第4話 やはり薬師は不注意が過ぎる
荒岩のダンジョン。
大小の岩と崖が入り組む狭路を、ひとつの巨影がゆっくりと進む。
浅黒い分厚い革に覆われた亜竜――バッドドレイクだ。
人の背丈の倍はある巨体を揺らしながら、獲物の気配を完全に見失っていた。
鼻先を鳴らし、苛立ったように岩肌を引っかく。
縄張りに侵入した俺たちの匂いを、まるで掴めていない。
鼻を高く上げ、風に乗る匂いを探ろうとしたその隙に、前後を挟むように二つの影が躍り出た。
前へ飛び出したレオナードが槍を振りかぶり、背後に迫ったのはリリエンティ。
重槍が亜竜の硬い皮膚に浅く赤線を刻み、注意を引く。
その隙を逃さず、水を纏った矢が膝の裏へ次々と突き立った。
二人が飛び込むと、亜竜の黄色い瞳が前後へ忙しなく揺れた。
槍と魔法矢が織りなす連携が、亜竜の注意を地上へ縫い止めていく。
巨体がわずかに沈み、尻尾を叩きつけ、苛立つような咆哮が上がる。
俺は、崖の上からその様子を見下ろし、息を殺す。
――今だ。ここしかない。
ドレイクの意識が完全に地上へと固定された瞬間、俺は大地を蹴り宙へと飛び出した。
乾いた風が頬を裂き、視界がぐるりと反転する。
台地、空、また台地――一回転するたびに景色がちぎれたように流れていく。
考える余裕なんてない。
落下と回転の勢いのまま、俺はただ刃を振り下ろした。
狙いなんてつけられるわけがない。
勢いに任せた一撃は、鈍い衝撃音と共に分厚い革を割り裂き、刃は深く食い込んだ。
首を叩き落とすには至らなかったが、致命傷には十分だった。
亜竜は短い咆哮を上げ、巨体を震わせ――
ズシンと大地を揺らすと、そのまま動かなくなった。
岩場を抜けた先の小さな広場で、俺たちはようやく腰を下ろし、休憩をとった。
「いやぁ、消臭薬のおかげで大物でも楽勝だったな!」
レオナードが陽気に笑う。
「それにしても、ビックスの着地は、いつまで経っても上手にならないわねぇ」
呆れたようなリリーさんの声に、クララベルが返す。
「落下制御はありますから、次はどんな面白い姿勢になるのか楽しみです」
三人の声は、聞こえているのに、どこか遠くに響いていた。
俺は返事もせず、ゆっくりと剣を手に取り、黙々と手入れを続ける。
剣士にとって剣は命。俺にとってのルーティーンだ。
刃の汚れを拭い、欠けを確かめ、柄の緩みを指で探る。
「……まずいな。剣芯が曲がってる気がする……」
革を割り裂いたときの鈍い衝撃が、まだ手に残っている。
己の未熟さも大概だが、そろそろ本格的に武器を買い替えないといけない。
でも――金が、ない。
どうするか、と頭を悩ましかけたそのとき。
「……あれ? おかしい。ちゃんと入れたはずなのに……」
耳に刺さるミーナの焦るような声に、バッとそちらを見やる。
ミーナは背嚢をひっくり返し、中身をひとつひとつ指先で確かめながら、眉を寄せている。
薬瓶や包帯、水に食料、火打ち石……いつもの道具が次々と地面に並んでいくのに、彼女の表情はどんどん険しくなっていく。
「……ない。どうして……?」
思わず立ち上がり、彼女のそばへ駆け寄る。
「ミーナ、そんなに慌ててどうしたんだ。何がないんだ?」
問いかけると、ミーナは申し訳なさそうに唇を噛み、小さく肩をすぼめた。
「ごめんなさい……蜂蜜が見当たらないの」
「なにっ!!!!」
突然の大声に、雑談に興じていた三人が一斉にこちらを見る。
「お前、出発前に確認したんじゃないのか?」
まさか……アレがないなんて! 思わず声が荒くなる。
「えと、確かに準備の時は入れたはずなんだよ? 私がビッ君の“スミレ草の蜂蜜”を――」
「ミミミ、ミーナ! それ以上は言わなくていいっ!!」
顔が一気に熱くなる。
好物が甘いものだなんて、絶対に知られたくない!
