第17話 揺らぎは紅茶の底に沈んで
リリアーヌの離宮のサロンは、いつ訪れても春の陽だまりのような柔らかな光に満ちている。
白を基調とした繊細な調度品、淡い花柄のシルククッション。大きな窓から差し込む午後の陽光が、ボーンチャイナのティーカップの縁に反射して、天井にきらりと小さな星のような光の粒を散らしていた。
時間そのものが、ここでは少しだけ優しく、ゆっくりと流れている気がする。
「今日は、少し暖かいですね。お姉様」
向かいに座るリリアーヌが、ふわりと慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
透き通るような淡い髪を揺らしながら、手慣れた所作で紅茶を注ぐその姿は、相変わらず完成された絵画のように優雅で――そして、眩しいほどに無防備だ。
「ええ。……本当に、穏やかで過ごしやすいわね」
私は姉として最適解の声色を選び、訓練された淑女の笑みを返した。
カップを持つ指先が震えないよう、膝の上で一度だけドレスの生地をぎゅっと握りしめてから、何事もなかったかのように取っ手へと指を添える。
(落ち着いて。今は穏やかなお茶会を楽しんでいる、ただの姉妹。それだけよ。余計なことは考えないで)
三段重ねのティースタンドからは、バターとバニラの甘い香りがふわりと鼻先をくすぐる。
テーブルを彩るのは、繊細なマドレーヌやサブレ、季節の果実を宝石のようにあしらった小さなタルト。どれも上品で、主であるリリアーヌの好みに寄り添うように作られた品ばかりだ。
――まるで、この場所そのものが、彼女のために用意された安全な世界のようで。
そのときだった。
「あ、そうだわ。思い出した」
何気ない、日常の延長のような調子で、リリアーヌがティーポットを置いた。
その音はとても軽く、穏やかで――だからこそ。
「今朝、ヴォルガード様からお菓子を頂いたんです」
「ぐっ……!」
私は危うく、口に含んだばかりのダージリンを吹き出すところだった。
喉の奥が一瞬で熱くなり、心臓が嫌な音を立てて跳ね上がる。
(ま、待って。今、なんて言ったの……?)
「騎士団の方から届いた珍しいお菓子だそうで。リリアーヌは甘すぎないものが好きだろうって、わざわざ私のために選んでくださったみたいで……」
そう言って、リリアーヌは宝物を見せる子供のような純粋な瞳で、傍らにあった小箱を差し出してきた。
深い紺色の、上質な紙箱。端には控えめだが洗練された金の装飾。
――見覚えがある。父が、公的な贈答ではなく、相手の負担にならないよう配慮した私的な贈り物をするときに選ぶ、あの特有の審美眼だ。
「……お姉様も、一緒に召し上がりませんか?」
にこり。
そこには、一抹の毒も、優越感も、悪意も含まれていない。
ただ、大好きな叔父からもらった喜びを分かち合いたいという、純粋無垢な善意だけがあった。
(…………っ)
私は、頬が引きつるのを必死の理性で押さえ込んだ。
微笑みの形を崩さぬよう、口角に力を込める。
(そういえば……あったわね。思い出したわ。そんな、残酷な設定)
乙女ゲーム『煉獄のロザリオ』。
その公式設定資料集の「ヴォルガード」の項目。
そこには、冷徹な事実としてこう記されていたはずだ。
――冷酷無慈悲な公爵ヴォルガードは、実の娘エルゼを疎み、聖女の素質を持つリリアーヌの清廉さを高く評価している。
――彼は密かにリリアーヌを実の娘以上に慈しみ、贈り物を絶やさない。一方、エルゼには関心すら示さない。
(……ああ。そう。そうだった)
私は、そういう疎まれる役割だった。
最初から、愛される側ではない存在。
胸の奥が、熱い針で刺されたようにちくりと痛む。
それはかつてのエルゼが抱いたような激しい嫉妬でも、リリアーヌに向けた醜い怒りでもない。
もっと、足元が冷えていくような、曖昧で、それでいて強烈な――この世界に自分の居場所は最初から用意されていなかったのだと、静かに思い知らされる感覚。
私は、震えそうになる手を伸ばし、差し出された箱を受け取った。
指先に伝わる確かな重みが、なぜかやけに現実的で。
「……ありがとう、リリアーヌ。では、お言葉に甘えて少しだけいただくわ」
声は、自分でも驚くほど平静だった。
鏡の前で作り上げた「鉄の仮面」は、思っていた以上に頑丈に私の心を覆っているらしい。
蓋を開けると、中には香ばしく焼き上げられた、飾り気のない素朴な焼き菓子が並んでいた。派手さはないが、素材の良さを活かして丁寧に、真心を込めて焼かれているのが一目で分かる。
(私には……こういうものを選んでくれたこと、一度でもあったかしら)
そんな考えが脳裏をかすめ、私はすぐに強く首を振った。
――違う。比べる必要なんてない。
今の私は、生き延びるためにここにいるのだから。
私は菓子を一つ摘まみ、口に運んだ。
サクりとした食感。甘さは極限まで控えめで、ナッツの香ばしさとバターの優しい風味が、静かに舌の上に残る。
「……美味しいわ。お父様の仰る通り、リリアーヌの好みにぴったりね」
それは、一点の曇りもない嘘偽らざる本音だった。
「よかった! お姉様にも気に入っていただけて、ヴォルガード様もきっとお喜びになりますわ」
リリアーヌが、自分のことのように嬉しそうに微笑む。
その天使のような笑顔を見つめながら、私は心の中で、そっと深い溜息を吐き出した。
(設定では、父はリリアーヌを溺愛し、私を切り捨てる人だった)
(でも……本当に、それだけが真実なの?)
