第4話 ママに甘えてたら、パパに見られてた件

 泣いた。

 本当に、情けないくらいに泣いた。


 セレスティ・ガーデンの柔らかな夕暮れの中で、私は子どもみたいにぐずぐずになっていた。

 温室のガラス越しに差し込む残照が、涙で濡れた視界をキラキラと、残酷なほど美しく乱反射させる。

鼻は詰まるし、目は赤いし、きっと今、鏡を見たら「公爵令嬢」という肩書きが泣いて逃げ出すような、どうしようもない顔をしているに違いない。


「あらあら……」


 くすり、と小さな笑みを含んだ声。

 お母様――シエラは、細く白い指で私の目尻をそっとなぞった。


「可愛いお顔が、すっかり大変なことになってるわね」


 からかうような言葉なのに、その手つきは驚くほど優しくて、涙の跡を壊れ物みたいに丁寧に拭ってくれる。


(……ママ)


 心の中で、前世の呼び名が、ふいについた。

 そう呼んだ瞬間、胸の奥がじん、と熱くなる。


 どうしてだろう。

 たった一度の抱擁と、同じカップを分け合ったハーブティーだけで、こんなにも「帰る場所」を見つけた気分になるなんて。


 冷え切っていたはずの石造りの屋敷が、今はひだまりのように温かい。


「ご、ごめんなさい……取り乱して……」


 震える声でそう言うと、シエラは即座に首を横に振った。


「いいのよ」


 そのまま、私の額にそっと自分の額を寄せる。

 透き通るような銀糸の髪が頬に触れ、彼女が纏う清らかな花の香りが、荒れていた呼吸をゆっくりと鎮めていく。


「泣きたいときに泣けるのはね、ちゃんと生きている証拠なのよ」


(……この人、強すぎない?)


 聖女としての神聖さじゃない。

 折れそうなほど細い身体で、すべてを受け止めてしまう母としての強さ。


 それが静かに、でも確実に、私の心を包み込んでくる。


 しばらくそうして、私のしゃくり上げる呼吸が落ち着いた頃。

 シエラは、ふと思い出したように首を傾げた。


「そういえば、エルゼ」


「な、なに?」


「社交界で着るドレスは、もう決めたのかしら?」


 ――その一言で。


(……え?)


 世界から、一瞬で色彩が消えた。

 ぴしり、と頭の中で氷が割れるような音が鳴り響く。


「あと三ヶ月後でしょう? 王太子殿下の帰還を祝う、大きな晩餐会が」


 優しい声。

 何気ない確認。


 ――なのに、その言葉は、私の脳内に埋め込まれていた最悪の『終焉デッドエンドスイッチ』を、容赦なく叩き割った。


(……待って。それ、マズい)


 三ヶ月後の社交界。

 それは、乙女ゲーム『煉獄のロザリオ』における、第一の転換点。


(ヒロインのリリアーヌと、ヒーローのアシュレイが……!)


 出会い、視線が交錯し、世界がスローモーションになって、背景に幻覚の薔薇が舞って、雷に打たれたように惹かれ合う――

 あの『運命の夜』!!


(ああああああ思い出した!! 脳死プレイの記憶が、今になって鮮明に蘇ってきた!!)


 そして。

 その運命の歯車の中心で、盛大に火花を散らして爆死する予定の私がいる。


 原作でのエルゼは、その晩餐会で――


 リリアーヌのドレスにワインをぶちまけ、

 「聖女のなり損ないが!」と罵声を浴びせ、

 止めに入ったアシュレイ殿下にまで癇癪をぶつけ、

 最終的に自分でドレスの裾を踏んで派手に転ぶ。


(あれ、処刑ルートへの加速装置どころか、ジェットエンジンじゃん!!)


 思わず両手で頭を抱える。


 あの夜を境に、お父様の失望は決定的になり、世間からは「ヴァレンティ家の毒婦」と囁かれ、リリアーヌは「悲劇の聖女候補」として王子の庇護下へ。


「エ、エルゼ? どうしたの、急に……」


「だ、大丈夫ですお母様!! ちょっと、あまりにも未来が眩しくて!!」


 慌てて顔を上げる。

 危ない危ない。今ここで「処刑までのカウントダウンが始まった!」なんて叫べるわけがない。


(落ち着いて。深呼吸。今の私は改心ルート序盤の健気な娘。地雷を踏まなきゃいいだけ)


 ……理屈では、そう分かっている。

 けれど心の中では、警報が鳴り止まなかった。


(無理無理無理!! 原作の強制力が働いたら、私の右手が勝手にワイングラスを掴んで、リリアーヌにフルスイングしちゃうかもしれないじゃない!!)


 晩餐会。

 それはヒロインが覚醒し、ヒーローと結ばれ、悪役令嬢が社会的に死ぬ――地獄の祝祭。


 しかも、リリアーヌは私の従姉妹。

 同じヴァレンティ公爵家の名を背負って出席する以上、逃げ場はない。


「……エルゼ?」


 心配そうに覗き込んでくるシエラの瞳に、夕陽の赤が差している。

 その温かな光を見ていると、胸の奥が、またきりりと痛んだ。


(お母様……。この人の前で、もう二度と間違えたくない)


 守りたいものが、できてしまった。

 生き残りたいという打算以上に、このあたたかな愛を壊したくないという、前世では叶えられなかった願いが。


「……ドレス、まだです」


 私は、正直に答えた。

 声は小さいけれど、そこには逃げない覚悟があった。


「でも……ちゃんと考えます。今度は、自分を綺麗に見せるためじゃなくて……ヴァレンティの名に恥じないように、ちゃんと」


 シエラは少しだけ目を見開き、長い睫毛を揺らしてから、花が綻ぶように微笑んだ。


「ええ。それでいいわ」


 そして、私の手をそっと握りしめる。


「エルゼはね、誰かと比べて輝く必要なんてないのよ。あなたは、そこにいるだけで……私の光なんだから」


 胸が、きゅっと鳴った。

 条件なしの肯定。


 どれほど醜く、どれほど不器用でも――

 この人は、ずっとこうして見てくれていたのだろうか。


 三ヶ月後は、必ず来る。

 運命の出会いも、原作の強制イベントも。


 それでも私は、シエラ――お母様の手の温もりを噛みしめながら、拳を握った。


(……もう二度と、あんな真似はしない)


 愛嬌も、立ち回りも、全部使って。

 最高の脇役として、生き延びてみせる。


 生存戦略・第三段階。

 社交界イベント――完全回避、もしくは完璧な無害化。


 夕暮れのセレスティ・ガーデン。

 沈みゆく太陽が最後の一条を放ち、温室の花々が夜の眠りにつこうとする中で、私は静かに、次の戦場を見据えた。


 ――この、壊れやすくてあたたかな家族を、二度と失わないために。




__________




「………………」


 その時。

 温室の入り口、伸びる影の中に――

 漆黒の鎧の端が、わずかに揺れたことを。


 エルゼは、まだ気づいていなかった。







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