第10話 父と遭遇しました(生存率:低)

 離宮『ルナ・ピュール』からの帰り道。

 私の足取りは、もはや人間のそれではなかった。


 例えるなら、全盛期のゾンビ映画で一番最初にやられるモブ。

 魂が半分以上抜け落ちたまま、目的地も分からずふらつく、哀れな千鳥足である。


(……し、死ぬ。これ、普通に死ぬ……。物理的な処刑の前に、精神が先に消滅しそう……)


 前世で培った、どんな理不尽な客にも笑顔を貼り付ける「鉄の営業スマイル」。

 今世では地面に頭を擦り付ける勢いの全力謝罪。

 それに加えて、ヒロイン・リリアーヌが想像の三倍……いや三千倍は天使だったという、想定外の聖属性ダメージ。


 脳内で、「尊い」「可愛い」「守りたい」「でも嫌われてる」「でもクッキー食べた」が高速で無限ループし、私の情緒は完全にオーバーヒートしていた。


「お嬢様。今にも魂が口から這い出しそうな顔をなさらないでください。不吉ですし、何より公爵家の庭園に似合いません」


 隣を歩くマーサが、いつも通り――いや、いつも以上に氷点下の声で忠告してくる。


「マーサぁ……もう無理……一歩も動けないわ……。リリアーヌの尊さと緊張感のダブルパンチで、寿命が三日は縮まったわよ……」


 自覚はある。今の私は、深夜のコンビニ前にたむろする疲れ果てた若者のような、あるいは徹夜明けの限界オタクのような、ひどく虚無的な顔をしているはずだ。

 それでも、どうにかこうにか鉛のように重い足を前に出す。だって立ち止まったら、さっきの出来事を全部反芻して、リリアーヌの可愛さに悶え死ぬか、自分の過去の悪行を思い出して爆死する未来しか見えないから。


(道のり、長すぎでは……? まだ生存戦略の第一歩よ……?)


 心身ともにボロ雑巾のようになりながら、ようやく本邸の巨大な玄関ホールへ辿り着いた、その瞬間だった。


「……遅い」


 地獄の底から這い上がってきたような、重く、容赦のない声。


 びくん、と背筋に電流が走る。

 円柱の影から現れたのは、漆黒の軍服を隙なく纏い、眉間に深い峡谷のような皺を刻んだ男。


 ――私を殺す予定の処刑執行人。

 もとい、父。ヴォルガード・ヴァレンティ。


(ひえっ……出た……死神……! いえ、お父様……!)


「お、お父様……。ただいま戻りました……」


 声が、情けないほど裏返る。喉がひっつれて、まるで笛のような音が出た。

 父は何も言わず、ただ高い位置から私を見下ろした。その青い瞳は、零下三十度の吹雪みたいに冷たくて、不純物を一切許さないほどに澄んでいる。


(やばい……これ、いわゆる『殺気』ってやつじゃない……? 私、今日また何かやらかした……?)


 思い当たる節が多すぎて、逆に特定できないのが悪役令嬢ライフの恐ろしいところだ。


「……無謀な真似を」


 低く、鋭い声。

 彼の周囲だけ、空気が凍りついている。


「分不相応な場所へ行って、何を得た」


(分不相応!? つまり『魔力ゼロのゴミ屑が、次期聖女の神聖な離宮に足を踏み入れるな』って意味ですよね!? 詰んだ!!)


 心臓が「助けて」と悲鳴を上げる。


「あそこには、お前が逆立ちしても手に入らないものが溢れている。……惨めな思いをしただけではないのか。答えろ」


(追い打ちがエグい!! 父親に直球で「惨めな無能」って言われたぁぁ!!)


 脳内で「処刑開始」の文字が、真っ赤に点滅し始める。私はガタガタと膝を震わせ、今にもその場に土下座しそうになった。


「……申し訳、ございません……」


 声が震え、視界が滲む。

 恐怖と疲労で、得意の愛嬌スキルを発動する余裕すらない。


「私が……身の程知らずでした……」


 その怯える姿を見て、父の表情がわずかに歪んだ――気がした。


「……エルゼ」


 一歩、近づく。

 軍靴が石床を鳴らす音が、ギロチンの刃が落ちる音に聞こえた。


「貴様は、私によく似ている」


(えっ……?「私と同じで救いようがないから、今のうちに処分する」って意味!? 怖い! この人の思考回路、全自動で処刑に直結しすぎ!!)


「お、お父様……! 私、明日からはもっと、その……反省して、目立たないようにしますから! 離宮の庭の雑草にも触れませんからぁ!」


 必死の命乞い。


「明日も行くつもりだったのか!?」


 声が跳ね上がる。


(来た!! 「次は剣を抜く」宣言!!)


「ひぃっ、ごめんなさい! 行きます……じゃなくて、行きません! いえ、行かせてください! 仲良くなって好感度を上げないと……し、死……社会的に抹殺されちゃうんですぅ!!」


 完全にパニックだ。

 前世のゲーム用語まで混ざり、支離滅裂もいいところである。


「……支離滅裂だな」


 父は、ついに大きな掌で顔を覆った。


「……顔を洗って、すぐに寝ろ。これ以上、醜態を晒すな」


(翻訳:『お前の見苦しい顔なんて見たくないから、視界から消えろ』ですね。了解しました、マッハで消えます!!)


「し、失礼します!!」


 私はドレスの裾を掴み、脱兎のごとく自室へ逃げ帰った。




 ――その頃のことなど、知る由もない。


 嵐が去った後のような玄関ホール。

 伸ばしかけた手を、虚空に彷徨わせたままの父が、ぽつりと呟いた。


「…………また、嫌われたか」


「お館様」


 背後から、淡々としたマーサの声。


「今のは、誰がどう聞いても嫌われます」


 今日一番、正確で、容赦のない一撃だった。

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