サイドストーリー 選んだのは私、捨てられたのも私

いつからだろう。健人の隣にいるのが、こんなにも息苦しく感じるようになったのは。

大学の図書館特有の、古びた紙と埃の匂い。静寂を強要する空気。

その中で、隣に座る相沢健人(あいざわ けんと)は、まるで精密機械のようにキーボードを叩き続けている。

画面に並ぶのは、私の名前で提出されるはずのレポート。


「……里奈、ここの章だけど、参考文献の引用が少し弱い気がするから書き足しておいたよ」


小声でそう囁く彼の横顔には、一点の曇りもない「善意」が張り付いている。

それが、たまらなく重い。

私のために時間を使い、私のために努力し、私のために尽くす。

高校時代は、それが愛情だと思っていた。私だけを見てくれる、誠実な王子様だと。

でも、大学に入って世界が広がると、その「誠実さ」はただの「地味さ」に変わり、「献身」は「束縛」に変わった。


「ありがと。健人って本当にマメだよね」


私は口先だけで礼を言い、テーブルの下でスマホを操作する。

画面には、刺激的な通知がポップアップしていた。

『今夜、六本木のラウンジ貸切でパーティーあるんだけど、里奈ちゃん来るっしょ?』

送り主は、西園寺翔(さいおんじ しょう)。

学内最大級のイベントサークル『バッカス』の代表で、金髪の似合う華やかな人。

彼の周りにはいつも人が集まり、笑い声が絶えない。将来は親戚のコネで大手広告代理店か商社に行くことが確約されているという、勝ち組のエリート。


健人が「公務員試験の勉強」や「地道な企業研究」をしている間に、翔くんは「人脈作り」というもっと効率的で輝かしい活動をしている。

どっちが将来性があるかなんて、火を見るよりも明らかじゃない?

私はスマホを握りしめ、暗い図書館の中で一人、決意を固めていた。

もう、この真面目すぎる「保護者」はいらない。

私には、もっと相応しいステージがあるはずだから。


***


12月の学食で健人を振った時のことは、今でも鮮明に覚えている。

あの一瞬の優越感は、人生の絶頂だったかもしれない。

翔くんが隣にいてくれて、私たちが「選ぶ側」であり、健人が「選ばれなかった側」であることが、誰の目にも明らかだったから。


「健人、ごめん。私たち、別れよう」


そう告げた時、健人は怒りもせず、泣きもせず、ただ静かに受け入れた。

その反応の薄さが、また私をイラつかせた。

もっと縋ってくればいいのに。「里奈がいないとダメだ」って泣きつけば、少しくらいは同情してあげたのに。

彼は淡々とパソコンを開き、私との共有フォルダを削除した。


「さようなら、里奈」


その言葉と共に、私の大学生活を支えていた膨大なデータが消えた。

でも、その時の私は、それを「損失」だなんて微塵も思っていなかった。

むしろ、古臭い鎖が断ち切られたような解放感でいっぱいだったのだ。

あんな細かいノートなんて、翔くんの広大な人脈があればすぐに手に入る。健人の作る地味な資料より、もっと要領よく単位を取る方法があるはずだ。


「やったー! これで私も晴れて翔くんの彼女だね!」

「おう、任せとけって。里奈ちゃんは俺がさらに上のステージに連れてってやるからさ」


翔くんの腕に抱きつきながら、私は勝利を確信していた。

健人が去っていった後ろ姿を見ても、何の感情も湧かなかった。

重たい荷物を下ろしたような、清々しさだけ。

まさか、その「荷物」の中身が、私の大学生活における生命維持装置そのものだったなんて、その時の愚かな私は想像すらしていなかった。


***


異変に気付き始めたのは、別れてから一週間が経った頃だった。

日常の些細な躓きが、ボディブローのように効いてくる。

まず、朝起きられない。

これまでは健人がモーニングコールをしてくれていたから、一限に間に合っていたのだと気付いた。

次に、履修登録の内容が分からない。

ポータルサイトのパスワードすら、健人が管理していたから覚えていない。

そして何より、課題の締め切りが把握できない。


「あれ……明日提出のレポートって、何だっけ?」


女友達とのランチの最中、ふと話題に出て青ざめた。

友達は当たり前のように「社会学の小レポートだよ? 先週告知されたじゃん」と言うけれど、私の記憶にはない。

これまでは、健人がリマインダーを送ってくれて、なんなら下書きまで用意してくれていたから。


「やば……翔くんに頼まなきゃ」


私はすぐに翔くんにLINEを送った。

彼なら、サークルの後輩あたりを使って、ササッと解決してくれるはず。

そう信じていた。


『翔くん、ヘルプ! 明日のレポート、何か過去問とか持ってない?』


しかし、返信は遅かった。

数時間後に返ってきたのは、期待外れな言葉。


『あー、ごめん。今サークルの飲み会で忙しいわ。つーか、それくらい自力でやれよ。里奈ちゃん優秀なんでしょ?』


優秀? 私が?

