第16話 攻略対象は、私を信じない

 リリアーヌの離宮へと続く、白石畳の回廊。

 午後の陽光は、微睡みを誘うほど穏やかに降り注ぎ、手入れの行き届いた庭園からは、噴水の水音が涼やかな旋律となって響いている。

 あまりにも静謐で、あまりにも平和すぎて――逆に、私の胸の奥はざわついていた。


(大丈夫。深呼吸して……今日は、完璧な姉の役を遂行するだけ)


 鏡の前で、表情筋が痛くなるまで確認した清廉な微笑み。

 相手を威圧せず、されど卑屈にもならない、慎ましく穏やかで害意のない距離感。

 踏み込みすぎず、拒まれすぎず。

 ただ「やり直したい」と願う、不器用な親族として振る舞う――それだけ。


 ――その、はずだった。


「おい、ゲス女。……止まれっつってんだよ」


 背後から鼓膜を突き刺すように投げつけられた声に、心臓が跳ね上がる。

 あまりにも乱暴で、あまりにも聞き覚えがありすぎる声。


(……あ。よりによって、今、この場所で……?)


 背筋が、条件反射のようにガチリと強張った。

 振り返るまでもない。声の主も、立ち位置も、空気の変化すら分かってしまうのが、今の私にはひどく厄介だった。


 短く切り揃えられた、燃えるような栗色の髪。

 降り注ぐ太陽の下、過酷な訓練で焼けた健康的な肌に、年若くも鋼のように鍛え上げられた体躯。剣の柄を握りしめる癖のある、節くれだった大きな手。

 そして――獲物を逃さぬ猛獣のように、一直線にこちらを射抜く茶色の瞳。


「……久しぶりだな。醜面しらじらしいツラしやがって」


 カイル・ロストール。

 王国アルストラグ騎士団の訓練生であり、次期エースと目される天才少年。

 そして――。


(乙女ゲーム『煉獄のロザリオ』における、メイン攻略対象の一人)


 脳裏に、嫌というほど鮮明で、残酷な設定情報が走る。

 エルゼとは同じ公爵邸に出入りしていた、いわゆる幼なじみ。

 だが、その関係は最悪だ。

 直情型で正義感が強く、曲がったことが何より嫌いな彼は、かつてのワガママで傲慢だったエルゼを、誰よりも、何よりも嫌悪していた。


 そして――

 誰よりも深く、リリアーヌを想い続けている守護騎士ヒーロー


(……最悪のタイミングで、最悪の敵に出会っちゃったわね)


 彼は、騎士団の稽古帰りなのだろう。

 額に滲んだ汗を拭うことすらせず、剥き出しの敵意を携えたまま、獲物を追い詰めるような歩法で一歩、私のパーソナルスペースを侵食してくる。


「お前、また何しに行く気だ。今度はどの面下げて、あの子の聖域を汚しに行くつもりだよ」


 低く、地を這うような唸り声。

 その眼差しに宿る警戒心は、もはや「人間」に向けるものではなく、狡猾な害獣を排除するためのそれだった。


「……挨拶よ。リリアーヌに。昨日お茶をいただいたから、そのお礼を伝えに来ただけ」


 なるべく波風を立てぬよう、私は意識的に声のトーンを落とす。

 記憶を思い出す前の私なら、ここで鼻で笑い、「貴方のような平民上がりに、説明する義務があって?」そんな最悪の挑発を、迷いなく重ねていたはずだ。


 でも、今の私は違う。

 そんな不毛な衝突に費やす心の余裕なんて、もう残っていない。


「姉として、当然のことをするだけよ」


 その言葉を放った瞬間、カイルの端正な眉が、露骨な嫌悪とともに吊り上がった。


「はっ! 姉、だぁ? 笑わせんじゃねえよ」


 肺に溜まった毒を吐き出すような、乾いた笑い。

 その一音一音が、これまでの十五年間、私が――いや、エルゼが彼に向けてきた傲慢さへの、正当な報復のように塗り固められている。


「今さらそんな善人面して、よくもまあペラペラと抜かせるもんだ。お前がリリアーヌをどれだけ――っ」


 言いかけて、彼はぐっと言葉を喉の奥へ押し込んだ。

 奥歯の噛み締める音が、この距離まで伝わってきそうなほど強い。


(……守ってるのね。全力で)


