第2話 毒に見えるけどハーブです

 廊下に一歩足を踏み出した瞬間、空気が変わった。


 冷たい石床の感触は同じはずなのに、先ほどまで肌を刺していた緊張が、嘘みたいに薄れていく。

 代わりに胸の奥に広がるのは、ぬるま湯に浸かったような、ほっとする安堵感。


 それは気のせいではない。

 このヴァレンティ公爵邸そのもの――いや、シエラのために張り巡らされた多重結界の影響だった。


(……ここ、ほんとに重病人の住まい?)


 ヴァレンティ公爵邸。

 騎士団長ヴォルガードと、聖女シエラが暮らす、ソルフェリナ聖王国でも最高位の格式を誇る屋敷だ。


 外観は、いかにも「騎士の家系」らしい。

 無駄を嫌った石造りの回廊、天井の高い直線的な構造、戦時にはそのまま要塞として機能しそうな堅牢さ。

 美しさより、守ることを優先した造り。


 けれど一歩、内側に足を踏み入れると、その印象はやわらかく裏切られる。


 壁に埋め込まれた浄化魔石が呼吸するように淡く明滅し、床下を流れる清浄な魔力循環が、空気の淀みを静かに洗い流している。


 埃の匂いも、冷えた石の湿り気もない。

 空気そのものが、光を溶かした水底みたいに澄みきっているのだ。


(……全部、お母様のため、なんだよね)


 聖女シエラ。

 この国の“心臓”とも言える存在。


 彼女の体に、ほんの少しでも負担をかけないように。邸内は常に、癒やしと浄化の魔力で満たされている。


 ――それはつまり。


 彼女が「癒やす側」でありながら、誰よりも脆く、壊れやすい存在だという、何よりの証明だった。


 そんな背景、乙女ゲームをプレイしていた当時は、正直ほとんど意識していなかった。


(……脳死プレイのツケ、今めちゃくちゃ回ってきてるわ)


 私の隣を歩くマーサは、今日も背筋が一本の定規みたいに真っ直ぐだ。

 無駄のない歩幅、規則正しい足音。


 その手には、銀のトレイ。

 そして――私の手には。


「……お嬢様」


 不意に、マーサが足を止めた。


 ちらりと向けられた視線の先。

 私の持つカップの中で、深緑と紫が混ざり合った液体が、どろりと不穏に揺れている。


 ……うん。

 客観的に見て、見た目は完全にアウトだ。

 回復薬というより、毒薬寄りである。


「ハーブティーよ!」


 私は胸を張って即答した。


「お母様を元気にさせるための、前世……じゃなくて、秘伝のレシピなんだから!」


「……前世?」


「き、気のせいよ。私の溢れんばかりの知性が、うっかり言葉に滲み出ただけ」


 危ない。

 転生者、ここで正体バレはシャレにならない。


 マーサは無言で私とカップを見比べ、深いため息をひとつ吐いた。


「お嬢様。聖女様は現在、たいへん繊細なお身体です。刺激の強いものは――」


「大丈夫!」


 私はずいっとカップを掲げる。


「滋養強壮! 魔力回復! ついでに気休め効果まで考えてブレンドしてあるから!

 ……たぶん!」


「“たぶん”という言葉が出てくる時点で、不安しかございませんが」


 口調は辛辣でも、マーサの歩みは再び前へ進む。

 完全拒否しないあたり、彼女なりに私の変化を観察しているのだろう。


(信用度、現在マイナス無限大……)


 やがて、廊下の先に陽光が溢れ出した。


 そこが――

 温室庭園セレスティ・ガーデン


 ガラス張りの天井から降り注ぐ、やわらかな光。

 外の季節を忘れさせる、春先のような穏やかな温度。


 白い花、淡い青の花、名も知らぬ薬草たちが、声を潜めながらも、確かに生きている。


(……綺麗。それに、なんて優しい匂い)


 ゲーム内では、ただの「イベント背景」だった場所。

 でも今は違う。


 ここは、あの不器用な騎士団長ヴォルガードが、戦場ではなく、家族のために剣を置いた唯一の場所だ。


 庭園の奥。

 花々に囲まれた寝台に、ひとりの女性が静かに横たわっていた。


 シエラ・ヴァレンティ。


 透き通るような銀糸の髪が、白い枕に扇状に広がっている。

 その姿は病床にありながら、どこか神聖で――

 まるで、世界の祝福を一身に集めたかのよう。


 けれど、頬は痛々しいほど白く、細い指先は、触れれば壊れてしまいそうだった。


 ゆっくりと、彼女が目を開ける。


「……エルゼ?」


 その声は、春の風みたいに柔らかい。


「まあ……今日は、ずいぶん元気そうね。顔を見せてくれて、嬉しいわ」


 慈愛に満ちたその瞳に、私は胸の奥をきゅっと掴まれたような気がして、精一杯の笑顔を作った。


(この人が……私が悪役令嬢として生きていた世界の、聖女)


 そして――

 この国の平和を、黙って寿命と引き換えに支え続けてきた、犠牲者。


 ふと、視線を巡らせる。

 寝台の傍ら、陽光を遮る位置に置かれた衝立。風向きを計算した換気窓。花粉の強い植物だけが、庭園の奥へと移されている配置。

 どれもこれも、完璧すぎるほど実務的で、感情の言葉が一切添えられていない。


(……ああ)


 分かってしまった。

 これはきっと、お父様の仕事だ。


 「心配だ」「大切だ」「守りたい」――そんな言葉を、あの人は一度も口にしない。

 代わりに、剣を置き、設計図を引き、職人を呼び、結界を重ねる。


 気づかれないように。

 感謝されないように。

 ただ、当たり前の義務みたいな顔をして。


(……ほんと、不器用)


 私は胸の奥で、そっと呟いた。

 不器用で、厳しくて、怖い父。

 けれどその背中は、誰よりも大切なものを、黙って守り続ける騎士のものだった。


 私は、カップを胸に抱き直す。

 生存戦略、第二段階。


 ――健気な看病で、母の心と、この国の「歪んだ優しさ」に、少しだけ踏み込んでみせる。


 毒々しい色のハーブティーを携えて。


「お母様、これ……私が淹れたんです。少しだけでも、飲んでくれませんか?」


 差し出された、どう見ても怪しい色のカップ。

 けれどシエラは、疑う素振りひとつ見せず、宝物を見るような眼差しで私を見つめ返した。


「ええ、喜んで。エルゼの淹れてくれたお茶なら、どんな魔法薬よりも効きそうだわ」


 その言葉に、私は「愛嬌」という仮面の下で、本当の涙が零れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。

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