違う。優秀だったのは健人だ。

私はその成果物を横流ししていただけの、ただの依代(よりしろ)に過ぎない。

でも、それを翔くんに言うわけにはいかなかった。

彼が私を選んだ理由は「ルックス」と、そして「(健人のおかげで保たれていた)見かけ上のスペック」だったから。

「何もできない女」だと思われたら、捨てられるかもしれない。

その恐怖が、私の喉元まで出かかった「助けて」という言葉を飲み込ませた。


結局、その夜はネットで適当に検索した記事をツギハギして、何とか形だけ整えて提出した。

健人が書いていた時の、あの論理的で読みやすい文章とは似ても似つかない、醜いパッチワーク。

提出ボタンを押す指が震えた。

(大丈夫、一回くらいクオリティが下がってもバレないはず……)

そう自分に言い聞かせるしかなかった。


***


そして迎えた、ゼミ発表の日。

あの日の屈辱は、一生忘れることができないトラウマだ。

真田教授の冷徹な視線。クラスメイトたちの失笑。

私が読み上げるスライドの内容が、自分でも全く理解できていないという滑稽さ。

専門用語の読み方を間違えるたびに、空気が凍りついていくのが分かった。


極めつけは、翔くんの裏切りだった。

彼もまた、私が作った(というかネットから拾ってきた)粗悪な資料を使って発表し、教授に剽窃(パクリ)を指摘された。

その瞬間、彼は私のことを指差して叫んだのだ。


「こいつが勝手にやったんです! 俺は被害者です!」


信じられなかった。

愛してると囁いてくれた口で、私を罪人に仕立て上げようとするなんて。

教室の後ろにいた健人の姿が目に入った。

彼は、私たちの醜い争いを、ただ無表情に見つめていた。

助け船を出してくれることも、嘲笑うこともなく、ただの「他人」として。

その無関心さが、教授の怒号よりも深く私を傷つけた。

「あ、私、本当に捨てられたんだ」と、遅すぎる自覚をした瞬間だった。


***


一月の寒さが厳しさを増す中、私の精神は限界を迎えていた。

翔くんとはあの日以来、ギスギスした関係が続いていたけれど、別れることはできなかった。

なぜなら、今の私には彼しか縋る相手がいなかったからだ。

健人を裏切り、友達にも見放され、成績も急降下。

ここで翔くんにまで捨てられたら、私は本当に一人ぼっちになってしまう。

だから、彼が提案してきた「カンニング計画」にも、頷くしかなかった。


「いいか、里奈。これは共同作業だ。お前が俺を助け、俺がお前を助ける。これが本当のパートナーシップだろ?」


翔くんは焦燥しきった顔で、もっともらしいことを言った。

でも、その計画の中身はあまりにもお粗末だった。

彼が問題を撮影して外部に送り、送られてきた答えを私にも転送する。

リスクしかない。バレたら終わりの綱渡り。

健人なら、絶対にこんな危ない橋は渡らせない。

「大丈夫、一緒に勉強しよう」って、夜遅くまで付き合ってくれたはずだ。

比較するたびに、胸が締め付けられる。

でも、もう戻れない。戻る場所なんてない。


試験当日。

大講堂の空気は張り詰めていた。

私のポケットの中には、電源の入ったスマホ。

太ももに感じる硬い異物が、まるで焼けた石のように熱く感じられた。

前方の席に、健人の背中が見える。

彼はいつものように背筋を伸ばし、迷いなくペンを走らせている。

不正なんて必要ない、正真正銘の実力者。

かつては、私もその「正しさ」の恩恵を受けていたのに。

どうして私は、薄暗い裏路地のような場所で、震えながらスマホの通知を待っているんだろう。


ブブッ。

振動が来た。

翔くんからの合図だ。

私は反射的にポケットに手を伸ばしかけた。

その時だった。


「C列14番。立ちなさい」


鬼塚教授の声が、死刑宣告のように響いた。

翔くんが指名され、詰め寄られる。

彼は見苦しく抵抗し、嘘を重ね、そして最後にはまた私を売った。


「そこの吉岡里奈に脅されたんです!」


スポットライトを浴びたように、全学生の視線が私に集まる。

違う。脅してなんていない。

でも、誰も信じてくれない。私のスマホには、確かに翔くんからのメッセージが残っている。

言い逃れのできない証拠。


「退室しなさい」


その言葉と共に、私の大学生活は終わった。

警備員に連れられて廊下に出た時、翔くんは私を睨みつけて罵った。

「てめぇの動きがトロいからバレたんだよ! 責任取れよブス!」

あまりの理不尽さに、涙も出なかった。

これが、私が健人を捨ててまで選んだ「将来性のある男」の正体。

あまりにもお粗末で、滑稽で、惨めな結末。


***


春が来た。

