第三話 試験会場の断末魔
1月下旬、大学キャンパスは一年で最も張り詰めた空気に包まれていた。後期期末試験期間。この一週間の出来栄えが、進級できるか、あるいは留年という暗い淵に落ちるかを決定づける。
特に今年の3年生にとっては、就職活動と並行して行われる過酷な試練であり、例年以上にピリピリとした緊張感が漂っていた。
大講堂の前には、分厚い参考書やプリントを必死に見返す学生たちの群れができている。
その喧騒から少し離れた柱の陰で、吉岡里奈は吐き気を催すほどの胃痛と戦っていた。
手には何も持っていない。教科書も、ノートも、プリントも。
本来なら、この時期には健人が作成した「期末試験完全対策マニュアル」という虎の巻が手元にあるはずだった。過去問の傾向分析から、教授が講義中に強調したポイント、予想問題までが網羅された、魔法の冊子だ。
だが今、里奈の手にあるのは冷たいスマートフォンだけだった。
「おい、里奈。顔色が悪いぞ。もっとシャキッとしろよ」
横から低い声で囁いたのは、西園寺翔だ。
彼もまた、いつものような派手な余裕は消え失せ、目の下に濃いクマを作っていた。金髪のセットも乱れており、追い詰められた人間の顔をしている。
「だ、だって……翔くん、本当に大丈夫なの? バレたら即アウトだよ?」
「チッ、うっせーな。声デカいんだよ」
翔が周囲を警戒しながら、里奈の腕を強く掴んだ。痛みに顔をしかめるが、彼は構わず続ける。
「いいか、もう後がねえんだよ。俺はこの『マクロ経済学』を落としたら、GPAが基準を下回って奨学金が止まる。そしたら親にバレて大学辞めさせられるかもしんねーんだ。お前だってそうだろ? ゼミの単位落とした時点で留年リーチかかってんだから、この必修落としたら終わりだぞ」
翔の言う通りだった。
先日のゼミ発表での醜態により、里奈と翔は当該科目の単位を剥奪されただけでなく、教授会から厳重注意を受けていた。その結果、卒業に必要な単位数がギリギリとなり、この必修科目を落とせば、自動的に留年が確定する状況に追い込まれていたのだ。
「でも、カンニングなんて……」
「カンニングじゃねえよ。『情報共有』だ。現代社会じゃ当たり前のスキルだろ?」
翔は歪んだ笑みを浮かべて、作戦を再確認した。
作戦は単純かつ杜撰なものだった。
試験中、翔がスマホで問題を撮影し、外部にいる「後輩(と翔が呼ぶ人物)」に送信。後輩が解答を検索し、LINEで返信する。それを翔が手元のスマートウォッチで確認し、さらにその答えを里奈のスマホに振動パターンで伝える――という、まるでスパイ映画の真似事のような計画だ。
正直、成功するビジョンが見えなかった。だが、勉強を全くしていない里奈にとって、これ以外に単位を取る方法は残されていなかった。
「ほら、行くぞ。席は離れてるけど、合図を見落とすなよ」
翔に背中を押され、里奈は重い足取りで講堂へと向かった。
入り口で学生証を提示し、指定された座席へと進む。
階段教室の中央付近。ふと視線を感じて顔を上げると、三列ほど前の席に、見慣れた背中があった。
黒髪の、姿勢の良い背中。
相沢健人だ。
彼は試験開始を待つ間、参考書を開くこともなく、ただ静かに前を見据えていた。その背中からは、「準備は万全だ」という揺るぎない自信が滲み出ている。
かつては、あの隣が私の特等席だった。
試験前には「大丈夫、ここが出るから」と励ましてくれて、試験後には「お疲れ様、甘いものでも食べに行こうか」と微笑んでくれた。
あの安心感は、もうどこにもない。
胸が締め付けられるような後悔に襲われたが、今更どうしようもなかった。里奈は唇を噛み締め、自分の席に座った。
チャイムが鳴り響く。
試験監督として現れたのは、法学部の鬼塚教授だった。
「鬼の鬼塚」という異名を持つ彼は、不正行為に対して異常なほど厳しいことで知られている。白髪混じりの髪をオールバックにし、鋭い眼光で学生たちを見渡すと、マイクを使わずに腹の底から響く声で宣言した。
「机の上に出していいのは、筆記用具と時計、学生証のみ。筆箱もしまえ。スマホは電源を切り、鞄の中へ。万が一、身につけているのが発覚した場合は、使用の有無に関わらず即刻退室、全科目0点とする」
教室に緊張が走る。
里奈は心臓が口から飛び出しそうだった。スカートのポケットには、電源の入ったスマホが隠されている。太ももの上で震えるように設定されたそれが、まるで時限爆弾のように感じられた。
翔の方を盗み見ると、彼は頬杖をついて退屈そうに振る舞っているが、その足が貧乏揺すりをしているのが見えた。
「では、試験開始。配られた用紙を裏返して始めなさい」
一斉に紙をめくる音が響く。
里奈も震える手で問題用紙を表にした。
『問1.IS-LM分析を用いて、財政政策と金融政策の有効性について、以下の条件を踏まえて論述せよ……』
(……え?)
