第12話 空っぽな私の生存戦略
深い、深い眠りの底で、私は「私」を見ていた。
それは、中世の公爵邸でも、豪華なシャンデリアが輝く広間でも、緋色の瞳を持つ令嬢でもない。
無機質なコンクリートに囲まれた、狭いマンションの一室。昼間でも薄暗く、遮光カーテンの隙間から漏れたわずかな陽光が、宙を舞う埃を淡く照らしているだけのリビング。カチ、カチと、狂いなく刻まれる掛け時計の秒針の音だけが、不気味なほど大きく部屋の輪郭を縁取っていた。
その中央、冷たい合皮のソファに座り、膝を抱えて時計の音を数えている少女。
前世の、私だ。
共働きの両親は、私を愛していなかったわけではない。ただ、彼らにとって仕事は生活のすべてであり、私はその巨大な歯車の隙間に、忘れられたように置かれた存在だった。
誰の手も借りず、一人で静かにしていること。決して面倒をかけない、聞き分けのいい子供であること。激情に任せて声を荒らげたり、親の顔色を曇らせたりしないこと。
それが、この家で私に与えられた「いい子」という名の生存条件であり、私はその狭い枠から一歩もはみ出さないよう、息を殺して育ってきた。
(……ねえ、こっちを見て。私、ここにいるよ)
幼い私は、リビングの隅から、キッチンと玄関を慌ただしく往復する両親の背中を見つめていた。スリッパがフローリングを忙しなく叩く音。カバンに詰め込まれる書類の束。
「行ってきます」の言葉さえ、空気に溶けるほど速い。
呼び止めても、彼らが足を止めて私を抱き上げてくれることはないと、もう知っている。泣いても彼らを困惑させ、その顔に疲労の色を濃くするだけだ。わがままを言うことは、彼らにとっての「不具合」でしかない。
私はただ、静かに微笑んで手を振る。
彼らが一番求めている「完璧な人形」として。そうすれば、ほんの一瞬だけ、彼らの瞳に「自慢の娘」としての私が映り込む。
それが愛だと信じなければ、あの薄暗い部屋で、一人きりの時計の音に耐えられなかった。 愛嬌という名の武器を研ぎ始めたのは、そんな幼い絶望の夜だった。
だから、考えた。
どうすれば、この人たちの視線を一瞬でもこちらに向けられるのか。
導き出した答えは、教科書には載っていない――生きるための処世術だった。
いつもニコニコと、愛らしく。
相手が欲しそうな言葉を、欲しそうな瞬間に差し出す。
そうすれば、お母様は「いい子ね」と、忙しい手を止めて頭を撫でてくれる。
そうすれば、お父様は「お前は自慢の娘だ」と、ほんの一瞬だけ、私の目を見る。
――それが、すべての始まりだった。
学校に上がれば、私は自然と役割を身につけた。
教師には「可愛がられる生徒」を演じ、成績以上の評価を掠め取る。
友達の輪の中では、空気を乱さない「聞き上手な人気者」。
誰かが不機嫌になれば、先に謝った。
場が沈めば、笑って冗談を言った。
(大丈夫。私は、ここにいていい)
その安心感が、私を縛る鎖だとも知らずに。
大人になる頃には、その技術は呼吸のように身体に染みついていた。
上司には、有能で、少し頼りない「守ってあげたくなる部下」。
後輩には、親しみやすくて完璧な「理想の先輩」。
誰に対しても、私は相手が一番欲しがる「理想の私」を差し出した。
媚びて、愛想を振りまいて、甘える。
それは、誰かに愛されるための、私の唯一の生存方法だった。
愛嬌を失った自分には、何の価値もないと、本気で信じていたから。
けれど――。
その「毒」は、いつしか透明な水のように、けれど確実に、私の内側を深く深く侵食していった。
他人の顔色を読み、求められる「理想」を差し出し続ける。それはいつしか、息を吸うのと同じくらい自然で、呪いのように逃れられない習性となっていた。
『君は、僕がいなきゃダメなんだろう? ねえ、そう言ってよ』
耳元で囁かれる、粘りつくような優しさを装った言葉。向けられるのは、愛情ではなく歪んだ独占欲の塊。私が「便利」だから。私の人形のような笑顔が「可愛い」から。
そして、何より私の心が、誰にでも合わせられるほど「扱いやすい」から。
