第二話 メッキが剥がれる時
健人と別れてから一週間が経過した。キャンパスはすっかり冬の装いとなり、枯れ葉が寒風に舞う季節となっていたが、吉岡里奈の心の中には、まだ根拠のない楽観が居座っていた。
「健人と別れて正解だったよねー。束縛もウザかったし」
大学のカフェテリアで、里奈は女友達に向かって明るく話していた。目の前にはパンケーキとラテ。インスタ映えする写真を撮り、SNSにアップする。コメント欄にはすぐに翔からのハートマークがついた。
「でもさ、里奈。健人くんって結構尽くしてくれてなかった? ノートとか全部見せてくれてたんでしょ? 大丈夫なの?」
友人の一人が心配そうに尋ねる。彼女は里奈がどれほど健人に依存していたかを知っている数少ない人物だ。だが、里奈はストローをくるくると回しながら、余裕たっぷりに笑ってみせた。
「全然平気だよ。だって私には翔くんがいるし。翔くん、顔広いから先輩から過去問とか全部回してもらえるんだって。それに、健人のノートって細かすぎて読むの疲れるんだよね。翔くんのやり方の方が、要領よくてスマートなの」
そう言って笑い飛ばしたが、心の中にはほんの少しだけ、小さな棘のような不安が刺さっていた。
実は、昨日提出期限だった小レポートを出し忘れていたのだ。
これまでは、提出日の朝になると健人が「里奈、今日の2限のレポート、鞄に入れた? クラウドにもバックアップあるから、もし忘れたら印刷して」とリマインドしてくれていた。それがなくなった途端、うっかり忘れてしまったのだ。
まあ、小レポート一つくらい大丈夫だろう。翔くんが言っていた「本気出すのは期末だけでいい」という言葉を信じよう。
しかし、その「本気を出さなければならない時」は、残酷なほどのスピードで迫ってきていた。
翌週、必修科目の「社会学基礎演習」の最終レポート課題が発表された。
テーマは『地域社会におけるソーシャルキャピタルの機能と限界』。文字数は四千字以上。参考文献は5つ以上使用し、適切な引用形式で記述すること。締め切りは一週間後。
この講義は鬼と恐れられる真田教授の持ち回りで、単位取得が難しいことで有名だった。だが、里奈は前期の中間レポートで「A評価」を取っている。もちろん、それは健人が徹夜で書き上げたものだったが、里奈の中では「私はこの授業が得意」という記憶にすり替わっていた。
「四千字かぁ……めんどくさいな」
自宅のベッドに寝転がりながら、里奈はノートパソコンを開いた。
とりあえず書き始めようとするが、一行目から手が止まる。
「ソーシャルキャピタル」って何だっけ?
健人が作った「テスト対策まとめ」には書いてあったはずだが、そのデータは健人によって消去されている。自分で教科書を開こうにも、どこに教科書を置いたかさえ覚えていない。
「……翔くんに頼もう」
里奈はスマホを取り出した。翔は「俺のサークルの後輩にやらせれば一瞬」と言っていた。彼の人脈を使えば、こんな課題なんて赤子の手をひねるようなものだろう。
『翔くん、お疲れ様♡ 今度さ、真田ゼミのレポートが出たんだけど、ちょっと手伝ってほしいなーって。例の後輩くんに頼めたりしないかな?』
甘えたスタンプと共にメッセージを送る。すぐに既読がついた。
『あー、今ちょっと忙しいんだよね。サークルのクリスマスパーティーの準備でバタバタしててさ。悪いけど自力でやってみてよ。里奈ちゃんなら余裕でしょ?』
予想外の返信に、里奈は眉をひそめた。
あれ? 話が違う。
少し焦りを感じて、食い下がる。
『でも、四千字もあるんだよ? 私、書き方とかよく分かんなくて……翔くん、就活のコネだけじゃなくて、大学の課題も余裕って言ってたじゃん』
数分後、翔から電話がかかってきた。
「もしもし、翔くん? お願い、本当に困ってて……」
