第13話 いい子をやめる準備

 本邸の食堂は、朝だというのに、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。

 天窓から差し込む陽光は高い天井を仰ぎ、白い大理石の床に冷ややかな幾何学模様を描き出している。磨き上げられた長いテーブルの上には、彩り豊かな季節の果実、焼き立てのパン、芳醇な香りを放つオムレツが、寸分の乱れもなく配置されていた。


 ――まるで、処刑を待つ罪人に与えられた、最後にして最上の儀式会場。


(……落ち着きなさい、エルゼ。深呼吸よ。吸って、吐いて。肺が動いているなら、まだ死んでない)


 私はドレスの背筋をぴんと伸ばし、重厚な椅子に深く腰を下ろした。

 絹の布地が擦れる微かな音さえ、この空間では不吉なノイズに聞こえる。心臓は、肋骨の内側を不規則なリズムで叩き続けていた。


 正面の席には、この家の主――ヴォルガード・ヴァレンティが鎮座している。

 公爵家当主にして王国随一の武威を誇る男。そして、前夜に私を冷ややかに突き放す言葉を投げた、実の父親。


 彼はすでに席についており、何かの公文書らしき書類に視線を落としていた。銀のフォークが皿に触れるカチリという音だけが、等間隔に響く。こちらを一瞥することすらなく、まるで私という存在が最初から視界に入っていないかのようだ。


(……よし。想定内。ここからが「自分」との戦いなんだから)


 昨夜の夢に現れた、前世の自分。

 愛されるために、嫌われないために、ただひたすら相手の顔色を窺い、媚びることでしか自分の形を保てなかった「空っぽな少女」。


 ――でも、それでも。

 この処刑フラグだらけの世界を生き抜くためには、今の私は持てるすべてのカードを使わなければならない。偽りの笑顔だって、使えるなら使う。それの何が悪い。


「おはようございます、お父様。昨夜はよくお休みになれましたか?」


 できるだけ柔らかく、朝露を含んだ空気のように澄んだ声で挨拶する。

 口角を数ミリだけ上げ、親愛の情を滲ませる。視線は下げすぎず、傲慢に見えない程度に真っ直ぐ。

 前世の私が完成させた、最強の防具――愛嬌。


 ヴォルガードの手が、石像のようにぴたりと止まった。


「……ああ」


 返事は、地を這うような短い唸り。

 低く、温度のない声。視線は依然として書類に注がれたままだ。


(……はい、平常運転。大丈夫。一歩引いてるだけ。ここからが勝負)


 私はナイフとフォークを手に取り、儀式めいた所作で料理に手をつけた。

 周囲の給仕たちが、私の「変化」に戸惑いながら、息を潜めて動いているのが肌で分かる。


 数口、味の分からないオムレツを飲み込んだところで、私は勝負に出た。

 ほんの少しだけ、演出という名のスパイスを足す。


「今朝のお料理、とても美味しいですわ。お父様とこうしてご一緒できるから、余計にそう感じるのかもしれません」


 ――言った、その瞬間。


 食堂の空気が、音を立てて凍りついた。


 ヴォルガードが、ゆっくりと、重厚に顔を上げる。

 その氷のような青い瞳が、逃げ場を塞ぐように、真正面から私の緋色の瞳を射抜いた。


「……エルゼ」


 名を呼ばれただけで、心臓を直接握られたような戦慄が走る。


「お前は、いつからそのような……反吐が出る言い回しを覚えた?」


(――あ)


 胸の奥が、ひくりと痙攣した。


「いえ……その、私はただ……」


 反射的に、さらに深みのある営業用の笑みを上塗りしようとする。

 顔の筋肉が、無意識に「好かれるための形」へと歪みかけた、その時。


「媚びるな」


 短く、あまりにも鋭い一言。


 持っていたナイフが皿の縁に当たり、耳障りな音を立てる。

 指先が、制御できないほど震えているのが分かった。


「私は、そのような虚飾に満ちたものを娘に求めた覚えはない。……不快だ」


 低く、抑えられた声。

 怒鳴ってはいない。だからこそ、その言葉は重鉄の槌となって胸を打ち、奥底に封じていた前世の傷を暴き出す。


(――裏目。完全に、踏み抜いた)


 夢の中で味わった、息が詰まるような絶望感が喉元までせり上がる。

 結局、どこへ行っても私は誰かの「正解」になれない。愛嬌を振るえば「不快」だと言われ、本心を隠せば「空っぽ」だと見抜かれる。


(また、同じことを繰り返すの……?)


「……申し訳、ありません」


 声は死人のように掠れていた。

 視線を落とすと、視界の端で、父の武骨な拳がテーブルの上で白くなるほど握られているのが見えた。


 重苦しい、死のような沈黙。


「……勘違いするな」


 父は、私から目を逸らしたまま、絞り出すように続ける。


「お前がここにいること……家族として席を並べていること自体に、不満があるわけではない」


 予想外の言葉に、胸がざわりと揺れた。


「だが……急にそのような態度を取られては信用できん。それが保身のための計算か、それとも……」


 一瞬、言葉が途切れる。


「……本心か。私には判断がつかない」


(――疑心暗鬼)


 昨夜、母が言っていた言葉が、熱を帯びて蘇る。

『不器用で、刃物を差し出してしまう人』。


 ……そうか。

 この人は、私の愛嬌を拒絶したんじゃない。

 エルゼという人間を覆い隠すお面に、苛立っているだけなんだ。


 私は、震える肺いっぱいに息を吸い込んだ。

 ここで、もう一度取り繕った笑みを浮かべたら――きっと本当の意味で、父との距離は閉ざされる。


「……はい」


 だから、飾らない。

 膝の上で指を組み、背中をわずかに丸める。


「私、自分でも……どうすればいいのか、本当は分かっていません。どう振る舞えばお父様に認めていただけるのか、まだ迷っています」


 顔を上げる。

 そこには営業用の笑みも、卑屈な仮面もない。ただ、一人の少女の不安があったはずだ。


「でも……お父様を騙して、何かを奪おうとは思っていません。私はただ……嫌われずにいたいだけです」


 ヴォルガードが、わずかに目を見開く。

 冷徹な青の奥に、初めて動揺の色が波紋のように広がった。


「……そうか」


 それだけ言い、父は逃げるように視線を皿へ戻した。


 再び沈黙。

 けれど――


「……料理が冷める。食事は残すな。身体を壊す」


 不器用で、不機嫌で、それでも昨夜とは明らかに違う、必死に体温を守ろうとするような一言。


(……ああ。……そっか)


 完全な拒絶ではない。

 でも、全面的な受容でもない。


 それでも、昨日よりは確実に近づいている。


 私は鼻の奥がツンとするのを堪え、小さく頷いてフォークを握り直した。


(愛嬌は、万能じゃない)


 夢の中の自分に、静かに告げる。


(でも……捨てる必要もない。操るためじゃなく、伝えるためのきっかけにすればいい)


 朝日が食堂の高い窓から降り注ぎ、父と娘の間に長い影を落としていた。

 その距離は、まだこの長いテーブルと同じくらい遠い。


 それでも――

 今日は、一歩も後ろに下がらずに済んだ、そんな朝だった。

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