悪役令嬢、生存戦略は「愛嬌」です!〜不器用な騎士団長(お父様)を陥落させたら、重すぎる愛の包囲網が完成しました〜
とばり
プロローグ
ドスッ。
……あ、これ、終わったわ。
胸の奥を貫いた、やけに生々しい熱。
遅れてやってくる灼熱の激痛に、視界がじわじわとセピア色に滲んでいく。
肺の空気がせり上がり、呼吸の仕方を忘れた私の耳元で、甘ったるい声が囁いた。
ぼんやりとした意識の中、私は――
自分を刺した「元・最愛の彼氏」の顔を見上げていた。
頬は紅潮し、瞳はうっとりと潤んでいる。
まるで長年の夢が叶ったかのような、あまりにも幸福そうな表情で、彼は私を強く抱きしめていた。
「……これで、ずっと一緒だね。もう、誰にも君を触らせないよ」
……いや。
触らせないどころか、命ごと奪ってますけど!?
尽くして、尽くして、三歩下がって。
彼の理想の彼女を完璧に演じ続けた、その果てがこれ?
重い。
愛が重すぎる。
物理的にも、この胸に突き立てられたナイフが、鉛のように重い。
――次は、絶対に。
重くない。
平穏で。
あったかくて。
ちゃんと生きていられる愛に包まれるんだ……。
そんな、この世でいちばん切実で、
同時にいちばん死亡フラグくさい願いを最後に――
私の意識は、ぷつりとブラックアウトした。
__________
「こんなお茶、飲めるわけないでしょ!
さっさと淹れ直してきなさいッ!!」
ガッシャアアアアン!!
投げつけた最高級のティーカップが、大理石の床に叩きつけられ、無残に砕け散る。
飛び散った琥珀色の紅茶がドレスの裾を汚したが、そんなことはどうでもよかった。
甲高い破裂音が、静まり返った公爵邸に響き渡る。
……その瞬間だった。
パリーン、という耳障りなほど鋭い音が響いた。
その衝撃は、まるで私の脳内に詰まっていた「何か」――分厚い霧のような十五年間の記憶を、一気にぶち抜いたかのようだった。
「…………っ」
視界が急激に鮮明になる。
私は床に散らばる高価な陶器の破片と、無残にぶちまけられた琥珀色の液体を、ただ呆然と見つめたまま立ち尽くした。
(……あ。思い出した。全部、思い出したわ)
前世の記憶。自分が誰だったか。
そして、今私が立っているこの場所が、一体どこなのかを。
ここは、前世の私が暇つぶしに脳死でポチポチ進めていた乙女ゲーム――『煉獄のロザリオ』の世界だ。
舞台は、聖なる加護によって繁栄しつつも、その裏で「聖女」の犠牲を強いるソルフェリナ聖王国。
……といっても、詳しい設定なんてほとんど覚えていない。
ストーリーは基本スキップ、美麗なスチルを眺めるためだけに作業としてこなしていた、あのゲーム。
けれど、そんな「適当プレイ」の私でも、はっきりと覚えていることがある。
この物語に登場する、十五歳まで特権に胡座をかいてわがまま放題に育ち、数年後、実の父親に処刑される運命の悪役令嬢。
――エルゼ・ヴァレンティ。それが、今の私だ。
(……待って。今の私、何した? 今、この瞬間に何が起きたの?)
震える視線を上げると、そこには無表情のまま、濡れたエプロンを拭う一人のメイドが立っていた。
有能すぎて「鉄の女」と恐れられる教育係、マーサ・ラングレンだ。
彼女の冷徹な瞳には、主人への敬意など微塵もなく、ただ不快なゴミを見るような軽蔑の色が浮かんでいる。
そう。
私は今、お茶の温度が気に入らないというだけの、クソみたいな理由で、超優秀なメイドに向かって熱い茶器を全力で投げつけたのだ。
(…………。詰んだわ。これ、完全に「処刑ルート」の第一歩じゃない!!)
脳死プレイだったせいで、どのイベントが回避フラグなのか、誰が味方になってくれるのか、肝心な攻略法がさっぱり出てこない。
覚えているのは「エルゼは最後、実父ヴォルガードの手で首を落とされる」という、あまりにも鮮烈でグロテスクなバッドエンドの結末だけ。
まだ熱気が残る部屋の中で、私は自分のしでかした事の重大さに、膝が震え出すのを止められなかった。
天井のシャンデリアがきらめくたび、散乱した茶器の破片が光を反射し、まるで私を嘲笑うかのように輝く。
(今から謝っても、遅すぎる? いや、遅くても謝るしかないわよ! 適当に読み飛ばしてたせいで「死ぬ」以外の情報がなさすぎるんだから!!)
私の、血も凍るような生存戦略が、今。
飛び散ったお茶のシミと、最悪な前世の記憶と共に幕を開けた――。
そこへ。
ドン……ドン……と、地獄の底から響くような重い足音が、廊下の奥からゆっくりと近づいてくる。
一歩ごとに床が震え、空気が張り詰めていくのがはっきりと分かった。
(……来た)
この屋敷に、これほど威圧的な歩法を使える人間は一人しかいない。
「……エルゼ。また騒ぎを起こしたのか」
低く、空気そのものを震わせるような重低音。
背筋をなぞる冷気に、私は反射的に肩を強張らせた。
振り返った瞬間、私は本能で悟った。
(あ、死神来た。……っていうか、処刑執行人が来た!!)
扉の前に立っていたのは、数年後、私を処刑する予定の人物。
アルストラグ騎士団団長にして、実の父――ヴォルガード・ヴァレンティ。
夜色の髪に、一切の慈悲を削ぎ落としたかのような氷の青眼。
重厚な漆黒の鎧を纏うその姿は、もはや
「人」というより、歩く威圧感の塊だった。
(ひえっ……本物の殺気……! ゲームの解像度を上げたら、こんなに怖いの!?)
前世では「一人の男」に重すぎる愛を向けられて殺され、
今世では「家族全員」に嫌われすぎて殺される予定。
――待って。
私の人生、詰みすぎてない?
難易度設定バグってない?
ヴォルガードが、無意識に腰の剣の柄へ手を伸ばす。
ただの癖。騎士としての習慣。分かってる。頭では分かってる。
でも。
(今の私には、「よし、今ここで首をはねるのが国家のためだな」っていう最終確認にしか見えないんだけど!?)
嫌だ。
死にたくない。
平穏な愛だとか言ってる場合じゃない。
今この瞬間、生き残るための
「…………っ、お父様……!」
「……!? なんだ、急に」
私は、砕け散ったティーカップの破片という地雷原を蹴散らし、
ヴォルガードの屈強な胸板へ、全力でダイブした。
ガチン、と硬質な金属音。
王国最強と謳われる騎士団長の身体が、鎧越しに鉄柱のように硬直する。
夜色の長い髪を振り乱し、私は緋色の瞳に精一杯の涙を溜め、冷たい漆黒の鎧に顔を押し付けた。
「ごめんなさい……っ!私、私がバカでした……!」
声を震わせ、息を詰まらせ、計算通りに――そして、本気の生存本能で、大粒の涙を零す。
「お父様に嫌われたくなくて……! でも、どうすればいいか分からなくて……それで……っ!」
「なっ……」
「本当は、ずっと……ずっと、大好きだったんです……!!」
「………………」
「お父様ぁ……私のこと、嫌いにならないで……! 見捨てないでぇ……!」
(――もっと言えば、物理的に私を消さないで!! 介錯しないで!!)
……沈黙。
あまりの静けさに、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。
それなのに、必死に抱きついた胸の奥からは、ドクドクと――壊れた時計のような、いや、早鐘を打つような激しい心音が、鎧越しに伝わってきた。
ちらりと横を見ると、鉄の女マーサが、今日初めて眼鏡をずらして絶句している。
そしてヴォルガードは――真っ青なのか、それともゆでだこのように赤いのか分からない顔で、私を見下ろしたまま完全にフリーズしていた。
(……よし……たぶん……一ミリくらいは、首の皮が繋がったはず!)
こうして。
十五歳にしてようやく「自分がどれほど詰んでいるか」を理解した私は、前世で培った最強にして最悪の武器――「愛嬌」を手に、生き延びるための道を進み始めた。
悪役令嬢による、決死のサバイバル。
その幕が、いま――盛大に上がったのである。
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