「あのさぁ、里奈」
翔の声は、いつもの甘いトーンではなく、明らかに苛立っていた。
「俺、今マジで忙しいの。クリパの会場手配とか、協賛企業との打ち合わせとかで寝る暇もねーんだよ。たかがレポート一つでギャーギャー騒ぐなよ。お前、前期はA評価だったんだろ? 実力あるんだから、自分でやれって」
「そ、それは……健人が手伝ってくれたからで……」
「は? じゃあ何か、お前はあいつがいないと何にもできない無能ってこと?」
冷たい言葉が胸に突き刺さる。
「無能」という言葉に、プライドが傷ついた。
「そ、そんなことない! 私だってやればできるよ!」
「だろ? だったら証明してみせろよ。俺の彼女なら、それくらいのスペックあって当然だろ。あ、ついでに言うけど、俺もその授業取ってるの忘れてないよな? 俺の分もやっといてくんない?」
「えっ?」
「俺はサークルの代表として、お前の何倍も忙しいんだよ。お前が俺のサポートをするのは当たり前だろ? 健人とかいう陰キャはお前の下請けやってたかもしれないけど、俺たちは対等なパートナー……いや、俺が将来ビッグになるための内助の功ってやつ? そういうの見せてほしいわけ」
翔の論理は滅茶苦茶だったが、その口調には有無を言わせない圧力があった。
ここで断れば、「使えない女」の烙印を押され、約束された(はずの)マスコミへのコネも消えてしまうかもしれない。その恐怖が、里奈の正常な判断力を奪った。
「わ、分かった……。翔くんの分も、私が何とかする」
「おー、さすが俺の彼女! 愛してるよ、里奈。期待してるからな」
通話が切れると、里奈は呆然とスマホを見つめた。
自分の分だけでなく、翔の分まで。合計八千字。
締め切りまであと六日。
知識ゼロ、資料ゼロの状態からのスタート。
背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
そこからの六日間は、地獄のような日々だった。
まず、大学の図書館に行ってみたが、本の探し方が分からない。健人はいつも、必要な本を魔法のように積み上げてくれていたが、それは彼が検索システムを駆使し、書架の配置を熟知していたからだと初めて知った。
適当に目についた社会学の本を借りてきたが、内容が難解すぎて一行も頭に入ってこない。
「もう、何なのこれ! 意味わかんない!」
部屋で一人、本を壁に投げつける。
誰も拾ってくれない。健人なら、「大丈夫、ここだけ読めばいいから」と優しく要約してくれたはずなのに。
3日目が過ぎる頃には、里奈の精神は限界に近づいていた。翔に「進んでる?」とLINEを送っても、「任せたって言ったろ? 信用してるよ」と返ってくるだけ。
焦燥感に駆られた里奈は、禁断の果実に手を伸ばした。
インターネットだ。
「コピペ バレない方法」
「レポート 代行」
検索窓に次々とキーワードを打ち込む。代行業者はお金がかかるし、今からでは間に合わない。
結局、里奈が選んだのは「複数の個人ブログやニュース記事を継ぎ接ぎして、語尾を変える」という古典的かつお粗末な手法だった。
内容は支離滅裂でも、文字数さえ埋まればいい。翔の分も、似たような記事を探してきて、少し言い回しを変えて作成した。
「……できた。何とか形にはなった」
締め切り当日の朝4時。充血した目で完成したファイルを見つめる。
論理構成も何もない、ただ文字が羅列されているだけの代物。だが、里奈にはその質の低さを判断する能力さえなかった。
「A評価」を取り続けてきたという過去の栄光(健人の功績)が、彼女の目を曇らせていた。「私が書いたんだから、それなりの点数はもらえるはず」という根拠のない自信にしがみつくしかなかったのだ。
そして、運命のゼミ発表の日がやってきた。
