第1話 悪役令嬢、処刑は困ります
静寂。
あまりの沈黙に、自分の心臓の音が耳元で鳴っているのではないかと錯覚するほどだった。
しがみついた漆黒の鎧は、氷鉄の
――ドクドク、と。まるで逃げ場を探す獣のように、早鐘を打っている。
「…………離れろ」
頭上から落ちてきた声は、地鳴りのように低く、硬い。
「お、お父様……?」
恐る恐る顔を上げると、そこにあったのは、苦虫を噛み潰したような――あるいは、猛烈な腹痛に耐えているような――なんとも言えない表情のヴォルガードだった。
彼は私の肩を掴み、引き剥がす。
折れそうなほどの力だったが、きっと本人なりに“優しくしたつもり”なのだろう。なにせ、騎士の腕力は常識の枠外だ。
目を合わせることなく背を向け、冷たい声だけを残す。
「……メイドに、余計な迷惑をかけるな。床の破片は本来なら自分で片付けろと言いたいところだが、お前がやれば怪我を増やすだけだ。大人しくしていろ」
それだけ告げると、彼は逃げるような足取りで部屋を出ていった。
ガチャン、と重厚な扉が閉まる音。
「…………」
……あ、これ、ダメだったかもしれない。
あまりのキモさに「一刻も早くこの場から立ち去りたい」と思われた説が、今のところ最有力だ。
さっきまでお茶を投げつけていた実の娘が、突然「大好きです!」などと叫びながら突撃してきたのだ。ホラーでしかない。
「……お嬢様。体調でも悪いのですか? どこか頭を打たれたのであれば、すぐに医務官ではなく、神殿の精神科を呼びますが」
背後から、マーサの淡々とした――そして自然体で失礼な声が飛んできた。
彼女は床の破片を手際よく拾い集めながら、眼鏡の奥の瞳で私を見る。
その目は、未知の病原体を前にした研究者のそれだった。
「……大丈夫よ。ちょっと、自分の至らなさに気づいただけ。マーサ、少し疲れちゃったから、一人にしてもらえる?」
「左様でございますか。では、代わりのお茶を用意し、一時間後に参ります。それまでは、どうか暴れずに静養なさってください」
――「暴れずに」。
その一言に微妙な棘を感じつつ、私は彼女が部屋を出ていくのを待った。
パタン。
二度目の扉が閉まる音。
完全に一人きりになった瞬間、私は天蓋付きのベッドに倒れ込み、顔をクッションに埋めた。
「…………詰んでる。マジで詰んでるわ」
呻き声は、柔らかな布に吸い込まれて消える。
まずは、状況整理。
ここは、乙女ゲーム『煉獄のロザリオ』の舞台――
ソルフェリナ聖王国。
太陽と聖なる加護に守られた、由緒正しき騎士の国。
正義と信仰と騎士道が息づく、理想郷。
……ただし、その平和は。
「聖女が身代わりに傷と呪いを引き受ける」
という、あまりにも重たい前提の上に成り立っている。
(そう。この国――)
ソルフェリナの騎士たちは“死なない”。
正確には、不老不死ではない。致命傷を負っても、戦場で倒れない。
なぜなら、
聖女の加護が、彼らの傷をすべて肩代わりしているから。
――つまり。
この国の平和は、
特定の血筋の女性が、黙って寿命を削り続けることで維持されている。
(……今思うと、設定えげつな)
しかも、この「聖女」の選定基準がまた、残酷だった。
本来、聖女の力は直系の血筋――つまり現聖女シエラの娘である私、エルゼに宿るはずだった。けれど、この世界には非情な理がある。
【聖女は、血よりも魔力の純度で選ばれる】。
公爵令嬢として完璧な血統を持ちながら、魔力適性が絶望的に低かった私。
対して、亡き伯父の娘――傍系でありながら、神の寵愛を一身に受けたかのような純白の魔力を持って生まれた従姉妹、リリアーヌ・ヴァレンティ。
本物の血筋である私が「空っぽ」で、居候の彼女が「本物」だった。
その残酷な格差が、周囲の大人たちの目を冷たく変える。
父ヴォルガードの失望。
教会の掌返し。
メイドたちの陰口。
(……あー、思い出してきた。そりゃあ、エルゼも闇堕ちするわ)
健気で優しく、他人の痛みを自分のことのように泣ける――王道中の王道ヒロイン、リリアーヌ。
そして私は――自分の居場所を奪った彼女をネチネチといじめ抜き、最後には破滅する悪役令嬢エルゼ・ヴァレンティ。
「よりによって、この詰んでるポジション……」
胃が、きりりと痛む。
名門公爵家の一人娘。
傲慢、癇癪持ち、自己中心的。
母は病に伏せ、
父には見放され、
メイドには軽蔑され、
ヒロインには全力で嫌がらせ。
そして未来。
数年後、
王国を揺るがす大罪を犯し――
アルストラグ騎士団団長・ヴォルガードの手によって、処刑。
(……そう)
さっき抱きついた、
あの氷鉄の死神騎士が、
私を斬る役なのだ。
(最悪すぎる)
しかも、脳死プレイだったせいで「誰が本当の黒幕か」とか「どの選択肢が正解か」なんていう、攻略サイト的な知識がほとんどない。
覚えているのは「最後はだいたい死ぬ」ということだけ。
愛が重すぎてもダメ。
なさすぎても死ぬ。
……人生のバランス調整、地獄かな?
「……ふざけないでよ。二度も死んでたまるもんですか」
クッションを叩き、私は深く息を吐いた。
平穏な愛。
あたたかい日常。
それを手に入れるには、まず――
処刑台という物理的エンディングを回避しなければならない。
ヴォルガードは「感情より規律」の男。
それでも。
私は「改心した健気で可愛い娘」を完璧に演じ切る。
表面だけでもいい。実の娘を斬ることに、ほんの一瞬でも躊躇わせられれば、それでいい。
「……愛嬌」
クッションから顔を上げ、私は独りごちた。 前世では、私を殺した呪い。相手の独占欲を煽り、周囲を狂わせ、破滅へと導いた諸刃の剣。 でも今世では――泥を啜ってでも生き残るための、唯一の武器。
目指すは、殺意を抱かせない程度に可哀想で、ほどよく可愛くて、手放すには惜しい“愛されマスコット”。
ドロドロの執着ではなく、さらりと爽やかな、けれど手放すには惜しいと思わせる絶妙な愛の距離感。それを構築するのだ。
私はベッドから這い出し、重厚な姿見の前に立った。
鏡に映るのは、十五歳のエルゼ・ヴァレンティ。
夜の帳を溶かし込んだような艶やかな黒髪に、意志の強さを感じさせる燃えるような緋色の瞳。陶器のように白い肌は、傲慢な笑みを浮かべていればいかにも「悪役」だが、今は不安に揺れ、どこか儚げに見える。
(……素材は最高。あとは中身のアップデートね)
コンコン、と控えめだが事務的なノックの音が響いた。
「お嬢様。淹れ直したお茶と、精神を落ち着かせるためのハーブクッキーをお持ちしました」
マーサの声だ。一時間きっかり。
相変わらず、精密機械のような正確さである。
私は大きく深呼吸をして、頬を両手でパチンと叩いた。
よし、気合注入完了。まずは、この屋敷で最も「愛」から遠ざかっている男――あの氷鉄の死神騎士、お父様の心を、表面だけでもいいから溶かす。
運ばれてきた、温かなお茶を一口。
鼻に抜ける上品なベルガモットの香りが、少しだけ震えていた指先を落ち着かせてくれる。
「マーサ、ありがとう。……それと、やっぱり着替えさせて。お母様のお見舞いに行きたいの」
「……シエラ様のもとへ? またお身体が辛いとおっしゃっているのに、無理に連れ出そうとされるのは――」
「違うわ。今日は、ただ顔が見たいだけ。看病をさせてほしいの」
マーサの手が、一瞬だけ止まる。
眼鏡の奥の瞳が、何か恐ろしい企みでも探るように私を観察したが、私はただ、前世で培った「これ以上なく無垢な微笑み」を返した。
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