 リリアーヌ。

 その名を口にしようとするだけで、彼の感情は制御を失い、荒々しい熱となって溢れ出す。


(この人……本当に、嘘がつけない)


 乙女ゲームの中のカイルは、ヒロイン一筋。

 悪役令嬢エルゼの魔の手から、常にリリアーヌを物理的にも精神的にも救い出す、王道中の王道ルート。


 ……今の彼の瞳には、私が「変わったかもしれない」という可能性など、微塵も映っていない。


「忠告しとく」


 カイルは私の行く手を塞ぐように立ち塞がり、逃げ道を断つように太い腕を組んだ。


「お前がどんな顔して、どんな甘っちょろい言葉を並べようがな……俺は一切、信じねえ。一ミリもだ」


 茶色の瞳が、夕焼けのような激しい熱を帯びて揺れる。


「これ以上あの子を追い詰めて、リリアーヌを泣かせるってんなら――たとえ公爵家の令嬢だろうがなんだろうが、今度こそ、俺が本気でお前を止める」


(……本気、か。ええ、知ってる)


 胸の奥が、ちくりと棘が刺さったように痛んだ。

 それは死への恐怖でも、彼に向けられた怒りでもない。


(ああ……私は、ずっと間違えていた)


 この世界には、

 悪役令嬢わたしが思っていた以上に、「リリアーヌを守りたい」と願い、そのために傷つくことも厭わない人間が、こんなにも存在している。


 そして私は、その温かな守られるべき輪から、自分自身の言動で外へ外へと追いやられ、背を向けて生きてきたのだ。


「……分かったわ」


 私は一歩だけ静かに身を引き、彼の瞳を真正面から見つめて、ゆっくりと頭を下げた。


「そのつもりでいて。あなたが疑うのも、信じられないのも、当然だわ。……でも、あなたが懸念しているようなことは、もう二度としない」


 カイルの瞳が、驚愕に一瞬だけ大きく揺れた。

 それは、鉄壁の防壁を築いていたところに、予想外の角度から柔らかなものを突きつけられた者の顔だった。


「……チッ。何なんだよ、気持ち悪い」


 短く吐き捨てられた舌打ち。

 だが、それ以上の罵倒は続かない。

 彼は無愛想に身体を退け、道を開けた。


「勝手にしろ。……ただし、少しでも怪しい動きをしてみろ。俺は常に、お前を見てるからな」


 背中越しに投げられたその言葉。

 それは明らかな脅しであり、冷徹な監視の宣告であり――そして。


(……ほんの、砂粒ほどの「期待」が混じっているように聞こえるのは、私のエゴかしら)


 胸の奥で、悟られないよう小さく息を吐く。


(攻略対象、カイル・ロストール。彼は、物語を動かすヒーロー)


 彼はまだ、私を信じていない。

 当然だ。信じられる要素など、これまでの人生で一つも与えてこなかったのだから。


 でも。


(ゲス女なんて呼びながら、真っ向から道を塞いで止めに来るなんて……)


 やっぱりこの人、どこまでも不器用で、バカ正直で――私が知っていたゲームのデータより、ずっと人間臭い。


 視界の先に、離宮の白亜の尖塔が見えてくる。

 私は乱れたドレスの皺を伸ばし、背筋を正した。


(……大丈夫。私はまだ、死んでない)


 この世界の「攻略対象」たちは、

 血の通った一人の人間として、ここに生きている。


 ならば、私も。

「設定」としての悪役令嬢ではなく、一人の人間として向き合うだけだ。


 噴水の音が響く回廊を、私は今度こそ、逃げずに一歩ずつ踏みしめるように歩き出した。

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