「パーティー物資の管理もままならないなんて……やはり追放しかないな!」
「……なんかさ。最近の追放宣って軽くなーい?」
嘆息するレオナードが問いかける。
「あれが追放宣言か? もはやただの難癖だろう」
リリーさんのツッコミは、聞こえないふりをした。
「今日はどうなるんでしょうね! ワクワクです!」
クララベルが目を輝かせて言う。
「ごめんね。ほんとに、入れたはずなのに……」
ミーナは肩を落とし、今にも泣きそうな顔で俯いた。
その横でリリーさんが静かに息をつき、ミーナの肩に手を置く。
「落ち着け。お前がそんなミスをするとは思えない」
短い言葉なのに、不思議と安心感があった。
ミーナは小さく頷き、胸に手を当てる。
「で、でもよ! 今回は蜂蜜だったからいいけどさ!もっと大事な物だったら困るだろ!」
なんか言わなきゃと思って、俺の口が勝手に動いた。
言った瞬間、レオナードがにやっと笑った。嫌な予感しかしない。
「いやいやビックス。最近、依頼の難易度も上げただろ? 揃える物資も増えてる。管理が大変なのは当たり前だって」
腕を組み、一人でウンウンと納得している。
「それをミーナ一人に任せてた俺ら全員の問題だ。お前も“言葉だけの確認”で満足してたしな」
……ぐうの音も出ねぇ。
「でも、どうして蜂蜜が消えたのでしょうか?」
クララベルのおっとりとした、しかし核心を突いた言葉が静寂を揺らした。
ミーナは即座に顔を上げる。
「絶対に入れたよ! ビッ君のための“特別なお茶”なんだもん!」
ビックスの顔が一瞬で真っ赤になる。
「お、おいミーナ! それは言うなって!」
クララベルがにこりと告げる。
「男の子が甘いもの好きでも、別に恥ずかしくありませんよ?」
……死にたい。
すかさずリリーさんが腕を組んで、状況を整理し始める。
「ミーナが荷物の確認をしたのが出発前日の夕方。今日まで気が付かなかったのか?」
ミーナがこくりと頷く。
「その……あのお茶は、疲れた時に淹れる特別なものだったから……」
リリーさんがさらに確認する。
「ミーナ以外がマジックバッグに触れたことは?」
全員が「ない」と答えた。
俺も「ない」と言った。
……あっ。
「今、何か思い出したな」
リリーさんが鋭く言う。
レオナードが肘でつついてくる。
「ほらほら、吐いちまえよ」
くそ。逃げられねぇ。
「……出発当日の朝だよ。テーブルの蜂蜜が少なくてさ。買い置き出すのが面倒で……」
頬をかきながら話を続ける。もう誰とも目が合わせられない。
「ミーナのカバンから蜂蜜を出して使った……かもしれない……」
「どうやら、犯人は見つかったようだな」
リリーさんの責めるような視線が痛い。
「ビックス、ミーナに言うことがあるだろう?」
俺はミーナに向かって頭を下げた。
「……悪かったよ、ミーナ」
ミーナは慌てて手を振る。
「う、ううん! ビッ君は悪くないよ!」
そこへレオナードがにやにやしながら割り込む。
「ついでに、いつも薬草茶淹れてくれてることにも感謝しとけよぉ~」
「なっ……!」
逃げられない。
リリーさんもクララベルもじっと見つめて圧をかけてくる。
「……いつもありがとな。助かってる」
ミーナはぱっと顔を輝かせた。
「ほんとに?」
「……ああ」
くそ。ミーナは嬉しそうに微笑んでるが、俺は羞恥で死にそうだ。
そこに手をパンッと鳴らして、にこにことクララベルが続ける。
「では、休憩にしましょう。蜂蜜はありませんが……薬草茶を淹れましょう」
草の香りがふわりと広がり、湯気が白く揺れた。
「ビッ君、どうぞ……」
差し出されたカップを受け取る。
ミーナの指先が触れた気がして、胸がざわつく。
ひと口飲む。
蜂蜜がないと、こんな味になるのか。
記憶のお茶はもっと苦かった。
でも今は、どこかほんのり甘い気もする。
不思議だけど、悪くない……
そんなことを考えていたら、気づいた。
ミーナが、じっと俺を見ていた。
不安そうに、期待して、胸の前で指をぎゅっと絡めて。
いや、背中にも、さらに三つの視線を感じる。
わかってる……だから、そんなに責めないでくれ。
「……あー……その……美味しいよ。蜂蜜がないのに、なんか……甘い感じがする」
観念して言うと、ミーナの顔がぱっと明るくなる。
「ほんとに……? よかったぁ……!」
その瞬間、クララベルがお茶を揺らしながら、静かに微笑んだ。
「料理は、作る人の気持ちがこもっているほど、美味しくなるものですよ」
ミーナが一瞬で真っ赤になり、俺もむせそうになる。
「ち、違っ……! そ、そういうんじゃ……!」
二人で同時に視線をそらす。
その休憩は、いつもより長くとることになった。
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