今朝の食卓での、あの居心地の悪そうな視線。
冷たい言葉の裏側に、確かに存在していた、どう接すればいいのか分からないという戸惑い。
そして、わざわざ好みを考えて菓子を選ぶという、この小さな気遣い。
(これら全部を、冷酷無慈悲という一つの記号で片付けていいものじゃない……)
引きつったままの微笑みの奥で、
私の中にあった物語の前提という名の強固な壁が、また一つ、静かに、けれど確実に軋みを上げていた。
(……世界は、私が知っている設定よりも、ずっと複雑で、不器用で、曖昧な感情に満ちているのかもしれない)
ティーカップの紅茶に映る、自分の顔をそっと見下ろす。
完璧な悪役令嬢としての仮面は、今日も剥がれることなく私の表情を塗りつぶしている。
けれど、その冷たい内側で。
私は確かに――「与えられた設定を疑う」という選択を、初めて自分の意志で掴み取りつつあった。
その小さな決意は、胸の奥でまだ名前も持たないまま、静かに熱を帯びている。
声にすれば壊れてしまいそうで、私はただ息を整え、その感情をそっと抱え込んだ。
しばらくの間、サロンには食器が触れ合うかすかな音と、暖炉の薪が爆ぜる音だけが流れていた。
沈黙は気まずさではなく、むしろ壊れやすい硝子細工のようで、どちらも不用意に触れられずにいる、そんな空気だった。
「……お姉様」
不意に、リリアーヌがカップをソーサーに戻し、少しだけ声のトーンを落とした。
伏し目がちになった長い睫毛が、白い頬に淡い影を落とす。
「最近のお姉様、とても……お優しくなりましたよね」
「……そう、かしら」
心臓が、ひくりと嫌な跳ね方をする。
私は平静を装いながら、視線を紅茶の水面に落とした。
「前は……」
リリアーヌは一瞬言葉を探すように唇を噛み、それから、決して責めるでもなく、ただ事実を並べるように続けた。
「前は、私が話しかけると、とても怖い目で見られていました。でも今は……一緒にお菓子を食べてくださって、ちゃんと目を見て話してくださる」
それは、責めでも抗議でもなかった。
むしろ、少し不安そうで、それでいて確かめるような声音。
「……私、何かしてしまったのかと思って。お姉様が、無理をしているんじゃないかって……」
――ああ。
胸の奥で、何かが、静かに音を立てて崩れた。
(無意識で、そんなことを言わないで)
この子は、ゲームの中でもそうだった。
悪意なく、計算もなく、ただ相手の心の柔らかい部分に、まっすぐ触れてくる。
私は返事をするために口を開いた。
いつものように、無難で、角の立たない言葉を選ぼうとした。
大丈夫よ、気のせいよ、気にしないで――そう言えば、それで済むはずだった。
けれど。
「……無理、してるつもりは……」
声が、思ったよりも低く、かすれていた。
自分でも驚いて、思わず喉に手を当てる。
リリアーヌが、ぱちりと瞬きをした。
「……ただ」
その先の言葉が、すぐには出てこない。
胸の奥に溜まっていたものが、言葉になる前に形を失って、熱だけを残していく。
「ただ……どうしたらいいのか、分からなくなっただけよ」
それは、滲んで零れた本音だった。
誰かを責める言葉でも、世界を呪う言葉でもない。ただ、自分の未熟さと迷いを、そのまま差し出しただけの、あまりにも弱い言葉。
リリアーヌは、すぐには何も言わなかった。
少しだけ目を見開いたまま、私を見つめている。
やがて、そっと、テーブル越しに身を乗り出した。
「……お姉様」
小さな声。
それでも、不思議とよく通る声。
「私、ずっと思っていました。お姉様は……とても、苦しそうだって」
心臓が、ぎゅっと掴まれた気がした。
「私が聖女候補になったせいで、たくさんのものを奪ってしまったんだって。だから、お姉様は……」
そこまで言って、リリアーヌは慌てて首を振った。
「いえ、違いますね。ごめんなさい、私……勝手なことを」
「……いいえ」
私は、静かに息を吸った。
胸が、少しだけ痛む。でも、それは嫌な痛みじゃない。
「……ありがとう、リリアーヌ」
それだけ言うのが、精一杯だった。
それ以上言葉を重ねれば、きっと私は、もっと多くを零してしまう。
怒りも、恐れも、そして――羨望も。
リリアーヌは、それ以上踏み込んでこなかった。
ただ、いつもより少しだけ近い距離で、同じお菓子を口に運び、同じ時間を過ごしてくれる。
その沈黙が、なぜだかとても、救いだった。
(……この子は、何も奪おうとしていない)
奪われたと感じていたのは、私自身の心だったのかもしれない。
ティーカップの中で、紅茶の水面が小さく揺れる。その揺らぎを見つめながら、私は初めて思った。
(――もし、この子と、本当に仲良くなれたなら)
それは、乙女ゲームにも、前世の記憶にも、どこにも書かれていない選択肢。
けれど確かに、今この瞬間、私の手の届く場所にある――
とても、脆くて、温かい可能性だった。
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