第3話 やはり薬師を追放したい

 ――がむしゃらに走って、走って、ただ走った。

息が切れるころ、俺は街の外れにある古い石橋の上に立っていた。


 高く上った陽の光を受けてきらめく川面をぼんやり眺めながら、ようやく胸の奥で暴れていた熱が、少しだけ冷めてきたように感じる。


 しかし、冷静になってくると、今度は別の問題が頭の中を占め始める。

「家に帰ると……ミーナと顔を合わせちまうじゃねぇかっ!」


 ドンッと乱暴に肘をつき、頭を抱え込む。

川のせせらぎも人々のざわめきも聞きたくない。


 耳を塞ぎ、目を閉じる。

独りになりたいと強く思った。


 あの時――

酒場で追放を突きつけた翌日の、地獄の朝を思い出す。


 ミーナが用意してくれた朝食。漂うスープの香り。

漂う沈黙と気まずさ。

困ったような笑みを浮かべるミーナを前にして、味の分からない朝食を喉に流し込んだあの時間。


――窒息死するかと思った。


 前日の俺は何故気づかなかったのか。

俺とミーナは住居をシェアしている。

同じ空間で寝起きし、同じテーブルで食事をし、調薬の匂いも、生活音も、全部共有している。


 つまり、顔を合わせずに生活するなんて不可能なのだ。

なのになぜ、あの日の俺は家に逃げ帰ってしまったのか……


 過去を振り返っても意味はない。

少なくとも今日は家に帰らない。

どこかの安宿でも、最悪、野宿だろうと問題ない。

そう。それでいいじゃないか。


 そう言い聞かせた瞬間、胸の奥が痛んだ。

ミーナの飯が食えないからだろうか?

……いや、きっとそうじゃない。


 ミーナが、一人で帰りを待っているかもしれないからだ。


 玄関のほうを何度も見ながら、鍋を温め直したり、火を弱めたり……

そんなふうにして待っている姿が、簡単に想像できてしまう。


 またチクリと、胸の奥が痛んだ。

気まずさでも羞恥でもない……もっと別の理由で。


 そう。あの日、追放を宣言した時に――

いや、正確には、あの瞬間に“はっきり自覚してしまった”んだ。


 俺は、ミーナのことを愛してる。


 その気持ちを認めた途端、胸の奥にしまい込んでいた記憶がふっと蘇った。

ゆるりと顔を上げる。

流れる川の水面が、きらめきながら、遠い記憶を映し出す。


 故郷の小さな村。

日差しに温められた土の匂いを抜けると、その先に一面のカスミ草畑が広がる。

そっと載せた薄紫の花冠は、俺の拙い手作りだ。

その花冠の下から、幼いミーナがこちらを見上げて笑っていた。


『あたし、ぜったいにびっくんの、およめさんになる!』

『いいぜ! ずっと――』


 あの時、俺は何て返事をしたんだっけ。

淡い記憶の糸を丁寧に手繰ってみても、その先だけはどうしても思い出せない。

ただ覚えているのは、風に揺れるカスミ草の中を、花冠を押さえて走り回るミーナの笑顔だけだ。


 俺が冒険で稼いで、その帰りを温かい笑顔とうまい料理で迎えてくれるミーナ。

そんな未来を思い描くたびに、胸が熱くなる。


 だが、その未来を叶えるためには――

やはりミーナには、危ない冒険者をやめてもらわないといけない。


 物思いから我に返り、顔を上げる。

温められた風がそよぎ、小鳥が穏やかに歌い、午後の柔らかな空気があたりに流れ始めている。

けれど俺には、この手持ち無沙汰な時間が、ひどく長く感じられた。


 ……とりあえず、手紙屋に向かおう。


「今日は帰りません」

これだけは、ミーナに伝えないと。

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