第9話 閉じた心に甘い匂い #リリアーヌ視点
父が亡くなったのは、私が五歳のときだった。
今でも、目を閉じれば鮮明に思い出せる。
大きな手。低くてやさしい、陽だまりのような声。肩車の高さから見た空は、泣きたくなるほど青く、どこまでも広がっていた。
けれどその記憶は、掴もうとすると指の隙間から零れ落ちてしまう。
霧のように曖昧で、切なくて、夢と現実の境目に沈んだままの光景だった。
父――ヴァレンティ家の長男。
誰もがその背中を追い、誰もがその人柄を愛した、太陽のような人。
そして、私という存在を、理由も条件もなく、ただ心から愛してくれた。
世界で、たった一人の大切な存在。
その光が失われた日から、私の世界は急に色を失い、音を失い、静かになった。
「次期聖女候補」。
周囲が私を呼ぶその言葉は、祝福の形をしていながら、重たい鎖のように私を縛りつけた。
天性の魔力。圧倒的な純度。
神に選ばれたという「資質」が、私から子供であることも、自由であることも、奪っていく。
母とも引き離され、私は一人、この白亜の離宮――『ルナ・ピュール』で暮らすことになった。
大勢のメイドたちに囲まれ、衣食住すべてが整えられた、何不自由ない生活。
けれど、彼女たちの視線は、決して私自身を見てはいなかった。
見られているのは、私の中に眠る「聖女の器」だけ。
期待。
渇望。
義務。
その無言の圧力に、時々、溺れてしまいそうになる。
笑顔でいなければ。
弱音を吐いてはいけない。
私は、聖女になるための「道具」なのだから。
そうやって私は、自分の心を、幾重にも重ねた氷の層の奥へと閉じ込めていった。
――そこへ追い打ちをかけるように、従姉妹であるエルゼお姉様の存在が、私の胸を刺し続けた。
現聖女シエラ様の、たった一人の娘。
本来なら、その光を受け継ぐはずだった、正当な後継者。
私が聖女候補に選ばれたことが、どれほど彼女の誇りを傷つけ、居場所を奪ったのか。
幼いながらに、私は理解してしまっていた。
それは誰かに教えられたわけじゃない。
空気で、視線で、沈黙で――「そう思え」と言われているような気がしただけ。
お姉様は、私を見ない。
同じ部屋にいても、まるで私だけがいないかのように、視線はいつも素通りしていく。
勇気を振り絞って話しかけても、返ってくるのは冷たい蔑みの視線だけ。言葉を交わすよりも早く、心を拒絶される。時には、鋭い刃のような言葉が投げつけられて、胸の奥を深く抉った。
その一言一言が、
「あなたは、ここにいてはいけない」
そう告げられているようで、息が詰まった。
(……嫌われている。当然よね。私さえいなければ、お姉様は……)
そう思えば、少しだけ楽だった。
悪いのは全部、自分なのだと決めつけてしまえば、これ以上傷つかずに済むから。
私がここにいること自体が、誰かの大切なものを奪い、壊している。
そう信じ込むことでしか、自分を保てなかった。
だから私は、より一層縮こまった。
声を潜め、視線を伏せ、感情を押し殺す。
誰の邪魔にもならないように。誰の目にも留まらないように。
――透明な存在になれたなら。
きっと、誰も傷つかない。
そう思い込みながら、私は息を潜めて生きていた。
そんな私の前に。
――あの日、突然。
エルゼお姉様が、手作りのクッキーを持って訪ねてきた。
(……どうして? 毒? それとも、新しい罰?)
扉が開いた瞬間、心臓が口から飛び出しそうなほど跳ね上がる。
身体が勝手にこわばり、指先から血の気が引いていくのが分かった。
けれど。
お姉様は、怒鳴らなかった。
詰め寄ることもせず、床に膝をついて、私よりずっと低い位置から、震える声で謝った。
……正直、頭が追いつかなかった。
隣に座って、一緒にお菓子を食べる。
ぎこちなくて、怖くて、それでも――同じソファのクッションが沈む感触が、確かな現実を告げていた。
お姉様は、時折、私を食い入るように見つめてくる。
緋色の瞳が燃えているみたいで、怖くて……目を逸らしたくなるのに。
それでも、お姉様が「あなたが可愛くて、魂が飛んでいた」なんて、信じられない言葉を口にするたび、胸の奥が、きゅっと熱い音を立てた。
(……本当に、嫌われていないのかな)
ずっと、誰かに嫌われないように。
期待を裏切らないように。自分を削り続けてきた。
「必要だから」ではなく、ただ「一緒にいたい」と願ってもらえる未来なんて、考えたこともなかったのに。
差し出されたクッキーの甘さが、冷え切っていた喉の奥を、ゆっくり溶かしていく。
(……仲良く、なれるのかな)
まだ、怖い。
明日になれば、また冷たいお姉様に戻っているかもしれない。
けれど。もしも。
もしも、あの温かい手が、本当に私の居場所になってくれるのなら。
私は――。
お姉様が帰った後の、静まり返ったサンルーム。
私は、お姉様が座っていた場所の余熱を確かめるように、そっと手を置いた。
その瞬間、ぞくり、と背筋を熱が駆け抜ける。
この温もりを、誰にも渡したくない。
私を「聖女」ではなく、「可愛いリリアーヌ」として見てくれた、あの緋色の瞳。
もしもお姉様が、本当に私のことを「食べちゃいたいほど好き」だと言ってくれるなら。
いつか、私の方からも――。
小さく閉じたままの心が、ほんの少しだけ。
みしり、と。
重く、甘い音を立てて、確かに開き始めていた。
「……また明日も、来てくださいね。お姉様」
無意識に零れたその声が、自分でも驚くほど、深く、粘つく執着を孕んでいたことに――
今の私は、まだ気づいていなかった。
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