第14話 鋼の父は、娘の沈黙に迷う #ヴォルガード視点
ヴォルガード・ヴァレンティは、戦場よりも静かな場所を、本能的に苦手としていた。
硝煙と泥にまみれ、血と鉄の匂いが肺を灼く最前線。
そこでは迷うことなど何一つない。敵は眼前にあり、殺るか殺られるかという単純明快な理が支配している。剣を振るい、叫び、部下を死地から引きずり戻す。己の武威がそのまま「生」に直結するその場所こそが、彼にとって唯一、呼吸を許される場所だった。
だが――。
公爵邸の執務室を支配する、この妙に澄み渡った静寂は、彼の思考を否応なく内側へ、そして自身の闇へと引きずり込んでいく。
重厚なマホガニーの机に広げられた軍の報告書。視線は文字を追っているはずなのに、内容は一向に頭に入ってこない。手にした万年筆の先が、無意味に同じ行を何度もなぞっていることに気づき、ヴォルガードは小さく、苛立ちを込めて舌打ちをした。
(……集中しろ。これしきの沈黙、戦場の静止に比べれば何でもないはずだ)
己を律そうとするが、雑念は霧のように晴れない。
原因は明白だった。
朝の食堂で目の当たりにした、娘――エルゼの、あの異様なまでの「顔」。
執務室に籠ってから、彼はその光景をすでに数え切れないほど反芻していた。
空気に溶けるような、不自然なほど柔らかな声。
計算し尽くされた、非の打ちどころのない穏やかな微笑み。
――あまりにもよく出来すぎたその態度は、ヴォルガードの知る娘のものではなかった。
(あの子は、ああいう振る舞いをする子ではなかったはずだ。もっと……)
記憶の奥底に沈む幼い日のエルゼは、ひどく不器用だった。
珍しく褒めれば顔を真っ赤にして戸惑い、厳しく叱れば唇がちぎれそうなほど噛みしめて涙を堪える。感情の制御が効かず、何を考えているかが手に取るように分かる子供だった。
それが、いつからだ。
いつの間にあの子は、感情の起伏を殺し、相手を満足させるための「完成された仮面」を身につけるようになった。
――媚びている。
朝の食卓で反射的に投げつけた己の言葉が、今になって遅効性の毒のように胸の奥を鈍く突き刺す。
(……違う。私は、あの子を貶めたかったわけではない)
眉間に、谷底のような深い皺が刻まれる。
だが彼の口から出る言葉は、常に最短距離で「拒絶の刃」へと変わる。脳裏に浮かぶ僅かな情愛は、騎士としての規律に噛み砕かれ、削ぎ落とされ、最も冷たく、最も誤解を招く剥き出しの鉄となって吐き出されてしまう。
それが、兄という名の太陽の陰で生き延びてきた、彼の
比べられ、測られ、期待されない側として立ち続けた日々。
感情は弱点であり、情を見せれば斬られる。そう信じて心を鋼鉄の鎧で固めてきた彼は、父親になった今も、その鎧の脱ぎ方を知らない。
(……私は、あの子を、守りたかったのか)
「守る」という言葉が喉までせり上がり、彼はそれを吐き捨てるように押し殺した。
彼にとって愛とは、接近することではなく、遠ざけることだった。
傷つきそうな場所へ行かせない。無駄な期待を持たせない。絶望の深さを知る前に、可能性を摘み取る。
それが、魔力を持たぬ娘に対する、父としての最善の「盾」だと信じて疑わなかった。
だが、今日見たエルゼは、その盾の内側で震えていた。
(……怯えていた。私の言葉に、明確に絶望していた)
フォークを握る白く細い指先が、微かに、けれど確かに震えていた。
顔を上げるときの、一瞬の、祈るような躊躇。
最初から拒絶されることを前提にしながら、それでも微笑もうとする、あの痛々しい目。
あれは、単なる演技ではない。
むしろ、完璧な演技を剥がされた瞬間に漏れ出した、生存本能そのものだった。
(……私が、あの子をあそこまで追い詰めたのか)
思考がその結論に辿り着いた瞬間、胸の奥が、ぎり、と軋む音を立てた。
エルゼは聖女の血を引きながら、魔力を持たない。
だからこそ彼は距離を取った。自分と同じ「持たざる者」として、比較される痛みを味わわせたくなかったからだ。
だが、その徹底した無関心が、娘に「認められない自分」を呪わせ、「好かれるための偽物」を演じるという、あまりにも歪な逃げ場を与えてしまったのではないか。
(……私は、何をしている。戦場なら、これほど無能な采配はあるまい)
万年筆を置き、深く椅子に背を預ける。
戦場で部下が恐怖に呑まれるとき、彼は必ず先頭に立った。恐怖の矢面に立ち、背中で安心を示す。それが指揮官の責務だった。
だが――実の娘の恐怖を前にしたとき、彼は背を向け続けてきた。
傷つけたくないという独りよがりの名目で、その瞳と向き合うことから逃げ続けてきたのだ。
(……違和感、か。違う)
朝の食堂で覚えた、腹の底が冷えるような感覚。
それは、娘が変わったことへの戸惑いではない。
――娘が、変わらざるを得ないほどに孤独だったという事実への、戦慄だ。
その真実に、十五年という月日を経てようやく触れ始めた己の鈍重さに、ヴォルガードは激しい嫌悪と苛立ちを覚えた。
遅すぎる。あまりにも、不器用すぎる。
それでも――。
執務室の窓の外、夕闇が迫る庭園を見つめながら、彼は静かに拳を握った。
(……次は。次にあの子が、私の前に立ったとき……)
また同じ冷徹な刃を向けてしまうのか。
それとも、血の通った「父」としての言葉を探し出せるのか。
答えは、まだ霧の向こうにある。
だが、一度生じた亀裂を、もはや無視することはできなかった。
ヴォルガード・ヴァレンティは、戦場では決して迷わぬ鋼の男だ。
――父として、迷うことを覚え始めただけで。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます