第5話 氷の言葉は、愛を隠すためにある #シエラ視点

 エルゼの背中が、夕闇に溶け込むように回廊の角を曲がって見えなくなる。

 最後まで崩さなかった、どこか無理に作ったような引きつった笑顔。それが、私の胸の奥に、ささくれ立った棘のように引っかかったまま、どうしても消えてくれなかった。


(……あの子)


 無理をしている。

 それは、母親としてでなくとも、ただの観察者であっても分かるほど、あまりにもあからさまだった。

 必死に感情を抑え、必死に「良い子」の輪郭をなぞろうとしている。壊れた器を、割れ目が見えないように両手で覆い隠すみたいに。


 けれど私は、あえて呼び止めなかった。

 温室のガラスを叩く、夜風の微かな音を聞きながら、今はあの子に――自分自身と向き合うための、一人きりの時間が必要なのだと、自分に言い聞かせる。


 セレスティ・ガーデンに、夜の予感を孕んだ静けさが戻る。

 夕陽はすでに沈み、花々は重たい花弁を閉じて眠りにつこうとしていた。

 私は、肺の奥に溜まっていた澱を吐き出すように、深く息を吐く。


 ――その時だった。


「……行ったか」


 背後、影が濃くなった庭園の入り口から、低く抑えた声が落ちてくる。

 振り返らなくても分かる。

 空気が、ほんの一瞬で張り詰める。金属の冷気が、肌を刺す。


「ええ。自室に戻ったわ」


 答えると、重厚な軍靴の音が一つ、石床を叩いて近づいた。

 漆黒の鎧を纏った夫――ヴォルガードは、私の数歩後ろ、影と光の境界線でぴたりと立ち止まる。


 彼はいつも、こうだ。

 近づきすぎず、離れすぎず。

 まるで、私という壊れやすい硝子細工に、己の無骨な鎧が触れて粉々にしてしまうのを恐れているかのように。


「……今日のエルゼは、妙だな」


 短く、感情の起伏を削ぎ落とした言葉。

 鉄のように冷たい、彼らしい言い方。


「妙、だなんて……ずいぶん酷い言い方ね」


 私は、先ほどまで胸に残っていた、あどけない温もりを思い出しながら、苦笑した。


「泣いて、謝って……あの子なりに、必死だっただけよ」


「急すぎる」


 即座に返ってきた否定。

 その声音には、戦場で異変を察知する騎士団長としての、鋭すぎる警戒が滲んでいた。


「今までと違いすぎる。……何か、裏があるのではないか。あるいは、何者かに教唆された可能性もある」


「あなた……」


 思わず、力のないため息が零れる。


(本当に、この人は……)


 私は籐の椅子に、静かに腰を下ろした。

 体調を気遣ってか、それとも近づく理由を見つけられないのか、彼は境界線を越えてこようとはしない。


「エルゼは、変わろうとしているだけよ」


 私は、言葉を選びながら続ける。


「……いえ。本当は、ずっと自分自身に怯えていたのかもしれないわ」


「……理由が分からん」


 ぶっきらぼうな、冷たい言葉。

 だがその端は、微かに毛羽立っている。


「傍若無人な振る舞いを続けていた娘が、一日であのような茶を淹れるとは思えん。……あれは、毒に近い」


(不安、なのよね)


 私は心の中で、そっと答える。

 彼は疑っているのではない。

 突然差し出された「愛」という、理解不能なものに、どう対処すればいいのか分からず、戸惑っているのだ。


 心配して、驚いて、そして――

 ほんの少し、救われている。


 けれど彼は、その感情を言葉にする術を知らない。

 騎士道と規律に縛りつけられたまま、大切なものほど、鋭利な冷たい言葉で包んでしまう。


(……この人は、自分自身の愛し方さえ知らないのね)


 ヴァレンティ家の次男として生まれたヴォルガード。幼少期は、輝かしい太陽のような実の兄――リリアーヌの父との比較に明け暮れる日々だったと聞く。

 何をやっても兄に一歩及ばず、自分の意見を口にすれば「兄を見習え」と否定され続けた過去。感情を殺し、完璧な「剣」として振る舞うことだけが、彼の唯一の生存戦略だったのだ。


 兄は自らの意志で真実の愛を貫き、愛する女性と結ばれた。

 対してヴォルガードは、王命による政略結婚。聖女の血を絶やさぬための「盾」として、私――シエラを与えられた。


(あなたは、私のことを……今でも、無理やり押し付けられた重荷だと思っているのかしら)


 私は彼を愛している。けれど、彼にとって私との時間は、「義務」の延長線上でしかないのかもしれない。

 そう思うことで、私は期待という名の傷を負わぬよう、心を守ってきた。


 追い打ちをかけるように、私たちが授かった娘・エルゼには魔力がほとんど宿らず、逆に「自由な愛」で結ばれた兄の娘・リリアーヌには、国を揺るがすほどの聖女の力が宿った。

 「やはり、義務の結婚では本物は生まれないのか」――そんな周囲の残酷な囁きが、彼をどれほど硬く、冷たく閉ざしてしまったことか。


「ねえ、ヴォルガード」


 私は、ガラス越しに瞬く一番星を見つめながら、静かに切り出した。


「あなた、あの子に厳しすぎる時があるわ……いえ、厳格すぎる、と言うべきかしら」


「公爵家の嫡子として、必要なことだ」


「ええ。でも」


 私は視線を星から、彼の冷徹な青い瞳へと移す。そこには、かつて否定され続けた少年が、今も鎧を着て震えているような寂しさが透けて見えた。


「エルゼはね……あなたに嫌われていると、本気で思っていたみたい。……今も、怯えているわ。いつか、あなたに切り捨てられる日が来るのではないかって」


 ヴォルガードの肩が、鎧の軋む音を立ててわずかに強張った。


「……馬鹿な」


 低く吐き捨てるような声。けれど、その音はどこか、内側からひび割れている。


「私は、父親として当然のことしかしていない。……嫌うなどという、非論理的な感情を抱く余地はない」


(それが、伝わっていないのよ)


 論理ではなく、心が。

 あの子は、ただの「父親」としての温度を欲しかっただけなのに。

 かつて彼が、親から得られなかったものを。


 けれど私は、それ以上は言わなかった。代わりに、胸の奥で別の疼きが静かに鎌首をもたげる。


(……私も、同じなのかもしれないわね)


 彼は尽くしてくれる。体調を気遣い、必要なものをすべて整え、この邸も、この庭園も、すべて私を「守る」ために用意した。

 それでも――この人が、義務ではない「私という人間そのもの」を愛していると、確信できたことは一度もない。


(……きっと、聖女を護る騎士としての忠誠心なのよね)


 せめて、娘のことだけは愛してほしい。

 かつての兄への劣等感や、魔力の有無なんていう物差しを捨てて、ありのままのエルゼを。


「……お前は、これ以上無理をするな」


 不意に、ヴォルガードが言った。私の思考を断ち切るような、いつもの定型句。


「今日はもう休め。夜風に当たりすぎだ。浄化魔石の輝きが弱まっている」


「ええ……ありがとう、ヴォルガード」


 感謝を告げても、彼は短く頷くだけ。その動作は、感情の通わぬ魔導人形のように正確で、冷たい。


「エルゼのことは……」


 一瞬、重たい沈黙。心の奥底に沈んだ、名状しがたい複雑な感情を、騎士の言葉へ変換しようとしているかのような間。


「……引き続き、監視を強めておく。何か企みがあるなら、私が芽のうちに摘む」


 それが、彼なりの「あの子から目を逸らさずに見守る」という宣言なのだと、私は知っている。

 けれどその言葉は、どうしても刃のような冷たさを帯びて、私たちの距離を遠ざけてしまう。


(不器用な人。……でも、そんなあなたを愛してしまった私も、また不器用なのね)


 私はそっと目を閉じ、消えゆく彼の足音の中に、微かな愛の残響を探し続けた。


 ヴォルガードはそれ以上何も語らず、翻した漆黒の外套を夜の闇に靡かせ、踵を返した。

 去っていく背中は、冬の山脈のように高く、孤独で、揺るぎない。


 けれど私は知っている。

 あの背中の内側に、行き場を失った想いが、雪崩のように積み重なっていることを。


 伝えられない人。

 伝わらない人。

 それでも、同じ冷たい屋敷の中で、確かに互いを求め合っている家族。


 私は胸元で光るロザリオに手を当て、誰にも聞こえない声で祈った。


(どうか……この人の氷の下にある愛が、あの子に届きますように)


 そして、ほんの少しだけ――罪深いと知りながら、願ってしまう。


(いつか……その温もりが、私にも)


 セレスティ・ガーデンを、夜の帳が完全に包み込む。

 その深い闇の中で、不器用な想いだけが、重く、確かに息づいていた。

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