序
街灯がひとつ、またひとつと明かりを灯す頃。
茜色の空と薄闇色の雲が混ざり合う大禍時。
少年は走る。人の気配の無い街を、たった一人で走る。真夏の暑さで燃え上がったアスファルトの上を、裸足で走る。
――楽しい、たのしい、タノシイ!!
無邪気な笑顔を顔に乗せて、どこまでも駆けていく。
事の発端は至極簡単なものであった。宿題やら家の手伝いやらと、やるべき事の全てをほっぽり出して、昨今流行りのテレビゲームを友人達と遊ぶこと数時間。最初は優しく少年を注意していた母親の声が、どこか棘のあるものに変わってからは早かった。
一度こうして大きな雷が落ちてしまうと、後が大変なのだ。怒られるのも嫌であれば、かといって、素直にやるべき事へ向き合う姿勢を見せるのも癪である。
(だったら、逃げてしまおう)
そんな単純な考えだった。まさに、脱兎の如く。靴を履くのも億劫に家を飛び出したのが、凡そ三十分も前のこと。
最初は、靴を履いて歩くいつもの道を、裸足で走ることが楽しく思えた。それが次第に慣れてくると、今度は、普段こそ見上げもしない空へ視線が自然と動く。
――……不思議で、綺麗。
ふと思うのは、如何にもな言葉の羅列。思わず手を伸ばしたくなるような視線の先では、沈み行く陽がある空に鮮やかな夕焼けが広がり、昇り始めた半月がある空には煌めく星が浮かんでいた。
年端もいかない少年にとって、その光景は十分に興味をひかれるものである。このまま太陽を追いかけて行くと、何処に着くのだろう。このまま月を追いかけて行くと、何処に着くのだろう。浮かんではすぐに移ろう好奇心は、その終着点を知らない。
だから、少年は走る。
当初の目的から大きく逸れても尚、少年は走る。
「……――や!! な――、―――……!」
それからどれくらい走った時だろうか。後ろを振り返ることなく、ただひたすらに走っていた頃。足の裏からは僅かに血が滲み、息が上がって苦しいとすら思い始めた時。
女性の大きな声が、静かな街へ響き渡った。悲痛な叫びにも近い女性の言の葉を聞き取ることは叶わない。それでも、確かに自分を呼んでいると、少年は思う。
「なおや! ……っ、なおや!!」
――俺の、名前。
思わず立ち止まった少年の背中へ向けて、上がった呼吸のままに呼びかける女性の声が、今度はしっかりと耳に届いた。その聞き慣れた声へ咄嗟に振り返ると、ほんの少し離れた場所で手を振る女性の姿があって。それは、まさしく。
――お母さん。
家から飛び出す前、自宅の台所にてお玉を片手に怒鳴っていた母の姿で間違いない。丁寧に括られた長い髪に、友人達へ自慢したくなるほど美人。それなのにほんのちょっと汚れたエプロンを着たまま街を走る彼女は、母の姿で間違いなかった。
「マ……、……お母さん!!」
母との距離が近付けば近付くほど、薄闇の中でも母の表情が分かるようになればなるほど、自分が何をしでかしたのかを理解していく。
黙って家を出てきてしまった。靴を履かずに出てきてしまった。それどころか何も持たず、着のみ着のままで飛び出してしまった。宿題も、家の手伝いもせず、飛び出してしまった。好奇心に惹かれて、どこまでも走っていこうとしてしまった。
――外は、危ないのに。
一人で出て行ってはいけないのに。
悪い人や、バケモノに捕まってしまうかもしれないのに。
「なおや……! なおやなのね!? 良かった、よかった……」
安堵の息を漏らした母と、溢れて止まらない涙を必死に拭う少年の指先が触れ合うまであともう少し。
――え。
「みぃつけた」
低い声と共に世界が、揺れた。
パチン、と乾いた音が響いて、少年と母を分かつように一人の男が現れる。それは、少年と母が驚きの声を上げる隙もないほど一瞬のことであった。
その男は頭に深々としたフードを被っていて、その顔の半分以上を確認する事は出来ない。ただ、顕になっている口元が、奇妙な形に歪んでいることだけが分かる。
――怖い。
男が現れてから、時間にして数十秒。それでも体感では何十分にも感じられるほど長い時間。突然のことに、口を開けたままの少年は恐怖に固まっていた。ただ、ただ。母と自分の間に立ちはばかるフード男の一挙手一投足を追いかける。
「……みぃつけた」
いつの間にか鳴き出した烏の大合唱と、強く吹きすさぶ風の中、男の低い声が再び響いた、その時。
これまた立ち竦み硬直した母の方へは目もくれず、少年の方だけに視線を向けているような素振りを見せていた男の、口元が大きく歪む。そして、その身体が大きく動いて、厚手の上着のポケットから何かが取り出される。街に浮かぶ薄明かりを反射し、輝いたそれは――――。
「……っ」
――ナイフ、だ。
男は母に背を向け、手にした刃物を少年へ振りかざす。心の臓を一刺しで貫こうと、大きく、おおきく、振りかぶる。
母の叫び声までもが煩く響いていた世界の音が何も聞こえなくなり、もう終わりなのだと、言いつけを守らずに悪い事をした罰なのだと、少年は裁きを受け入れる姿勢になる。足は地面に接着されたかのように動かない。手や身体を動かすことも出来ない。大きな声を出そうにも、掠れた息が漏れ出るだけで、それが音となることはなかった。
ああ、もう、殺される。
涙でぼやけ、やけにゆっくりとした時の中で、そう理解した瞬間のこと。
「……、――――せ、少年ッ!! 手を伸ばせ!!」
目を固く瞑り最期の時を待とうと、そんな時。
芯のある青年の声が、遠くから強く響いた。
――……手を、伸ばす?
もう、終わりなのに?
頭の中で浮かんだ疑問符は、何度も続く青年の声によって飛ばされていく。だから、少年は手を伸ばす。何も見えない暗闇の中で、必死にもがく様に両手を動かす。
すると、パチン、と乾いた音がひとつ。フード男が現れた時とまったく同じ音が鳴って、世界が揺れた、ような気がした。それと同時に消えていた音の全てが戻ってくる。
母の咽び泣く声に、烏たちの大合唱に、吹き荒れる風の音。
それから、蒸した夏の空気に、自身を強く抱きしめる青年の体温。
「ちゃんと手を伸ばせて、偉かったね」
妙に甘い香りをまとった青年の柔らかい声にふと目を開けると、そこにはもうフード男の姿は無かった。その代わりとして、今度は変な仮面を被った人々が何人か立っているものだから、少年はもう一度目を閉じる。
「……もう、大丈夫だよ」
少年を腕の中に収めた仮面の青年は、優しい声と大きな手のひらで背中をさすってくれる。
「変な夢でも見たと、そう思えばいいさ」
次第に遠くなっていく意識の中で、青年の声だけが響く。いつの間にか、母の泣き声は聞こえなかった。つい先に一度だけ見た時にはもう一人の大きな仮面の人に支えていたから、きっと、この人たちが何とかしてくれるのだろう。
――お母さんに、謝らなきゃ。
夢の世界へ片足を飲み込まれた少年が思うのは、もう、それだけ。目の前で起きた不可思議な現象のことでも、ほんの少し前まで楽しくて仕方がなかった短い冒険譚のことでもない。
「……ごめんなさい」
酷く掠れた小さな謝罪が、少年の頬を伝う雫と共に落ちて、幽々たる闇夜へ消えていく。
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