第四話 もう遅い、君の席はない
四月。桜の花びらが舞い散る季節。
大学のキャンパスは、新入生たちの希望に満ちた笑顔と、サークルの勧誘の声で活気に溢れていた。暖かな春の日差しが降り注ぎ、誰もが新しいスタートに胸を躍らせている。
その光景は、あまりにも眩しく、そして残酷だった。
キャンパスのメインストリートから一本外れた、人気の少ないベンチ。
そこに、吉岡里奈は力なく座り込んでいた。
かつては「可愛い」「守ってあげたい」と周囲の男子からチヤホヤされていたその容姿は、見る影もなく憔悴していた。手入れのされていない髪はパサつき、メイクは薄く、目の下には隠しきれないクマがある。服装も、去年の春に着ていた流行のワンピースではなく、どこかヨレたパーカーとデニムだった。
「……はぁ」
深く重い溜息をつく。
里奈は「留年生」として、この春を迎えていた。
あの日、一月の期末試験で発覚した不正行為――カンニング事件は、瞬く間に学内に知れ渡った。主犯格とされた西園寺翔は、過去の素行不良や余罪(サークル費の使い込み疑惑など)も重なり、退学処分となった。
一方、里奈は「脅されて加担した」という点が(翔の虚偽証言とは逆に、周囲の証言で里奈が従属的な立場だったことが考慮され)情状酌量され、退学こそ免れたものの、当該科目の単位剥奪と無期停学処分を受けた。
その結果、卒業に必要な単位が足りず、留年が確定したのだ。
友達はいない。
かつてつるんでいた「キラキラ女子」のグループからは、事件直後にLINEグループを強制退会させられた。キャンパスを歩けば、「あれ、カンニングの……」「まだいたんだ」というヒソヒソ話と、冷ややかな視線が突き刺さる。
まさに、針のむしろだった。
「どうして、こうなっちゃったんだろ……」
里奈はスマホを取り出し、翔の連絡先を表示させた。しかし、そこには『退出しました』という文字が並んでいるだけだ。
退学が決まった日、翔は里奈に全ての責任を押し付けようと罵詈雑言を浴びせてきた。
「お前みたいなトロい女に関わったせいで人生終わった」「疫病神」「二度と連絡してくるな」
そう叫んで、彼は消えた。噂では、実家に強制送還され、今は親のコネどころか、コンビニバイトの面接すら落ち続けているらしい。
あんなに自慢していた「人脈」など、最初からどこにも存在しなかったのだ。
「最低な男……」
翔への恨み言を呟くが、それだけで現状が変わるわけではない。
里奈の目前には、巨大な壁が立ちはだかっていた。
『就職活動』だ。
留年したことで「24卒」から「25卒」になったわけだが、状況は悪化の一途をたどっていた。
成績証明書には「不可」の文字と、留年の記録。
自己PRで語れることは何もない。ガクチカ(学生時代に力を入れたこと)を書こうにも、サークルは幽霊部員、バイトはすぐに辞めた、勉強は健人に丸投げ。
中身が空っぽなのだ。
昨日、キャリアセンターへ相談に行った時の職員の冷たい目が忘れられない。
「吉岡さん、あなたの成績と……その、処分の履歴があると、大手企業はかなり厳しいですよ。選り好みせず、まずは自分が何ができるかを考え直してください」
何ができるか。
何もできない。
ワードもエクセルも、使い方は分からない。レポートの書き方も、メールの敬語も、スケジュールの管理さえも、全て健人がやってくれていたから。
「健人……」
その名前を口にした途端、涙が滲んできた。
どうして別れてしまったのだろう。
健人は完璧だった。地味だと思っていたけれど、彼は私が生きていく上で必要な全ての「機能」を持っていた。
私の手となり足となり、思考回路となって、私を「優秀な大学生」に見せてくれていた。
彼がいなくなって初めて、私は「何もできない赤ん坊」に戻ってしまったのだ。
「もう一度、やり直せないかな……」
虫のいい考えだとは分かっている。あんなに酷い振り方をしたのだから。
でも、健人は昔から優しかった。
「ごめんね」って泣いて謝れば、きっと許してくれるはず。
「しょうがないな、里奈は」って苦笑いしながら、またノートを見せてくれて、ES(エントリーシート)の添削をしてくれて、美味しいご飯に連れて行ってくれるはず。
そう信じたかった。いや、そう信じなければ、この絶望的な現実から逃げ出す方法がなかった。
その時だった。
メインストリートの方から、聞き覚えのある声がした。
