第一章、演劇サークル【暁】
1、
「ありがとうございました」
雲ひとつない、どこまでも広がる青い空。
ひらりひらりと舞い落ちる桜の花びらの下。
飲み込まれてしまいそうな拍手が、観客席から鳴り響く。
例年よりも僅かに遅く、今日という日に満開となった桜の雨を肌に感じながら、
――……良かった。
この景色を前にする度、自分にとって演じることは、やはり素晴らしいことであると実感する。顔を見合せて感想を言い合う人々、笑顔で拍手を繰り返す人々、何処か感傷に浸った表情を見せる人々。そんな観客の顔をじっくりと見渡して、尚也はもう一度、深くお辞儀をした。
それに続くよう他の部員達が壇上に登り、ひとつ。隣に立ったサークル長――
「ありがとうございました!」
七つの声が揃えば、わっと湧き上がる観客席は、先ほどよりも更に大きな拍手で包まれた。その音に背中を押されるように顔を上げた面々は、最後にもう一度頭を下げ壇上を降りていく。
――……ああ、疲れた。
古川尚也が、この宵の口大学に入ってから、もう一年が経つ。同時に、この演劇サークル【暁】へ入会してからもまた一年が経とうとしていた。そんな今日日、宵の口大学の構内は新入生歓迎会――所謂、在学生が新入生を迎え入れる宴のようなもの――で賑わっていた。
新入生歓迎会には、いくつかの種類がある。ひとつは大学が主体となって行い、新入生の新生活をサポートするためのもの。新入生が所定の場所に集められて、友人作りや授業の情報交換などが出来るのである。昨今流行りのSNSでは「#春から○○」といった投稿が見られるのも、そういった新入生歓迎会、すなわち、新歓の一種だ。もうひとつは、在学生が主体となって行うもの。それぞれが参加する部活やサークルに、まだ初々しい新入生たちを呼び込もうと躍起になる一大イベントだ。もちろん在学生だけではなく、新入生もまた、これからの学生生活をどういったものにしていくか決める機会なのだから、賑わうのも当然という話だった。
それは演劇サークル【暁】でも、同じ話である。
【暁】やその他パフォーマンスを主軸としたサークルでは、この新歓の機会を利用して自分たちの実力を披露するのが常だった。他には、新入生の興味を引くために、目立つチラシを作ってみたり、食事会を企画してみたりと、色々な画策をするものだ。
「……にしたって、あれはないよな」
尚也は新歓のために設置された舞台の裏で、大きなため息を吐きだすと、じわりと汗で湿った髪をかいた。
今日の【暁】が演じた演目は、みっつ。ひとつめは、サークル部員七人全員が出演するミュージカル調の演目。ふたつめは、【暁】を支える三年生の三人による和風劇。そして最後には、サークル長の黒澤陽光に実力を買われた尚也による一人芝居。
最初こそ、たった一年経験を積んだだけの一人芝居など見るに堪えないだろう、と強く断った。一度目は丁重にお断りをし、二度目は逃げるように拒絶を示し、三度目には逃げ道を塞がれてしまってはもうどうしようにもなかった。自分よりも幾分か身体つきの良い陽光に道をふさがれ、彼のもつ吸い込まれてしまいそうなほどの真っ黒な瞳に、「どうしても見たいのだ」と泣き落としに近い技をかけられてしまっては仕方がない。
元々、古川尚也という男は何事にも手を抜かない主義だった。
一度「うん」と頷いたからには、今回の一人芝居を、自分が持ち得る全ての力を使ってでも演じ切ると。そのつもりで一心不乱に練習をしてきた。
――それだけ、だったのかもしれないな。
演目の内容は至極単純なものだった。尚也の演じる少年が、世界へ語りかける。一人孤独に生きる彼が、世界へ自分の想いを吐き出していく。彼が生まれ、育ち、そして死ぬまでの、少年の人生をなぞる、たったそれだけの芝居劇。台詞こそ少ないが、モノローグとしての語りや、その全てを一人で行う。一人で立つには広すぎる壇上の上で、言の葉を紡ぎながら大きく動く。大きく動くからこそ、三百六十度どこから見られても美しく見えるよう、研究を重ねて迎えた今日。
それなのに、尚也は失敗した。観客席から見る分には、「失敗」なんてものを感じるようなことは一切なかっただろう。でも、失敗したのだ。物語において一番大切な台詞を飛ばした。途中最もしなやかに動かなくてはならない場で、僅かながらも躓いてしまった。よく考えれば、途中の台詞も、あの言の葉も、全部――――。
