四、団地四階

 喋らない、動かない、目を開けない。

 寝られないならそうしなければならない。

 今日も眠れなかった。これでも毎日寝られないという訳ではない。ただし眠れないという不快感の印象は強く残りやすい。あっさり眠れる時には苦しむことなんてないし、そうであるか考える前に意識がないのだから。寝たくても寝られないなら、どうしようようもない。そうであってもきっと午前2時頃には意識がなくなるから、それまでの辛抱だ。

 常夜灯に包まれ、グレープフルーツの香りが消えた部屋。それに加え、最近は心を安らげるというクラシック音楽が流されていた。頭が良くなる効果もあるらしい。それもお母さんが布団に入る12時過ぎには消されてしまうが。クラシック音楽は特別つまらないものだと思った。ピアノの音だけで、表現を作ろうとしているものである。しかし音楽が止む時には、少し寂しい感じがした。

 

 今日はお母さんに怒られて、ドアの外に出された。先におもちゃで遊んでいたところ、弟がそれを使いたがったが貸さなかったらレゴブロックを顔に投げられた。手で頭を叩いてやり返したら泣かれて、それをお母さんに怒られた。始めに手を出してきたのは弟なのにそれを無いようにして、怒られる。姉なんだから、とよく言われる。 


 窓側に頭を向けて仰向けになっている。垂れ下がるカーテンを下から覗き込む。下の辺がなみなみになっているのが上へと続いている。その奥はずっと続いているような黒である。落ちていきそうな、真っ黒な穴ぼこである。

 毎日のように何かお母さんに怒鳴られ、その後に玄関外やベランダに出されることがそこそこにある。それがもう何が原因だったのか、何が悪いことだったのか思い出せない。ただ一つ、外に出されている時のことしか覚えていない。外に出されて、いっぱい泣いて叫んで、とにかく部屋に入りたかったことしか思い出せない。自分が受けた嫌な経験は深く心に残る。



 「あの日」、落ちていたらどうなっていたんだろう。やっぱり、絶対に、死んでいたと思う。そして死んだら、怒鳴られることもないし外に出されることもない。

 お母さんの手を自分で離して、4階から落ちる。自分で望んだことだから、静かに落ちる。落ちたことに隣人は気づかない。コンクリートに頭から落ちる。首が折れて血がたくさん出る。またはコンクリートに背中から叩きつけられて全身の骨が折れる。そして動けなくなる。お母さんが落としたから、救急車は呼ばれない。深夜であるから人は通りがからない。誰も気づかない。数時間経って朝になり明るくなる頃、早くから会社に行く人が見つける。そこは血溜まりになっている。体が変な曲がり方をしている。全く動かない。息をしていない。死んでいる。

 

 想像してみて、死ぬのは簡単だと思った。あの日は一番死に近かった。辛い日々は、死ぬことで無くすことができる。ここからいなくなれば、無くすことができる。

 なんであの時死ななかったんだろう。踏ん張らずに、死ねばよかった。今後もうないだろう、受動的に死ぬ機会を逃した。死ねばよかったのに。だってもう、できないからって叩かれたり手首を捻られたり蹴られたりされたくない。外に出されたくない。お母さんの金切り声を聞きたくない。弟もいらなかった。毎日ここにいないといけないのが嫌。

 今、経験していることをなくしたい。全部、なくしたい。








 お母さんのお母さん、おばあちゃんが家に来ていた。お母さんは一日中外出しなければならない用事があるらしかった。2ヶ月ぶりくらいにおばあちゃんに会った。お昼過ぎ、おばあちゃんに続いて歩いて30分程の図書館に2人は連れられた。おばあちゃんは常に本を持っていて、読書が好きな人だった。保育園にある、絵本ではない本を読んでみることはよくある。それでも、特に本が好きだと言うわけではないが、文字を速く読むのは好きだった。とにかく目で字を追って、ページをめくっていく。内容はどうでもよかった。そうしている間、弟とおばあちゃんは絵本を読んでいた。帰る頃、椅子に座っている背後からおばあちゃんに「読書がすきなんだね」と言われた。


 家に着いた頃には外は真っ暗だった。そこでおばあちゃんの骨っぽい手を握って引き連れた。

「おばあちゃん、ベランダに出てみよう」

 ずっと誰かと話してみたいことがあった。窓をがらがらと開けて、ベランダに置いてあるサンダルを履いて外に出た。


「おばあちゃん、下見てみてよ」

「高いね、ここは四階だからね」

「この手すりに上ったらどうなると思う?」

「危ないからやっちゃだめだよ」

「何で危ないの?」

「落ちちゃうかもしれないからだよ」

「落ちたらどうなるの?」

「怪我して、イタイイタイなるよ」

「ふーん、怪我しちゃうのか」


 ここから落ちて、死んじゃうかもしれないことを心配しなかったおばあちゃんになんだかがっかりした。大切にされていない感じがした。


「ミサキちゃん、ここに上れるよ、見てて」


 そう言って、初めて自分で手すりまで上ってみようとしたができなかった。思ったより高かった。そうであっても、それを止めようとしなかったおばあちゃんにイライラした。本当に、ここから落ちちゃったらどうするんだ。やっぱり大切にされていない感じがした。予想してた反応を見られなくて気落ちした。

 夜にはおばあちゃんが作った汁っぽい煮物やおひたしを食べた。普段より品数が多かったのが、手間がかけられていると感じさせられた。






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