一文字目から意味が分からなかった。
日本語であることは分かるが、内容が全く頭に入ってこない。専門用語の羅列。グラフの読み取り。計算問題。
これまでの試験は、健人が「ここだけ覚えればいい」と圧縮してくれた知識で乗り切っていたのだと、改めて痛感させられた。生の試験問題は、こんなにも難解で、容赦のないものだったのか。
周囲からは、カリカリと鉛筆を走らせる音が聞こえ始める。
特に前方の健人は、開始直後から迷うことなくペンを動かしているようだった。彼の背中が、遠い山の頂のように高く、遠く見える。
開始から20分が経過した。
里奈の解答用紙は白紙のままだ。
冷や汗が背中を伝う。
(もう無理。翔くんの合図を待つしかない……)
そう思った矢先、ポケットの中のスマホが微かに振動した。
ブブッ、ブブッ。
来た。
翔からの合図だ。
里奈は周囲を伺いながら、机の下でそっとスマホを取り出そうとした。
その時だった。
「おい、そこの君」
講堂の静寂を切り裂く、冷徹な声が響いた。
里奈の手が凍りついた。
心臓が止まるかと思った。
だが、鬼塚教授の視線は里奈ではなく、別の人間に向けられていた。
「C列14番。立ちなさい」
指名されたのは、翔だった。
翔がビクッと肩を跳ね上げ、引きつった笑顔で顔を上げる。
「え、俺っすか? 何すか先生、急に」
「左手。袖の中に何を隠している?」
教授は教壇から降りることなく、鷲のような目で翔を射抜いていた。
翔は一瞬視線を泳がせ、大げさに両手を挙げてみせた。
「何も隠してないっすよ! 冤罪っすか? 勘弁してくださいよー」
「ほう。では、その左腕のスマートウォッチは何だ? 通信機能付きのデバイスは持ち込み禁止と明言したはずだが」
「これは……ただのデジタル時計っすよ! アップルなんとかじゃなくて、似たような安物で……」
「言い訳はいい。今すぐ外しなさい。それと、ポケットの中身も全て出しなさい」
教授がゆっくりと、しかし逃げ場のない圧力を伴って翔の席へと歩み寄っていく。
教室中の視線が翔に集中する。
翔の顔から血の気が引いていくのが、遠目にも分かった。
彼は震える手でスマートウォッチを外し、そして観念したようにズボンのポケットからスマホを取り出した。
「電源は切っていたはずだが、画面が点いているな」
教授が翔の手からスマホをひったくり、画面を確認する。
その瞬間、教授の眉間の皺が深くなった。
「LINEのトーク画面。送信相手は……『後輩(パシリ)』か。問題用紙の写真が送信され、解答が送られてきている。……完全にクロだな」
決定的証拠だった。
教室がざわめき立つ。
「うわ、マジかよ」「ダッサ」「写真撮るとかバカじゃねーの」
軽蔑の囁きが波紋のように広がる。
翔は顔を真っ赤にして、必死に弁解を始めた。
「ち、違うんです! これは俺がやったんじゃない! 勝手に起動して……ハッキングされたんです!」
「見苦しい嘘をつくな!」
教授の一喝が雷のように轟いた。
翔は縮み上がったが、次の瞬間、溺れる者が藁をも掴むような形相で叫んだ。
「そ、そうです! こいつに脅されたんです!」
翔が指差した先。
それは、震えながら事の成り行きを見守っていた里奈だった。
「は……?」
「そこの吉岡里奈に! 『私が答えを送るから受信しろ』って脅されたんです! 俺は断ったのに、無理やり! 彼女もスマホ持ってるはずです! 調べてください!」
全学生の視線が一斉に里奈に向けられた。
スポットライトを浴びたような感覚に、目の前が真っ白になる。
翔は自分の保身のために、共犯者である里奈を売ったのだ。それも、「主犯」として。
「な、何言ってるの!? 翔くんが計画したんでしょ!?」
里奈は思わず立ち上がり、悲鳴のような声を上げた。
もう試験どころではない。
鬼塚教授が、今度は里奈の元へと歩いてくる。その足音は死刑執行人の足音のように聞こえた。
「吉岡さん。君もスマホを持っているのかね?」
「そ、それは……」
「出しなさい」
拒否権などなかった。
里奈は泣きそうな顔で、ポケットからスマホを差し出した。
教授が画面をタップする。
