、低く重々しく呟きながら、私は部屋の隅に鎮座する巨大なドレスクローゼットを睨みつけた。

 公爵令嬢エルゼ・ヴァレンティの私室に備え付けられた、白木の観音開き。磨き抜かれた扉には贅沢な金細工が施されていて、まるでこう語りかけてくるかのようだ。


 ――さあ、悪役令嬢よ。その業を身に纏え。


 嫌な予感しかしない。

 いや、予感というより、これはもう確信だ。


 だが目を逸らせば、晩餐会でアシュレイ殿下に

「……その格好で、リリアーヌを威嚇しているの?」と、物理的断罪より先に視線で処刑されかねない。


 私は覚悟を決め、勢いよく扉を開いた。


「…………」


 数秒間、私の網膜は機能不全を起こした。


 視界いっぱいに広がったのは、もはや色彩という名の――暴力の洪水。


 返り血を彷彿とさせる、どす黒い深紅。

 罪の深さを誇示するかのような、艶やかな漆黒。

 妖しい魔女の風格をまとった、重厚な紫。

 毒を煮詰めたような、主張の激しいエメラルドグリーン。


 加えて、金糸銀糸をこれでもかと織り込んだ刺繍。重石かと見紛うほどの宝石装飾。

 なぜか布面積が極端に少ない、攻撃的としか言いようのない大胆なデザイン。


「………………」


 さらに数秒の沈黙の後、私の魂が叫んだ。


「……派手なのばっかぁぁぁああああ!!!!!!」


 絶叫は高い天井に反響し、むなしく消えていく。


「なにこのラインナップ!? 全力で主役を奪取しに行く気満々じゃない!? これドレスっていうか、『私は悪女です!』って叫びながら歩くための宣伝用衣装コスチュームでしょ!? 」


 私は頭を抱え、クローゼットの前でずるりと膝をついた。


「赤は強すぎる! 黒は処刑台の色! 紫は今から呪いますって自己主張が激しすぎるのよ!!」


 一着ずつ指差し確認するたび、脳内の処刑フラグ・インジケーターが、ピーピーと赤い警告音を鳴らして点灯していく。


「これ着たら傲慢。これ着たら嫉妬。これ着たら純粋な殺意。どれを選んでもルート分岐が『バッドエンド』か『デッドエンド』の二択しかないんだけど、どうなってんのよ私の趣味センス!!」


 ――と、その時。


 少し離れた場所で、この阿鼻叫喚の光景を、慈愛と困惑に満ちた眼差しで見守る二人の影があった。


「……どうしたのかしら、エルゼ。あんなに熱心にドレスの研究をして……」


 穏やかにそう呟いたのは、母・シエラ。

 娘がクローゼットの前で悶絶し、床を叩いている姿を、どこか微笑ましく、けれど心配そうに見つめている。


「……どうしたんでしょうね、本当に……」


 一方、完璧に整えられた表情の裏で、(ああ、お嬢様がまた新しい方向性の乱心を)と冷静に分析しているのが、侍女のマーサだった。


「いつもでしたら、『このドレスで会場の令嬢方を塵も残さず焼き尽くしますわ!』と、目を輝かせていらしたのに」


「ええ。『私の美しさを圧倒的な暴力として叩きつけて差し上げるの』と仰っていた頃が、つい昨日のようです」


 ――圧倒しないで!! 焼き尽くさないで!!

 今回の正解は背景モブなの!!


 心の中で盛大に突っ込みつつ、私は床を這うようにして振り返った。


「……ねえ、お母様。聞いてもいいかしら」


「なあに? かわいいエルゼ」


「私……今まで、何を基準にこのドレスたちを選んでたのかしら」


 シエラは少し考え、人差し指を顎に当ててから、春風のように柔らかく微笑んだ。


「そうね……誰よりも美しく、誰よりも強く、誰よりも他人の記憶に爪痕を残すものかしら」


 マーサも無表情のまま、容赦なく追撃する。


「会場の全視線を一身に集め、他の令嬢を霞ませること。それ以外は布切れに等しいと、豪語なさっていました」


「ですよね!!」


 私は床を渾身の力で叩いた。


「それが今、命取りなのよ!!」


 二人は同時に、ぽかんとした。


「命……?」

「……命?」


「あ、いえ! 比喩です! 比喩!! ファッション業界的な意味での比喩ですから!!」


 慌てて取り繕うものの、マーサの視線が「本当でしょうか」と冷ややかに突き刺さる。


「とにかく! 今回は! 目立たず! 威圧せず!

 万が一アシュレイ殿下の視界に入っても『あ、そこに柱があったかな』くらいの存在感でやり過ごしたいの!!」


 その言葉に、シエラはほんの一瞬だけ目を見開き――すぐに、鈴を転がすような声で笑った。


「まあ……ずいぶん慎ましい目標ね、エルゼ」


「……お嬢様が存在感を消したいと本気で仰る日が来るとは……天変地異の前触れでしょうか」


 マーサは感慨深そうに呟きつつ、クローゼットの色彩の暴力を一瞥する。


「確かに……今あるラインナップでは、柱になる作戦は少々難しそうですね。どれもこれも、歩く太陽のように自己主張が激しすぎます」


 私はぐったりと肩を落とし、深紅のドレスの裾を握りしめた。


「でしょ……? 詰んだわ。リリアーヌは白とかピンクのふわふわドレスで『守ってあげたいヒロイン』をやるのに、私がこの『暗殺者の晩餐ドレス』で隣に立ったら……どう見ても公開処刑じゃない……」


 派手なドレスの山に囲まれ、床に座り込んで絶望する悪役令嬢――。


 その背中を、愛する母と有能すぎる侍女が、静かに、そしてどこか楽しそうに見守っていた。

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