五、階段上から

 お母さんに保育園で弟と一緒に迎えられた後、そのままに近くのスーパーへ買い物へ行ってから帰ってきた。小さいアパートにエレベーターなどない。お母さんは4階まで子供の相手をしながら、大きな2つの袋を運ばなければならなかった。途中まで小さいのに合わせてのろのろ上っていたが、お母さんはさすがに力の限界だったのだろう。

「お母さん先に上って部屋に入っておくから。お姉ちゃんよろしくね」

と言ってすたすた上がっていってしまった。2歳の弟が一段に二つの足をつけているのを、数段上から見る。はっきりとした青色のジャンパーがかしゃかしゃ言っている。鼻水を垂らしながら口を開けて足と手を動かしている。ずっと足元を見ている。

 自分が数段を上ってから、弟がそこまで上るのを待つのを繰り返した。そうしているうちに4階の部屋が見える踊り場に出てきたので、一気に駆け上がった。そして扉の前で弟を待っていた。冬の風がドアノブにかけた手を撫でていく。

 弟がやっとここまで来た。ドアノブを力強く握った。金属製のこのドアは、重くて動きが悪い。部屋は階段を上ってすぐ左にある。その外開きドアを壁奥に押して開けようとした。そのすぐ横で、弟はまだ階段部分に立っていた。これじゃあ一番に入れない。弟が横にいるのが邪魔だなと思った。

「落ちればいいのに」。


 ドアノブから手を離して弟の肩を軽く押した。なんともなかったようので次はもっと強く押した。弟は体幹を崩し、二段分、足元をずるっと踏み外して立てなくなっていた。何が起こったのかわからないような顔をして目の前の階段を掴み、足をバタバタさせて立ち上がろうとしていた。それを見て、案外粘るんだな、と思った。それでも下に伸びた足は足場を得られずにいて、手だけで階段にへばりついたままになっていた。手の力が抜けると、階段のでこぼこの上をずるずるがたがたと落ちていった。中間辺りでは横向きになって、丸太のようにぐるぐる落ちていった。アニメでやる表現みたいで面白い。下の踊り場まで転がり落ちていった。そこで初めて弟は声をあげて泣き出した。こちらを見上げた顔は痛みに歪んでおり、鼻血が出ていた。

「お母さん、コウスケが泣いてる」

 ドアを開けてなるべく大きな声で言った。お母さんがことに気づいて、黙っていたことを咎められたら、非はこちらにしかない。

「なんでー?」

 のんびりとした声で返ってきた。

「コウスケが階段から落ちた」

「そんな!、大変!」

 ドタドタと奥の方から足音が聞こえてお母さんが出てきた。階段下で鼻血を出しながら横になって泣いている弟が目に入ったようだった。急いで駆け下りて、お母さんがコウスケを抱き上げる。コウスケはずっと泣いている。そんな2人をまた、ずっと上から見ていた。







 今夜は考えていたくて寝なかった。

 コウスケが、お姉ちゃんに落とされた、と言ったときは本当にひやひやした。

「そうなの?」

 お母さんが怖い顔と声で聞いてきた。

「コウスケが勝手に落ちた。前を見てないコウスケが開きかけのドアにぶつかって落ちた」

「本当にそうなんだね」

 お母さんが同じ高さになって目を合わせてきた。

「そうだよ。前を見てなかったコウスケが悪い」




 弟は鼻血が出たのみだった。痣やかすり傷もできただろうが、それは日常内でもできるものだから気にするものではない。腕か脚かが骨折ぐらいするんじゃないかと思っていた。以外と人は丈夫にできているのかもしれない。


 そして、4階から落ちるのでは死なないんじゃないかと思えてきた。以前までの想像は正しくない。

 4階から落ちたら、痛い。痛い痛い痛い痛い痛い。意識はありそうだ、きっと立ち上がることもできる。ただ、全身が痛いだけ。ああ、かわいそう。

 



 気づいたら、またお母さんに手すりの上に立たされていた。痛いのは嫌だな。でも落ちたい。踏ん張ることを想定しているなら、そのお母さんの思い通りになりたくない。こんな扱いをするお母さんを懲らしめたい。犯罪者になればいい。でも自分が痛いのは嫌だな。

 そうして落ちていった。落ちている。対面した地面が近づいていく。たくさんの空気が体の表面を通りすぎていく。宙に浮いていて、落下感が強いが、そうであっても案外時間は遅く流れている。

「救われたい!」。





 いつの間にか、目から涙が流れていた。部屋の常夜灯の輪郭が滲んで歪んでいる。涙は目の表面を覆って、次に瞬きをすると溢れていった。それは頬を伝い枕を濡らし、染みを作っていった。しっかり目を開けてみると、オレンジ色の光源がきらきら輝いていた。


 自分は死にたくないんだ。なぜだかわからないけど。死にたくないから落ちたくなくて、痛くなりたくもない。理由はわからないけど、そうなんだ。嫌なんだ。

 死んだら、今までの自分がいなくなる。おいしいお菓子も食べられないし、ジュースも飲めない、楽しみにしてたアニメも漫画も見れない。今まで出会ってきた人、保育園の子やおじいちゃんおばあちゃん、従兄弟達、お父さんお母さん、弟。皆会えなくなる。そうしたら、悲しんでくれるのだろうか。いや、そんなことよりも辛かったんだということを知ってもらいたい。死ぬことで、きっとわかってもらえる。

 ずっと考えている間にも涙は流れていた。そうではあったが、自分が死ぬことは悲しいことだとは思わなかった。












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