私の丹念に磨き上げた表面だけを愛した人たちは、私の内側にある、誰にも見せられない真っ暗で空っぽな空洞を、慈しむべき聖域だとは露ほども思わなかった。
彼らはそこを土足で踏み荒らし、自分たちの身勝手な欲望で埋め尽くして、我が物顔で居座った。
肺が潰れ、呼吸ができなくなるまで。
結局、誰に対しても一番いい顔を振りまいてきたはずなのに、誰からも「私という人間そのものを愛された」という手応えを得られないまま、私は、あの凄惨な最期を迎えた。
暗い路地裏。冷たい刃。
私を愛していると叫んだ男が、私を壊そうとする皮肉。
――「愛嬌」という名の、誰かに愛されるために研ぎ澄ませてきた武器は、最後には私自身の喉元へ、逃れようのない切っ先として突き立てられたのだ。
(……ああ、そう)
暗闇の中で、鏡が割れるような、乾いた音が響いた。
砕けた破片に映るのは、前世の私と、今の私。
同じ目をして、同じように怯え、同じように笑おうとしている。
今世でも、私はまた同じことを繰り返そうとしている。
お父様に。リリアーヌに。マーサに。
死にたくないから。
愛されたいから。
媚びて、演じて、誰かにとって都合のいい「エルゼ」を作り上げる。
「……また、同じ結末を繰り返すの?」
鏡の中の自分が、冷ややかに問いかける。
「…………っ!!」
心臓が跳ね上がり、私は息を詰まらせて目を開けた。
視界いっぱいに飛び込んできたのは、重厚なベルベットの隙間から繊細なレースのカーテンを透かして差し込む、ソルフェリナ聖王国の眩しい朝陽だった。
前世のあの薄暗い、埃の舞うリビングとは違う。柔らかな光が、天蓋に施された金糸の刺繍を淡く、けれど気高く照らし出している。
吸い込む空気は、清浄な魔力を含んでどこまでも澄んでいた。肌に触れる最高級のシルク。見慣れた、贅の限りを尽くした自室。
私は、エルゼ・ヴァレンティ。
死の運命を背負った、けれど今はまだ、確かに生きている公爵令嬢。
「……っ、はあ……、はあ……」
喉を震わせ、浅い呼吸を繰り返す。
全身には、じっとりと嫌な汗が滲んでいた。 夢の中で感じた、あの心に冷たい穴が開いたような空虚な絶望が、冷えた鎖のようにまだ喉の奥に絡みついて離れない。
(……愛嬌で生き抜く。それ自体は、間違ってない。今の私には、それしか……)
処刑台という物理的な終焉を回避するには、周囲を味方に引き入れるしかない。
そのためには、前世で磨いたあの「武器」を振るう他ないのだ。
けれど。
(ただ「媚びる」だけじゃ……相手の欲しい言葉を並べるだけじゃ、きっと前世と同じになる)
また誰かに歪な執着を抱かせ、あるいは、誰からも本当の意味で見られないまま、都合のいい人形として使い潰される。
誰かを操り、自分の身を守るための盾としての愛嬌ではなく、本当の意味で誰かと心を繋ぎ、独りではないと確信するための何かが――。今の私には、決定的に欠けている。
昨夜、お母様に抱きしめられた時の、あの焼けるような胸の痛み。
それが何なのか、まだ正体は分からないけれど。
私は震える手で、乱れた髪を乱暴にかき上げた。
「……おはようございます、お嬢様。……ずいぶん、うなされていたようですが」
気づけば、枕元にはマーサが立っていた。
カーテンを開け放ち、鋭い眼鏡越しの視線がこちらを射抜く。
「……嫌な夢を、見ただけよ。それより、マーサ」
私は、シーツの下で震える手を、ぎゅっと握りしめた。
「今日、お父様は……朝食、本邸で召し上がるかしら?」
「ええ。ただし、お嬢様は昨夜の件もございますし、お部屋で召し上がった方が――」
「いいえ。行くわ」
夢の中の自分に、心の中で中指を立てる。
媚びて、演じて、それでも――
今度は、誰かの所有物になるためじゃない。
私自身の人生を、勝ち取るために。
「愛嬌」という武器を、
今度は、正しく使いこなしてやる。
鏡に向かい、私は微笑んだ。
営業用ではない、少しだけ不器用で、少しだけ本心に近い笑顔を。
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