「……西園寺君からの着信履歴。そしてLINEのトーク履歴。『問1の答え送る』『まだ?』『バレないようにやれよ』……ふむ」
教授は冷ややかな目で二人を見比べた。
「西園寺君。君のスマホから送信され、吉岡さんが受信している。文面を見る限り、主導しているのは君のようだが?」
「あ、ああっ……!?」
翔の嘘は一瞬で看破された。
彼はパクパクと口を開閉させ、言葉にならない音を発していたが、やがて崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。
「ち、違うんです……許してください……この単位落としたら、俺、本当に……」
「退学だね」
教授は淡々と宣告した。
「本学の規定により、試験における不正行為は厳正に処分される。特に今回のような、外部と結託した組織的な不正は悪質極まりない。君たち二人は即刻退室しなさい。後ほど、学生課から呼び出しがあるだろう」
「い、嫌だ! 待ってください! 俺の親戚、大手の役員なんですよ!? コネがあるんです! こんなとこで終わるわけには……!」
翔が錯乱したように叫ぶ。
その見苦しい姿に、かつての「カリスマサークル代表」の面影は微塵もなかった。
親戚のコネなどというものが最初から嘘だったのか、あるいは本当だったとしても、カンニングで退学になるような人間に手を差し伸べる企業など存在しない。
彼の虚飾に満ちた人生が、音を立てて崩壊していく音が聞こえるようだった。
「警備員! この二人を連れ出しなさい!」
教授の指示で、講堂の入り口から警備員が入ってくる。
翔は抵抗しようとしたが、腕を掴まれて引きずり出されていった。
里奈はその場に立ち尽くし、涙を流すことしかできなかった。
「健人……」
去り際、里奈はすがるような視線を前方の席に向けた。
健人がこちらを見ていた。
だが、その瞳には何の感情も宿っていなかった。
怒りも、悲しみも、憐れみさえもない。
まるで道端の石を見るような、完全なる無関心。
健人は一瞬だけ里奈と目を合わせると、すぐに興味を失ったように黒板の方へと向き直り、再びペンを走らせ始めた。
(ああ、終わったんだ……)
里奈は警備員に促され、ふらふらと出口へと歩き出した。
背後で、「試験再開」という教授の声が聞こえた。
重い扉が閉まり、講堂内の温かい空気と、未来への可能性が遮断される。
寒々しい廊下に放り出された里奈と翔の間には、もはや言葉さえなかった。
***
試験終了のチャイムが鳴った。
健人は筆記用具を置き、小さく息を吐いた。
手応えは十分だ。おそらく満点に近いだろう。
答案用紙が回収され、解散の合図が出ると、教室は一気に安堵の空気に包まれた。
学生たちの話題は、もっぱら先ほどの「公開処刑」についてだった。
「西園寺のあれ、ヤバかったな」「あいつ、マジで退学じゃね?」「彼女の方も道連れかよ、哀れだなー」
健人はそんな雑音をBGMに、淡々と荷物をまとめた。
かつては、里奈が単位を取れるかどうか、自分のこと以上に心配していた。彼女が笑ってくれるなら、自分の労力なんて惜しくないと思っていた。
だが、今の心境は驚くほど静かだった。
彼らが自ら選んだ道の結果が出ただけだ。因果応報という言葉の意味を、これほど鮮明に体感する日はないだろう。
鞄を持ち、講堂を出る。
冬の澄んだ空気が心地よい。
スマホを取り出し、一件のメールを確認する。
第一志望の総合商社からのメールだ。
『最終面接のご案内』
健人は口元を緩めた。
やるべきことをやり、積み重ねてきた者だけが開くことのできる扉が、目の前にある。
過去を振り返る必要はない。
自分の足で歩けない者は、いずれ淘汰される。それは自然の摂理なのだ。
「さて、面接の準備をするか」
健人は足取り軽く、キャリアセンターへと向かった。
その背中は、かつてないほど自由で、力強さに満ちていた。
遠くで救急車のサイレンが聞こえた気がしたが、健人はもう足を止めることはなかった。
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