第3話 毒々しいお茶のあとで

 セレスティ・ガーデンに、かすかな、けれど重みのある沈黙が落ちた。

 シエラは差し出されたカップを、壊れ物を扱うように両手で包み込み、一口、ゆっくりと口に含んだ――その瞬間。


「…………」


 ぴたり、と、時が止まった。

 庭園のあちこちで静かに呼吸していた薬草の葉が、一斉に震えたような気がした。

 次の瞬間、シエラの頬から血の気がすうっと引き、透き通るような白磁の肌が、瞬く間に冬の月のような青白さに染まっていく。


「……お嬢様」


 背後で控えていたマーサが、低く、しかし剃刀のように鋭い声を発した。


「シエラ様が一口飲まれた瞬間、お顔が真っ青になられましたが。これは新種の暗殺術か何かですか?」


「き、気のせいよ!!」


 私は反射的に叫んだ。


「毒……じゃなくて! 良薬は口に苦しって言うでしょ!!」


 今、完全に毒って言いかけた。

 自分の口が憎い。  

 夕陽を反射したマーサの眼鏡が、キラリと無機質な光を放つ。その奥の瞳は「現行犯逮捕ですね」と雄弁に語っていた。


「エルゼ?」


 不意に、ふふ、と鈴を転がすような小さな笑い声がした。

 慌ててシエラを見ると、彼女は確かに顔色こそ幽霊のようだが、どこか楽しそうに目を細めていた。

 震える指で口元を押さえ、こみ上げる刺激を必死に御しながらも、その瞳には、不思議なほど穏やかな光が宿っている。


「……ずいぶん、元気の出るお茶ね」


「お、お母様!?」


「体の芯が……こう、雷に打たれたみたいに、びっくりするくらい目を覚ます感じがするわ」


 それ、完全に生体防御反応では?

 私は心の中で五体投地しながら、引きつりそうになる笑顔を必死に貼り付けた。


「え、えへへ……栄養、いっぱいだから……」


「ええ。ええ……とても、刺激がいっぱい」


 シエラはそう言って、逃げ出したくなるような色をした液体に、もう一口、ゆっくりと口をつけた。


 ――やめて!? 優しさで命のやり取りをしないで!?


「お母様……」


 胸の奥が、じわりと焼けるように痛んだ。

 この人は、いつも、こうだ。

『煉獄のロザリオ』という残酷な物語の中で。 苦しくても、辛くても、誰かの身代わりになって傷を引き受けることが、彼女の生きる理由になってしまっている。誰かのためになるなら、それが毒に等しいお茶であっても、微笑んで受け入れてしまうのだ。


 聖女だから。母だから。

 ……そして何より、この人が優しすぎるから。


「……あのね、お母様」


 私は、ぎゅっと緋色のドレスの裾を握りしめた。

 いつもの、計算し尽くした猫なで声じゃない。 媚びを売るための甘えでもない。

 少し震えた、泥臭いほどに正直な声が、唇からこぼれ落ちる。


「私……今まで、いっぱい、わがまま言ってきた」


 シエラが、静かに、凪いだ海のような瞳で私を見る。


「怒鳴ったり、物を投げたり……人の気持ち、考えないで……」


 言葉にするたび、喉の奥が熱く締めつけられる。

 謝るなんて、生存戦略上の「台詞」としては簡単なはずだった。なのに、どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。


「ごめんなさい」


 私は、深く、深く頭を下げた。


「今まで、ほんとに……ごめんなさい」


 沈黙。

 風に揺れる花の葉擦れの音だけが響く。

 でも、それは私を突き放すための沈黙じゃなかった。

 ふわり、と。温室の百合の香りに混じって、陽だまりのようなやさしい気配が近づく。


 次の瞬間、私はそっと、細い腕の中に抱き寄せられていた。


「……エルゼ」


 シエラの声は、春の雪解け水みたいに柔らかい。


「謝れるようになったのなら、それだけで十分よ」


「でも……私、ひどい娘で……お母様のこと、困らせてばかりで……」


「知ってるわ」

 

