第11話 夜、聖女は娘を抱きしめる

 自室の扉を閉めた瞬間、張りつめていた何かが、ぷつりと音を立てて切れた。


 ドアの冷たい木肌に背中を預けたまま、ずるずるとその場に座り込む。

 膝が笑っている。いや、もう笑う気力すらない。ただ力が抜けて、床に体を預けるしかなかった。


「……あ、あはは……」


 喉の奥から、乾いた笑いが零れる。


「生きてる……。私、まだ……首、繋がってる……」


 ドレスの裾がぐしゃぐしゃに皺になろうが、完璧に整えていたはずの髪が乱れて一房垂れ下がろうが、もうどうでもよかった。

 今さら体裁を保つ余裕なんて、どこにも残っていない。


(……つかれた……。今日、人生五回分くらい生きた気がする……)


 離宮での、命懸けの「愛嬌(営業)」攻勢。

 リリアーヌの、想像を遥かに超えてくる天使力――尊さという名の聖属性ダメージによる、オタク特有の精神的過呼吸。

 そして極めつけは、玄関ホールでの父・ヴォルガードとの、物理的にも精神的にも噛み合わなすぎる、あの死の対面。


 脳内でさっきのやり取りを一つ思い出すたびに、胃の奥が、濡れ雑巾を絞られるみたいにきゅっと縮む。


「『醜態を晒すな』……かぁ……」


 ぽつりと呟く声は、驚くほど小さかった。


「……やっぱり、顔も見たくないって、ことよね……」


 よろよろと重い体を持ち上げ、吸い込まれるように天蓋付きの大きなベッドへ倒れ込む。

 ふかふかのマットレスが、まるで雲の底に沈むみたいに身体を受け止めた。

 枕に顔を埋めると、天蓋のレース越しに見える天井のシャンデリアが、やけに遠く、まるで別の世界の光のように揺れて見える。


(私……ちゃんと、やり直せるのかな……)


 思考が、少しずつ暗い方へ傾いていく。


(三ヶ月後には、首と胴体……お別れパーティーとか、なってないかな……)


 ネガティブな妄想が、いつものように勢いを増し始めた、その時だった。


 ――こん、こん。


 絹の布が擦れるような、この屋敷には似つかわしくないほど控えめで、柔らかなノックの音。


「……エルゼ? 起きているかしら」


 反射的に、胸の奥がきゅっと、切なさを含んだ音を立てて跳ねた。


 この声を、私は知っている。

 前世の記憶を取り戻すよりも前から、この冷え切った公爵邸で、唯一私を凍え死なせずに繋ぎ止めてくれていた、温かな光。


「……お母様……?」


 静かに扉が開き、滑り込むように入ってきたのは、現聖女・シエラだった。


 月の雫をその身に宿しているかのような、穏やかで清浄な微笑み。

 人々の前で奇跡を授ける「聖女」の仮面を外した、今ここにいるのは――この世でただ一人の、「私の母」。


「お疲れさま。ずいぶん顔色が悪いわね……」


 そう言ってから、少しだけ目を細める。


「マーサに、また絞られたのかしら?」


 冗談めかした声音。

 それだけで、限界まで張りつめていた心の糸が、春先の雪みたいに、静かにほどけていくのが分かった。


「……だいじょうぶ」


 精一杯、平気なふりをしてみる。


「ちょっと、歩きすぎちゃっただけ……」


 でも、声は正直だった。情けないほど震えてしまう。


 シエラは何も言わない。

 ただ、私の乱れた髪を、昔――まだ私が「ただの可愛いエルゼ」だった頃と同じように、ゆっくりと、慈しむように撫でてくれた。ひんやりとした彼女の手のひらが額に触れただけで、胸の奥に溜まっていた泥のような不安が、じわりと形を変え、涙になって滲み出してくる。


「……ねえ、お母様」


 気づけば、前世の営業スキルも、悪役令嬢としてのプライドも、どこかへ消えていた。

 口から出たのは、年相応の、ただの子どもの声。


「……私、リリアーヌと……仲良くなれるかな」


 ぽつり、と零れ落ちた本音。


「あの子……私を見るだけで、震えてたの。今までずっと……私、あの子に、酷いことばっかりしてきたから……」


 記憶が、次々と胸を刺す。


「お菓子をあげても……毒が入ってるんじゃないかって、思われた気がして……」


 シエラは少しだけ目を見開き、それから、今まで見たことがないほど優しく、そしてどこか痛ましそうに微笑んだ。


「……そうね」


 ゆっくり、言葉を選ぶように。


「すぐには、簡単じゃないかもしれないわ」


 安っぽい慰めで否定しない。

 私の過去を、過ちを、ちゃんとあったものとして受け止めてくれる優しさが、逆に胸に沁みて痛かった。


「でも、エルゼ。大切なのは、貴女が今、これからどうしたいか、よ」


 シエラは私の震える手をそっと取り、温かな両手で包み込んだ。


「貴女がこうして悩んで、不安になって、胸を痛めるほど……あの子のことを想っている。その痛みこそが、貴女が変わろうとしている証」


 静かに、でも確かに。


「それだけで、私は……十分すぎるほど誇らしいわ」


「……でも……」


 言葉が、喉に棘のように引っかかる。


「……お父様は……」


 玄関ホールで見た、あの氷のような瞳。

 突き放すような声。


「……きっと、お父様は……私より……リリアーヌの方が、大切なの」


 震える声で、続ける。


「あの子には……力があるから。私みたいな……出来損ないの娘より……」


 言ってしまった。ずっとエルゼの心の深層に澱んでいた、真っ黒な本音。  

 言った瞬間に、胸がずきりと、えぐられるように痛んだ。


 けれど、シエラは即座に、はっきりと首を振った。


「そんなこと、あるはずがないわ」


 静かで、それでいて岩をも穿つほどに迷いのない声。


「貴女は、私たちの……何物にも代えがたい、自慢の、大切な一人娘よ」


 その言葉に、息が詰まる。


「魔力の有無なんて、私たちの愛には……一粒の砂ほどの重みも無いの」


 シエラは私の顔を両手で包み込み、額にそっと、羽が触れるような口づけを落とした。


「ヴォルガードは、言葉も態度も冷たいけれど……」


 苦笑して、でも優しく。


「信じなさい。あの人は誰よりも貴女を案じているわ。……不器用で、刃物を差し出してしまう人なの」


 その言葉に、ついに堰が切れた。


 視界が滲み、涙が、ぽろり、ぽろりと頬を伝って枕を濡らす。


「……お母様……っ」


 私は、前世で築いた「大人の私」を全部捨てて、ただの子どもみたいにシエラに縋りついた。


 死にたくないからでも、処刑されたくないからでもない。

 ただ――「愛されたい」。


 エルゼの魂が、そう叫んでいる気がした。


 聖女でも、悪役令嬢でもない。

 ただの母と娘の、静かな時間が、夜の部屋を満たしていく。


(……まだ、やり直せる)


 この人が、こんなにも信じてくれるなら。


 死の淵で凍えかけていた心が、ほんの少しだけ、生きる力で満たされた――そんな夜だった。

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