留年が決まり、私の世界は色を失っていた。

親からは勘当同然の扱いを受け、学費は「貸与」という形になった。就職が決まらなければ、その返済もままならない。

翔くんは退学になり、噂によると田舎に連れ戻されたらしい。

私は一人、キャンパスのベンチで春の陽気を呪っていた。


周りの新入生たちが眩しすぎる。

希望に満ちた目。これから始まる未来への期待。

私にも、あんな時期があった。

健人と一緒に、「どのサークル入る?」って笑い合った日が。

あの頃に戻りたい。

健人の隣で、何の心配もなく笑っていた私に戻りたい。


そんな叶わぬ願いを抱いていた時、彼が現れた。

スーツ姿の健人。

遠目に見ても分かる、質の良い生地。自信に満ちた歩き方。

彼は、私が知っている「地味な健人」ではなかった。

洗練され、研ぎ澄まされた、大人の男性になっていた。

隣には、知的なショートカットの女性。二人は対等に言葉を交わし、信頼し合っているように見えた。


嫉妬と、そして一縷の希望が湧き上がった。

健人は優しいから。

私がここまで落ちぶれて、ボロボロになって謝れば、きっと許してくれる。

「しょうがないな」って、苦笑いしながら手を差し伸べてくれる。

だって、私たちは幼馴染で、長い時間を共有してきたんだから。

今の彼にとって、あのショートカットの女なんて、ぽっと出の他人でしょう?

私の方が、健人のことをよく知っている。健人の好みも、弱点も。


私はなりふり構わず駆け寄った。

プライドなんてかなぐり捨てて、彼の袖に縋り付いた。


「健人、お願い! 私、反省してるの!」


涙を武器にするのは、私の常套手段だ。

これで彼はいつも折れてくれた。

でも、彼は冷たかった。

私の手を払い除け、汚いものを見るような目で私を見下ろした。


「君が求めているのは俺じゃない。俺の『機能』だろ?」


心臓をえぐられるような言葉。

図星だった。

確かに私は、彼の優しさそのものではなく、彼が提供してくれる「楽な生活」を取り戻したかっただけかもしれない。

でも、それの何が悪いの?

私は要領が悪くて、一人じゃ何もできない。それを補ってくれるのが彼氏の役目じゃないの?

そう叫びたかったけれど、声にならなかった。


「俺は、彼女たちと共に競い合い、高め合っていく世界に行くんだ」


健人は隣の女性に視線を向けた。

そこには、私には一度も見せたことのない「尊敬」の色があった。

ああ、そうか。

私は健人に見下されていたんじゃない。私が健人を見下していたから、彼も私を対等なパートナーとして見ていなかったんだ。

でも、あの女性は違う。

彼女は自分の足で立ち、健人の隣を歩いている。

おんぶに抱っこの私とは、根本的に生物としての格が違うのだ。


「さようなら」


健人は背を向けた。

私はアスファルトの上に崩れ落ち、彼の名前を呼び続けた。

でも、彼は一度も振り返らなかった。

その背中は、「過去」を切り捨て、「未来」へと進む決意に満ちていた。


周囲の視線が痛い。

「あれ、留年の人でしょ?」「男に縋って振られたんだ」

嘲笑が聞こえる。

もう、私を守ってくれる盾はない。

サンドバッグのように、悪意と現実が私を打ちのめす。


スマホを取り出す。

登録されている連絡先は少ない。

翔くんは消えた。友達も消えた。健人も消えた。

残っているのは、実家と、バイト先と、キャリアセンターの番号だけ。

どれも、かけたくない相手ばかりだ。


ふと、画面が暗転し、自分の顔が映り込んだ。

化粧が崩れ、目が腫れ上がり、絶望に歪んだ醜い顔。

これが、「ハイスペックな彼氏に選ばれるはずだった私」の成れの果て。


「……あは、あはは」


乾いた笑いが漏れた。

自業自得。因果応報。

健人が教えてくれた四字熟語が、今更になって頭の中をぐるぐると回る。

私は立ち上がろうとしたけれど、足に力が入らなかった。

ただ、春の風が冷たく吹き抜けていくのを、身を縮こまらせて耐えるしかなかった。

これから始まる孤独な戦いに、武器も防具も持たずに挑まなければならない恐怖に震えながら。

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2026年1月10日 19:00

「つまらない君より人脈がある彼がいい」と俺を捨てた彼女。俺が課題の代筆をやめた途端、彼氏の嘘がバレて二人揃って人生詰んだ件。〜今更泣きつかれても、俺は第一志望の内定済みなので〜 @flameflame

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