尚也は下唇を強く噛むと、腰かけたベンチの上に転がっていた小石を握りしめた。
目の前には桃色の花弁が浮かんだ池が広がっている。柵で囲われていて、少し前までは元気に泳ぐ鯉の姿が見られたものだが今はもぬけの殻だった。つまり、手にした小石を思いのままに投げつけたとて、傷付くものは何もいない。尚也は小さく息を吐き出して、腕を大きく振りかぶった、はずだった。
――え……。
「尚也」
背中に強い衝撃が走ると共に、質量のあるペットボトルがぐしゃりと落ちる。そして、池に落ちるはずだった小石がからころと地面を転がる。それと同時に、柔らかく中世的で、いつの間にか聞き慣れた声が降ってきた。
「八つ当たりは良くないぞ」
後ろを振り向けば、塀の上に立つ陽光の姿があった。劇のままの和装姿――小袖という――に、数多の人々を魅了する甘いフェイスを持つ彼は、ただ仁王立ちするその姿にすら存在感があるものだ。
開いた口が塞がらないままに陽光を見続けると、彼は口角を緩め、凡そ二メートルはある塀の上から飛び降りた。それから、地面に転がったままのペットボトルを華麗に拾って、尚也に投げ渡す。
「……もし、誰かに必要とされる日が来るのなら」
――それは。
尚也が、つい先の一人芝居で飛ばした台詞そのものであった。
何か含みをもたせるよう、ゆっくりと静かに、尚也がその時やるべきであった振り付けまで再現してみせる。優しく、それでいて僅かに緊張感を持った声色が賑やかな世界に響く。
「その時まで、……僕はこの世界に、居てもいいのだろうか」
ぴゅうと吹いた風に乗せられた桜の花弁が二人の間を通り抜け、本番では言えなかった台詞が流されていった。
――ああ、やっぱり。
自分の口から自然と零れ落ちた言の葉は、やっぱり。あの芝居には必要不可欠であったと、理解するには十分だった。孤独な少年の最後の想い。何かに縋るように、ありもしない罪の許しを請うように、天へ手を伸ばしながら吐き出された、最初で最後の本心。
でも、この台詞を尚也が言うことは叶わなかった。否、言えなかったというのが適切か。
陽光が、なぜ突然とこの台詞を言葉にしたのかは、彼にしか分からない。それでも、なんだか心にかかった霧が晴れたように感じたのだ。
尚也は大きく息を吐き出すと、受け取ったばかりの冷えたペットボトルに手をかけた。一度地面に落ちたせいで変形したそれは、随分と開けにくい。
「まあ、観客は気付きやしないよ」
尚也が水に口をつけたのを見てから、隣に座った陽光はそう言った。
「そう、ですかね」
「うん。十中八九、誰一人として気が付かない。内容さえ知らなきゃ、俺たちだって誰一人として分からなかっただろうね」
それは、そうだろうとも。何にも接続しない台詞なのだから。
尚也は心の中で返事をすると、再び水を飲んだ。
「それで?」
「はい?」
「いつまでここでしょぼくれてるつもりなの」
「は、……しょぼくれてなんかないですよ」
「ふぅん?」
あざ笑うかのような物言いに思わず隣を見やれば、吸い込まれてしまいそうな陽光の真っ黒な瞳が、こちらを見据えていた。この人には到底叶わない。たった一年、されど一年。大学でのサークル生活を共にしただけで、身をもって実感した。何よりも優しく、人の扱いを心得ている。これは尚也に限らず、彼に関わる全員に対してそうなのだから、最早尊敬してもしきれないほどであると言っても過言では無いだろう。
尚也は飲み干したペットボトルの蓋を固く閉じると、陽光に押し付けた。
「行きますよ、もう少ししたら」
「はーい。副部長が怒ってるから、はやいめにね」
「げ……、分かりました」
じゃあ、一足先に行くかあ。と、ぼやくように呟いた陽光は、うんと大きな伸びをして立ち上がる。そして、尚也が渡した空のペットボトルで手遊びしながら、颯爽とこの場を去っていった。
残るのは、まだほんの少し冷たい風が運ぶ甘い香り。それから、大学構内に溢れる賑やかな人々の声と熱気が少々。
「……俺も、行くかあ」
ぴり、と痛んだ左手甲に顔を顰める。もう慣れたはずの痛みではあるが、それとこれは別だ。尚也は深いため息を吐きだして、重たい腰を上げた。
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