「……というわけで、御社の海外事業部におけるリスクマネジメントについては、ゼミでも研究しておりまして」
ハッとして顔を上げる。
人ごみの中に、ひときわ背筋の伸びたスーツ姿の男性がいた。
相沢健人だ。
でも、私の知っている健人とは、どこか雰囲気が違っていた。
髪は清潔感のある短髪に整えられ、着ているスーツはシルエットの美しいダークネイビーの上質なもの。革靴も綺麗に磨かれている。
何より、その表情だ。
以前のような、私を気遣うような優柔不断な優しさを含んだ顔ではない。自信と知性に満ち溢れた、大人の男の顔をしていた。
彼の隣には、同じくスーツを着たショートカットの女性が歩いていた。キリッとした目元の美人で、手には分厚い資料を持っている。二人は対等な立場で議論を交わしながら、キャリアセンターの方へ向かって歩いているようだった。
「健人……!」
考えるより先に、体が動いていた。
このチャンスを逃したら、もう二度と会えない気がした。
里奈はベンチから飛び出し、人目をはばからずに駆け寄った。
「健人! 待って!」
大きな声に、周囲の学生たちが驚いて振り返る。
健人も足を止め、ゆっくりと振り返った。
その視線が私を捉えた瞬間、里奈は一瞬ひるんだ。
冷たい。
まるで、知らない人間を見るような目だったからだ。
「……吉岡さんか。久しぶりだね」
「よしおか、さん」……?
他人行儀な呼び方に胸がズキリと痛む。でも、ここで引くわけにはいかない。
「健人、あの……久しぶり。スーツ、似合ってるね」
「ありがとう。君は……私服なんだね」
健人の視線が、里奈のヨレたパーカーを一瞬だけなぞる。
その僅かな動作だけで、現在の二人の立場の差――「社会に出る準備ができている勝者」と「学生生活の落第者」――が明確に示された気がして、里奈は顔を赤らめた。
「う、うん。私、留年しちゃったから……授業受けなおさなきゃいけなくて」
「そうか。それは大変だね」
感情のこもっていない、事務的な相槌。
隣にいるショートカットの女性が、不思議そうに健人と私を見比べている。
「相沢君、お知り合い?」
「ああ、同じ高校の同級生だよ。……昔の、ね」
「昔の」と強調されたことに、また胸が痛む。
里奈は必死に笑顔を作った。涙目で、上目遣いに、一番可愛く見える角度で。
かつて健人が一番弱かった表情だ。
「ねえ、健人。ちょっとだけでいいから、時間作れないかな? 話したいことがあるの」
「今、忙しいんだ。これから内定者向けの研修ミーティングがあるから」
「お願い! 五分だけでいいの! 私、本当に困ってて……健人にしか頼めないの!」
里奈は健人のジャケットの袖を掴もうとした。
しかし、健人は半歩下がって、それを避けた。
空を切った手が、虚しく震える。
「……分かった。五分だけなら」
健人は隣の女性に目配せをした。
「先に行っててくれ、三島さん。すぐ追いつく」
「分かったわ。ロビーで待ってるね」
女性――三島と呼ばれた人は、一瞬だけ憐れむような目を里奈に向けた後、カツカツとヒールの音を響かせて去っていった。
二人きりになった。
でも、そこにはかつてのような温かい空気はなかった。
「で、用件は何? 手短に頼むよ」
健人は腕時計を見ながら言った。その時計も、私が知らないブランドの高いものに見える。
「あのね、健人……。私、本当に反省してるの。翔くんのこと、好きじゃなかった。あいつに騙されてただけなの」
里奈は堰を切ったように話し始めた。
「翔くん、最低だったんだよ? 私に全部責任押し付けて、自分だけ逃げようとしたの。私、あんな人に引っかかって馬鹿だった。やっぱり、私には健人しかいないって気づいたの」
「……それで?」
「だから……やり直せないかな? 私、これからは健人の言うこと何でも聞くから。真面目になるから」
「……」
「それにね、私、留年しちゃって就活も全然うまくいかなくて……ESの書き方も分かんないし、また授業のノートも取らなきゃいけないし……健人がいないと、私、生きていけないの! お願い、助けて。また前の時みたいに、ノート見せてよ。健人の力があれば、私、まだやり直せると思うの!」
一気にまくし立てた。
最後は涙声になっていた。
これで健人は折れるはずだ。「しょうがないな」って頭を撫でてくれるはずだ。
そう期待して、潤んだ瞳で彼を見上げた。
しかし、返ってきたのは、ため息だった。
