第7話 恐怖の令嬢、親友作戦

 翌朝。

 私は鏡の前で、自分の「武装」を確認していた。

 公爵令嬢としての気品は保ちつつも、威圧感を与えない柔らかな桃色のドレス。髪はきっちり結い上げず、少しだけゆるく巻いて親しみやすさを演出する。


(よし。今の私は、毒気ゼロ。ただの「反省したお姉様」よ)


 意を決して、背後に控える教育係に向き直った。


「マーサ。今日の午後、リリアーヌのところへ行きたいわ。準備をしてくれるかしら?」


 その瞬間、部屋の温度が五度くらい下がった。マーサの手がぴたりと止まる。彼女は眼鏡のブリッジを指先でクイと押し上げ、絶対零度の瞳で私を射抜いた。


「……お聞き間違えでなければ、リリアーヌ様、とおっしゃいましたか?」


「ええ、そうよ。従姉妹同士、久々にお茶でもどうかと思って」


「お嬢様。……昨日のハーブティーの影響が脳まで達したのですか? もしや、リリアーヌ様を離宮ごと爆破する新手の呪詛でも思いつかれたので?」


「失礼ね! 仲良くしたいだけよ、これ以上なく純粋に!」


 マーサは深く、地鳴りのようなため息をついた。その視線は「今日はどの方法でリリアーヌ様を泣かすつもりですか」と語っている。無理もない。これまでの私は、リリアーヌが視界に入るだけで「不愉快よ!」「居候の分際で!」と罵詈雑言を浴びせていたのだ。

 マーサからすれば、餓えた狼が自ら仔羊の元へ行きたいと言い出したようなものだろう。


(さあ……ここで引いたら死あるのみよ。前世で培った「愛嬌」をフル稼働させるわ!)


 私は椅子から立ち上がり、マーサの手をそっと包み込んだ。


【愛嬌テクニック:その一・脆弱性の開示と物理的接触】

 人は自分を頼ってくる、弱さを見せる相手を完全には拒絶できない。


「マーサ……。今まで、私が彼女に酷いことをしてきたのは分かっているわ。だから、怖いの。私が会いに行っても、あの子は怯えるだけかもしれない。……でも、私は変わらなきゃいけないの。お母様のような、あたたかい人になりたいのよ」


 私は、緋色の瞳をわざとうるませ、少しだけ声を震わせた。上目遣いでじっと見つめ、縋るように力を込める。


「お願い、マーサ。私の味方になって。あなたがいなきゃ、私、また意地悪なエルゼに戻っちゃいそうで怖いの……」


 マーサが黙り込む。彼女の鋭い観察眼が、私の表情の隅々までを走査している。一秒、二秒――。やがて、彼女は諦めたように肩の力を抜いた。


「……その顔、反則だという自覚はありますか?」


「え?」


「……いえ。よろしいでしょう。ただし、私が常に背後に控えます。もしお嬢様が扇を振り上げようものなら、即座に私がその腕を捻り上げますので」


「えっ、過激じゃない!? ……でも、ありがとう! 大好きよマーサ!」



 __________



 公爵邸の北側に広がる、静かな森の奥。

 そこには本邸の厳格さとは一線を画す、白亜の美しい離宮が佇んでいた。


 離宮『ルナ・ピュール』。


 かつて戦死した伯父様の忘れ形見であり、次期聖女候補としての資質を持つリリアーヌのために、王家がその威信をかけて下賜した「聖域」だ。

 屋根は淡いブルーの鱗雲のような瓦で覆われ、壁面には精緻な聖樹のレリーフが彫り込まれている。周囲には清浄な魔力を蓄える「月見草」が咲き乱れ、風が吹くたびに銀色の粉が舞う。


(……まさに、乙女ゲームのヒロインにふさわしい、特別扱いのステージよね)


 リリアーヌは、ここで実の両親と離れ、大勢の専属メイドたちに囲まれて暮らしている。守られているといえば聞こえはいいが、私から見れば、それは金色の鳥籠に等しかった。


「お嬢様。その殺気に満ちた笑みを収めてください。これ以上リリアーヌ様のメイドたちに嫌われると、ヴァレンティ家の評判がさらに奈落へ直行します」


 背後で、マーサが冷徹な声を落とす。


「失礼ね! 今のは『さあ、仲良くなりましょう』という親愛の微笑みよ!」


「……私には『さあ、この城をどう攻略してくれようか』という、悪女特有の不敵な笑みにしか見えませんでした」


 相変わらず厳しい。

 入り口に近づくと、純白の制服をぴっちりと着こなしたメイドたちが、私の姿を認めるなり、まるで害獣でも見つけたかのように表情を凍りつかせた。彼女たちにとって、私は「リリアーヌの心を削りにくる、最悪の従姉妹」なのだ。