 即答だった。

 けれど、その声には、失望も怒りも一片も混じっていない。ただ、嵐のような私の荒廃した15年間をすべて分かった上での、静かな肯定。


「それでもね」


 彼女は、私の髪に白く細い手を伸ばし、幼い子供を慈しむように撫でてくれた。


「あなたは、ずっと優しい子だった。ただ……その、あり余るほどの優しさの使い方が、少し分からなかっただけ」


 胸の奥で、カチリと何かが外れる音がした。


 ――愛嬌。

 前世から、生き延びるために塗り固めてきた偽物の笑顔。誰かに好かれ、自分を安全圏に置くための、便利な鉄の仮面。


 それが、初めて。

 打算のない真実の優しさに触れて、内側から溶け、形を変えていく感覚。


「……お母様」


 視界が、ぐにゃりと歪んで滲む。


「私、ちゃんと……変われるかな。お父様や、みんなに、許してもらえるかな」


 シエラは、少しだけ驚いたように目を見開いてから、聖画のような微笑みを浮かべた。


「ええ」


 その微笑みは、国を救う聖女としてのものではなく、ただ一人の少女を守る、母としてのものだった。


「だって今、あなたのその涙は――どんな魔法薬よりも、あたたかくて綺麗だもの」


 私は、シエラの胸に顔を埋め、声を殺して泣いた。生存のための偽りじゃない。好感度を稼ぐための計算でもない。

 この人の前でだけは、私はエルゼ・ヴァレンティとして、ようやく産声を上げられた気がした。


 ――偽りの愛嬌が、まだ消えたわけじゃない。


 けれど。それが、自分を守るための鎧から、誰かを愛するために咲かせる花へと、変わり始めている。


 そんな予感を胸に抱きながら、私はシエラの細い肩に顔を埋め続けた。


 セレスティ・ガーデンに、夕陽が燃えるような朱を差し込む。

 傍らのテーブルで少し冷めた、毒々しい色のハーブティー。その奇妙な苦みは、私の胸の奥に残った、確かな温もりの味がした。


 私は、シエラの胸に顔を埋め、声を殺して泣いた。


 生存のための偽りじゃない。

 好感度を稼ぐための計算でもない。


 その事実に気づいた瞬間、涙は堰を切ったように溢れ出した。


 ――ああ、ずるい。

 こんなふうに、何も求めず抱きしめられたら。

 こんなふうに、「それでもいい」と肯定されたら。


 今まで必死に積み上げてきた、生存戦略という名の城壁が、音もなく崩れてしまう。


 シエラの胸元から伝わってくる、かすかな心音。

 規則正しく、けれど弱々しく、それでも確かに生きている鼓動。

 その一つひとつが、「この人は守られる側なのだ」と、私の胸に突きつけてくる。


(……私は、この人を)


 守らなきゃ、なんて。

 そんな殊勝な覚悟を、今すぐ持てるわけじゃない。


 でも。


(もう、傷つける側には、戻れない)


 それだけは、はっきりと分かった。


 背後では、マーサが何も言わずに佇んでいる。

 けれど、その気配は、いつもより少しだけ柔らかかった。まるで、今この瞬間は監視対象ではなく、見守るべき時間だと理解しているかのように。


 温室のガラス越しに、夕陽が傾く。

 朱に染まった光が、花弁を透かし、床の影を長く伸ばしていく。薬草たちは、昼と夜の境目を告げるように、静かに香りを深めていた。


 このセレスティ・ガーデンは、剣を振るうことしか知らなかった不器用な騎士が、戦場ではなく、家族のために築いた祈りの場所。


 その中心で、今、私は――

 ようやく、誰かの祈りに触れている。


 シエラの細い指が、私の背に回される。

 壊れ物を扱うみたいに、けれど確かに、離すまいとする力。


「……エルゼ」


 彼女が、もう一度、私の名を呼ぶ。


 それは、聖女が民を呼ぶ声じゃない。

 母が、娘を呼ぶ声だった。


「大丈夫よ」


「あなたは、ちゃんと、ここにいる」


 その言葉が、胸の奥に沈んでいく。

 深く、深く。

 まるで、今まで空洞だった場所に、温かい水が満ちていくみたいに。


 私は、シエラの肩に顔を埋めたまま、小さく、何度も頷いた。

 泣きながら、子供みたいに。


 ――偽りの愛嬌が、まだ消えたわけじゃない。

 それは、私が生き延びるために必要だった、確かな技術だから。


 けれど。


 それが、自分を守るための鎧から、誰かを大切にするために、そっと纏う羽衣へと変わり始めているのを、私は確かに感じていた。


 セレスティ・ガーデンに、夕陽が燃えるような朱を差し込む。

 花々は静かに影を伸ばし、温室は夜への準備を始めている。


 傍らのテーブルで、すっかり冷めてしまった、毒々しい色のハーブティー。

 もう、湯気は立っていない。


 けれどその奇妙な苦みは、私の胸の奥に残った、確かな温もりの味と不思議なほどよく似ていた。

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