第15話 「――私、なんで死ぬんだっけ?」


 自室の重厚な扉が閉まると、外の喧騒は嘘のように遠のいた。

 公爵令嬢に相応しい、分厚い石壁と足音を吸い込む柔らかな絨毯。淡いペールブルーと白で統一された家具たちは、主である私を優しく包み込んでいる。ここは間違いなく、エルゼ・ヴァレンティの私室――世界で最も守られているはずの聖域だ。


 私は肺に溜まった重い空気を吐き出すように、ゆっくりと息を吐き、鏡台の前へ腰を下ろした。

 これからリリアーヌに会いに行くための準備。乱れた髪を整え、最も姉らしく見える清廉なドレスを選び、誰からも拒絶されない完璧な表情を作る。

 前世から慣れ親しんだ、自分を守るための、いつも通りの儀式シュミレーションのはずだった。


 ……なのに。


(そういえば、私――)


 銀の櫛を通す手が、ふと凍りついたように止まる。


(私、なんで……殺されるんだっけ……?)


 あまりにも唐突に、心の湖底から浮かび上がってきた根源的な疑問。

 それに触れた瞬間、胸の奥が冷たい水に沈められたようにひやりとした。


 ――知っているはずのバッドエンド。

 ――最初から天に与えられていた、抗いようのない処刑の運命。


 けれど今の私は、その引き金となった理由を、驚くほど曖昧で、輪郭のぼやけた影としてしか思い出せない。


 乙女ゲーム『煉獄のロザリオ』では、こう語られていた。

 聖女の血を引きながら魔力を持たず、光り輝くヒロインに嫉妬と劣等感を募らせた末に狂った公爵令嬢。

 最愛の母の死をきっかけに完全に歪み、救いようのない大罪を犯した悪役。

 そして、冷酷無慈悲な父ヴォルガードの手によって、国家の安寧のために粛清される存在。


 それが、エルゼ・ヴァレンティに割り振られた、動かしようのない役割。


(……お母様が、亡くなって。そこから、すべてが壊れた)


 記憶を辿るだけで、胸がきゅっと縮こまる。

 最愛の母、シエラ・ヴァレンティ。

 あの人がいなくなってから、公爵家の空気は一変した――少なくとも、そう語られていた。


 重く、冷たく、音のない窒息しそうな世界。

 使用人たちは腫れ物に触れるように言葉を選び、父はさらに深い沈黙の殻に閉じこもり、屋敷全体が巨大な棺桶になったかのように息を殺していた。


 ――その、澱の底で。


(私、もっと……壊れたんだっけ)


 脳裏の闇から、不快な断片が滲み出してくる。

 鼓膜を震わせる、自分の叫び声。

 高価な調度品が砕け散る、乾いた破壊音。

 そして――触れてはいけない一線に、確かに足を踏み入れたという、生々しい感覚。


 怒りのままに放った言葉。

 力を込めすぎた、子供の手。

 誰かの尊厳を、意図せず――あるいは、分かっていながら踏みにじった、あの瞬間。


 母を失った悲しみを。

 決してこちらを見ない父への、届かない叫びを。

 私は暴力と傲慢さに変え、世界へ叩きつけた。


 止めてほしかった。一人にしないでと、誰かに気づいてほしかった。

 けれど、私は愛し方も、助けを求める方法も知らなかった。


 その果てに、私は――

 「公爵家の名を汚し、決して公に許されることのない罪」を犯した。


 だから、私は父に殺された。

 妻を亡くしても眉一つ動かさず、娘さえ秩序のために切り捨てる、氷の処刑人――ヴォルガード・ヴァレンティに。


(……本当に?)


 鏡に映る自分の顔が、疑念に揺れてわずかに歪む。


(記憶の中の父は……本当に、そんな存在だった?)


 確かに、言葉は冷たかった。

 態度も不器用を通り越して、拒絶そのものだった。


 けれど。


(……それでも)


 今朝の食卓で。

 震える私の指先を見逃さず、料理が冷めることを気にかけた、あの一言。

 執務室の向こうで、娘の変化という違和感に苛立ち、どう接すればいいのか分からずに迷っていた、あの横顔。


 そして何より――

 母を、父が雑に扱っていた記憶は、どこを探しても見つからない。


 甘い言葉を交わす夫婦ではなかった。

 それでも、父が母を見る視線は、いつも硬質で、静謐で、壊れ物に触れるのを恐れるような慎重さに満ちていた。


 あんな目をする人間が、本当に心のない処刑人だったのだろうか。


(乙女ゲームの設定通りに……世界は、動いているの?)


 もし父が、感情を持たぬ怪物だったなら。

 母を失ったばかりの娘を、迷いなく切り捨てる存在だったなら。


 ――今、私の胸に芽生えているこの疑問は、どこから来る?


 胸の奥に、小さく、しかし確かな違和感の火が灯る。

 それは不安で、恐ろしくて、けれど同時に――未来を書き換えられるかもしれないという、微かな可能性だった。


(……私、知っているつもりだっただけで、本当は何も分かっていなかったのかもしれない)


 エルゼ・ヴァレンティは、悪役令嬢。

 父に処される、悲劇のための存在。


 その完成されたはずの物語を、私は今、魂の底から疑い始めている。


 鏡台の前で、深く息を吸い、背筋を伸ばす。

 整え終えた髪に、意志を込めるようにそっと触れた。


(リリアーヌに、会いに行こう)


 何が真実で、何が偽りなのか。答えはまだ霧の中だ。

 けれど、確かめもせず、決められた終焉に怯えるだけの生き方は、もう終わりにする。


 私は立ち上がり、扉へと向かった。

 死の運命をなぞるためではない。

 疑問という名の光を手に、この残酷な世界を生き延びるために。

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