第6話 悪役令嬢、記憶がポンコツです

 自室に戻り、重厚な樫の木の扉を閉めた瞬間、私は反射的にその場に崩れ落ちるように背中を預けた。


「……っ、はぁ……」


 喉から零れた息は、完全に素だった。

 お母様の前で、そして回廊で必死に貼りつけていた「改心した健気な娘」の引きつった笑顔は、もう一秒たりとも維持できない。肺の奥まで冷たい空気を送り込み、バクバクと暴れる心臓を必死に宥める。


(落ち着け……落ち着け、私。ここでパニックになったら、全部終わる)


 深呼吸。ひとつ、ふたつ。

 指先がかすかに震えているのが、自分でもはっきり分かった。


 三ヶ月後の晩餐会――

 お母様が何気なく口にしたその言葉が、警鐘のように頭の中で何度も鳴り響いていた。


(思い出しなさい。お願いだから……私の生死に直結する大事な情報なんだから)


 私はふらつく足取りで執務机へ向かい、椅子に腰掛ける余裕すらなく、机に突っ伏した。

 冷たい木の感触が、熱を持った思考をわずかに冷ましてくれる。


(乙女ゲーム『煉獄のロザリオ』……)


 救いのない展開と、容赦のないバッドエンド分岐で有名だった、あの作品。


(……あれ?)


 けれど、次の瞬間。

 思ったよりも肝心な記憶が出てこないことに気づき、背筋がひやりとした。


(おかしいわね……もっと詳細に覚えてるはずじゃなかった?)


 前世の私は、確かにこのゲームをやり込んでいた。

 隠しエンディングも、全ルートも、一応は制覇した……はず、なのに。


(……待って)


 冷静に思い返して、嫌な汗が背中を伝う。


(私……そんなに脳死プレイしてた?)


 美麗なグラフィックにうっとりして、

 声優の甘い声に耳を溶かされ、

 イベントは作業のように消化。


 選択肢は攻略Wikiを横目に雰囲気でポチポチ。

 悪役令嬢エルゼの言動なんて、「またこの子暴れてるなー」くらいの感覚で、ほぼスキップしていた。


(……そりゃそうよ! 当時は私が彼女になるなんて、考えもしなかったんだから)


 私は絶望に顔を歪め、ガシガシと頭を抱えた。覚えているのは、あまりにも残酷な「結果」だけ。


 三ヶ月後の晩餐会。

 ヒロインと王子が出会う。

 私は嫉妬に狂い、暴れ、ヴァレンティ公爵令嬢としての評判が地の底に落ち、処刑台への階段を一段飛ばしで駆け上がる。


(過程が、全部抜け落ちてる……!)


 何が引き金で、どうしてあそこまで取り返しのつかない行動を取ったのか。

 その肝心な部分が、霧に包まれたように見えない。


 私は慌てて羊皮紙を引き寄せ、震える手で羽根ペンを握った。


『三ヶ月後・王太子帰還記念晩餐会』


 殴り書きの文字の横に、思い出せる限りの重要人物を書き連ねる。


 ・アシュレイ・ソルフェリナ第一王子

 ヒーロー。金髪、翠眼、文武両道。

 とにかく眩しい。温厚。

 今の私が近づいたら、直視できない光線で灰になりそう。


 ・リリアーヌ・ヴァレンティ

 私の従姉妹。物語のヒロイン。

 清廉潔白、薄幸、けれど芯が強い。

 次期聖女に選ばれる運命の子。


 ……そこまで書いて、ペンが止まった。


(リリアーヌ……)


 胸の奥が、きゅっと嫌な音を立てる。


 原作の私が彼女に抱いていたのは、激しい憎悪だった。

 思い出そうとすると、どろりとした負の感情だけが蘇る。


 苛立ち。

 劣等感。

 理由の分からない、生理的な拒絶。


(……そうだ)


 気づいてしまった。


(私、彼女を一方的に嫌ってたんだ)


 絡まないようにしていたんじゃない。

 徹底的に避け、影で見下し、勝手にライバル視して敵認定していた。


 自分より魔力量が高く、

 自分より周囲に愛される存在が、

 プライドの高いエルゼには、どうしても許せなかった。


 だからこそ、晩餐会で爆発した。

 積もり積もった感情が、ワイングラスと一緒に噴き出した。


(……ってことは)


 思考の糸が、はっきりと一本に繋がる。


(逆じゃない?)


 私は勢いよく顔を上げ、窓の外に広がる夜の屋敷を見据えた。


(原作では、嫌って、距離を取って、勝手に孤独になって拗らせた)


(だったら――)


 羽根ペンを走らせる。


『生存仮説』

 ・原作エルゼはリリアーヌと「関係性ゼロ」だった

 ・感情を溜め込み、仮想敵に仕立てた結果、爆発


『対策案:リリアーヌ・フレンドシップ計画』

 ・最初から普通に仲良くする

 ・比較しない、敵視しない

 ・感情を溜め込まない


「……これ、アリじゃない?というか、これしかないわ」


 暗い部屋に、自分の声が小さく響く。

 でも、それは恐怖ではなく、かすかな希望に近い震えだった。


(ヒロインを敵にしなければ、そもそも悪役にならない)


 リリアーヌは、原作知識では善良そのものの子だ。

 無自覚に周りの好感度を稼いでしまう天性の素質はあるけれど、決して誰かを陥れるようなタイプじゃない。

 だったら、こちらから歩み寄って、まともな親戚付き合いをしていれば……。


(「ちょっと過保護な従姉妹のお姉ちゃん」くらいのポジション、取れるんじゃない?)


 私は羊皮紙の中央に、力強く書き込んだ。


『最終目標』

 ・リリアーヌと普通以上の健全な関係を築く

 ・敵でも味方でもなく、親愛なる従姉妹になる


(うん……これで行こう)


 王子? ヒーロー?

 今の私には、正直どうでもいい。彼とのロマンスなんて、処刑台への片道切符でしかないんだから。


(ヒロインと仲良くしてる悪役令嬢なんて、シナリオ的に一番扱いづらい存在でしょ)


 机の上には、殴り書きのメモと、こぼれたインクの跡。

 完璧な未来図なんてどこにもない。


 それでも。


(大丈夫。今の私は、前世みたいに流されて死ぬ私じゃない)


 生き残るために、守るために、自分の意思で愛嬌を使う。


 生存戦略・第四段階。

 ――「ヒロインと親友(仮)ルート」、正式採用。


 夜更け。

 時計の針が刻む一定のリズムだけが、静まり返った部屋に響く。その冷徹な音を聞きながら、私は決意を胸の奥に深く刻み込んだ。


(もう、勝手に誰かを嫌ったりしない)


(今度は、自分で選ぶ)


 それが、どれほど予測不能な未来に繋がるとしても。

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