深く、呆れ果てたような、重いため息。
「里奈。君は何も変わってないんだな」
健人の声は、怒りではなく、深い失望に満ちていた。
「え……?」
「反省してるって言った直後に、また『助けて』『ノート見せて』か。君が求めているのは俺じゃない。俺の『機能』だろ?」
図星を突かれて、言葉に詰まる。
「ち、違うよ! 健人のことが好きなの!」
「いいや、違うね。君は楽がしたいだけだ。自分の頭で考えず、汗もかかず、誰かに寄りかかって甘い汁を吸いたいだけだ。翔という乗り物が壊れたから、また俺という乗り物に乗り換えようとしているだけに過ぎない」
健人の言葉は鋭いナイフのように、里奈の薄っぺらい本音を切り裂いていく。
「それに、『騙された』って言うけど、君は自分の意思で俺を捨てたんだよ。『つまらない』『真面目なだけ』って見下してね。あの時の言葉、俺は一言一句忘れてないよ」
「そ、それは……翔くんに言わされただけで……」
「人のせいにするなよ。君が選んだんだ。その結果が今の君だ」
健人は冷ややかに私を見下ろした。
「俺はね、あの後必死に勉強したんだ。君の代筆や世話に使っていた時間を、全部自分のために使った。資格も取ったし、インターンでも結果を出した。そのおかげで、第一志望の総合商社から内定をもらえたんだ」
「そ、総合商社……!?」
里奈は息を呑んだ。
それは、翔が「コネで入る」と豪語していた業界であり、学生たちの憧れの頂点だ。
健人はコネも何もなく、実力だけでそこへ到達したのだ。
「4月からは、そこの内定者研修が始まる。さっきの彼女、三島さんも同期の内定者だ。彼女は優秀だよ。TOEICは900点超えだし、学生起業の経験もある。俺なんかよりずっと視野が広い」
健人は少しだけ表情を緩めて、去っていった三島さんの背中を見た。
その顔は、里奈に向けたことのない、対等な人間への「敬意」と「信頼」に満ちていた。
「俺は、彼女たちと共に競い合い、高め合っていく世界に行くんだ。そこには、自分の足で立てない人間が入る隙間はない」
そして、再び視線を里奈に戻す。
その瞳は、もう完全な決別を告げていた。
「里奈。もう俺に関わらないでくれ。君の世話をしている暇は、これからの俺の人生には1秒もないんだ」
「そ、そんな……嫌だ! 待ってよ健人! 私を見捨てないで!」
里奈は錯乱して、健人の腕にしがみつこうとした。
しかし、健人はそれを強く振り払った。
パンッ、と乾いた音がして、私の手は空を切った。
「見捨てたんじゃない。君が俺を捨てたんだ。……さようなら」
健人は背を向けた。
その背中は大きく、遠く、もう二度と手が届かない場所にあるように見えた。
「健人ぉぉぉ……!」
情けない声で名前を呼んでも、彼は一度も振り返らなかった。
颯爽と歩いていき、ロビーで待っていた三島さんと合流する。二人は笑顔で何かを言葉を交わし、光の差す方へ――未来へと歩き去っていった。
後に残されたのは、私だけ。
キャンパスを行き交う学生たちが、地面に座り込んで泣いている私を奇異の目で見ながら通り過ぎていく。
「あいつ、例のカンニング女じゃん」「男にすがって振られたのか?」「ダッサ」
嘲笑が聞こえる。
スマホが震えた。
親からのメッセージだ。
『留年分の学費、振り込んだけど……これが最後よ。就職決まらなかったら、家を出て行きなさい』
画面が涙で滲んで見えない。
ノートもない。過去問もない。ESの書き方も分からない。
頼れる男もいない。友達もいない。
あるのは、「不正をした留年生」というレッテルと、絶望的な孤独だけ。
「どうして……どうしてこうなったの……」
答えは分かっている。
楽な方へ、楽な方へと流されたからだ。
「生命線」だった健人を、自分の手で切り捨てたからだ。
あの時、図書館で健人が去っていく背中を見送った瞬間、私の人生は終わっていたのだ。
春の風が吹いた。
舞い散る桜の花びらが、私の肩に落ちる。
美しいピンク色が、今の私には灰色にしか見えなかった。
「もう……遅いんだ」
私はアスファルトの上に崩れ落ち、声を殺して泣き続けた。
誰も私を助け起こしてはくれなかった。
かつて私のために全てを捧げてくれた彼は、もう遥か彼方の、輝かしいステージに立っているのだから。
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