「エルゼ……お嬢様。本日はどのようなご用件でしょうか」


 門番代わりのメイドが、一歩も通さない構えで立ち塞がる。

 私はここで、第二の策を投じた。


【愛嬌テクニック:その二・敵意のない贈り物(賄賂ではない)】


「……ごめんなさい。急に来てしまって。リリアーヌにお詫びがしたくて……つい、居ても立ってもいられなくて」


 消え入りそうな声。

 けれど、はっきりと「歩み寄りたい」という意思を込める。メイドたちが顔を見合わせた。明らかに戸惑っている。

 いつもなら「道を空けなさい、この低能共!」と叫び散らす嵐が、今日は春先のそよ風のようにしおらしいのだから。


「……リリアーヌ様は、二階のサンルームにいらっしゃいますが。お嬢様、本日はその……」


「これ、みんなで食べて。私、いつもあなたたちに酷い態度を取っていたでしょう? お詫びの印……なんて言ったら、図々しいかしら」


 バスケットから、あらかじめ用意していた最高級ティータイムセットの小袋を差し出す。  人は贈り物をされると、反射的に攻撃性が削がれる。ましてや、格上の相手から弱々しく差し出されれば、毒気は抜かれるものだ。


 彼女たちの戸惑いを背に、私は二階のサンルームへと向かった。

 扉の向こうからは、かすかに静かな祈りの気配が漂ってくる。


(よし、エルゼ。ここが正念場よ。ヒロインを味方につければ、私は死なない!)


 私は一度、扉の横の壁で、表情を「慈愛120%」に固定。そして、ノックの音を優しく、トントンと軽やかに鳴らした。


「リリアーヌ、入るわよ」


 ゆっくりと扉を開ける。そこには、午後の柔らかな光の中で、刺繍の手を止めた一人の少女がいた。

 ふわふわのプラチナブロンドに、潤んだ琥珀色の瞳。リリアーヌ・ヴァレンティ。

 まさに、穢れを知らない月光のような美少女が、私を見た瞬間にガタガタと椅子を鳴らして立ち上がった。


「きゃっ……! エ、エルゼ、お姉様……っ」


 彼女は文字通り、震える手で胸元を押さえ、ソファの端へと縮こまった。その瞳には、完全なる「恐怖」が宿っている。抱えていた本が床に滑り落ち、小さな肩が目に見えて震えている。


(……うん、知ってた。私、相当嫌われてるっていうか、恐怖の対象だよね)


 私はあえて近づかず、入り口付近で立ち止まった。


【愛嬌テクニック:その三・パーソナルスペースの確保と自己批判】

 いきなり距離を詰めず、まずは自分が「敵ではない」ことを証明する。


「怖がらせてごめんなさい、リリアーヌ。……あなたに、謝りたくて来たの」


 私はその場に、ふわりと膝を折って座り込んだ。

 公爵令嬢が床に膝をつくなど、本来ありえない。その「非日常的な低姿勢」に、リリアーヌが呆然と目を見開く。


「私、今まで本当に最低だったわ。……あなたの才能が羨ましくて、妬ましくて、意地悪ばかりして……。でも、もうやめたの。私、あなたと……ちゃんとした、家族になりたいのよ」


 私は、持ってきたバスケットからクッキーを一枚取り出し、毒がないことを示すために自分でパクリと食べた。

 そして、リスのように頬を動かしながら、はにかむような笑顔を向ける。


「……甘いわよ? あなたも、食べてくれる?」


 首を少しだけ傾げ、潤んだ瞳でじっと見つめる。

 前世で、どんなに機嫌の悪い相手も一瞬で毒気を抜いてきた「必殺の甘え顔」だ。


「……お姉、様……?」


 リリアーヌの瞳から恐怖が少しずつ消え、代わりに強烈な「戸惑い」と、微かな「期待」が混じり合う。


(いける……! 攻略の光が見えたわ!)


 私は、おずおずと差し出された彼女の震える指先を、壊れ物を扱うようにそっと両手で包み込んだ。

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