この授業では、レポート提出だけでなく、その内容をスライドにまとめてプレゼンを行わなければならない。
教室に入ると、独特の緊張感が漂っていた。教壇には真田教授が座り、厳しい視線で学生たちを見渡している。
教室の後方には、健人の姿があった。彼は一人静かにノートパソコンを開き、直前の確認をしているようだった。その横顔は知的で、落ち着き払っている。以前なら隣に座っていたはずの彼が、今は他人行儀に離れた席にいることが、ひどく遠く感じられた。
翔は遅刻ギリギリでやってきた。二日酔いなのか顔色が悪い。
「お、サンキュー。マジ助かったわ」
里奈からUSBメモリを受け取ると、中身も確認せずに教授に提出した。
「では、最初の発表者。相沢君、お願いします」
教授に指名され、健人が立ち上がった。
彼は流れるような手つきでプロジェクターを接続し、タイトルスライドを表示させる。
シンプルだが洗練されたデザイン。文字の大きさ、配色のバランス、グラフの見やすさ。全てが計算し尽くされていた。
発表内容は圧巻だった。
膨大なデータに基づいた分析、論理的な考察、そして独自性のある結論。質疑応答でも、教授の鋭いツッコミに対して的確かつ冷静に回答していく。
「素晴らしい。相沢君の視点は非常に興味深いですね。特筆すべきは、参考文献の選び方のセンスです。よく勉強している」
滅多に人を褒めない真田教授が、眼鏡の奥で目を細めて頷いた。
教室中から感嘆のため息と拍手が起こる。
里奈は唇を噛み締めた。
(何よ、あんなの。私だって、あれくらいの資料、健人に作らせてたんだから……)
そう、かつて里奈が発表していたスライドも、このレベルだったのだ。自分が優秀だったわけではなく、健人の分身がそこにいただけなのだという事実を、まざまざと見せつけられた気がした。
「次は、吉岡さん。お願いします」
名前を呼ばれ、心臓が跳ね上がった。
震える手でパソコンを接続する。
スクリーンに映し出されたのは、原色の背景に明朝体の文字がびっしりと詰め込まれた、見るに耐えないスライドだった。
デザインの知識がない里奈が、パワーポイントの初期設定のまま文字を打ち込んだだけのものだ。
教室の空気が一瞬にして凍りついたのが分かった。
クスクスという失笑が漏れる。
「えっと、私が調べたのは、ソーシャルキャピタルについてで……」
里奈は手元の原稿(ネット記事のコピペ)を棒読みし始めた。
顔を上げる余裕はない。ただひたすら、文字を追う。
内容が頭に入っていないため、イントネーションがおかしい。専門用語の読み間違いも連発する。
「……以上です」
読み終えると、耐え難い沈黙が流れた。
拍手はない。
真田教授が、ゆっくりと眼鏡の位置を直しながら口を開いた。
「吉岡さん。質問してもいいですか?」
「は、はい」
「君が発表の中で述べた『構造的空隙(くうげき)』という概念ですが、これは具体的にどのような事例を指して言っているのですか?」
『構造的空隙』。それはコピペ元の記事にあった単語で、なんとなくカッコいいからそのまま使っただけだった。意味など知る由もない。
「えっと……それは、構造的に、隙間があるということで……」
「言葉の意味を聞いているのではありません。君のレポートにおける文脈での定義を聞いているのです」
教授の声が低くなる。
「前期の君のレポートは、非常に論理的で明快でした。しかし今回の発表は、まるで別人が書いたかのように支離滅裂だ。さらに言えば、スライドの3枚目と5枚目の文章、文体が全く違いますが、これはどういうことですか?」
「あ、あの、それは……色々な資料を参考にしたので……」
「参考? それとも転用ですか?」
ギクリとした。
教授の目は全てを見透かしているようだった。
「出典の明記がない引用は剽窃(ひょうせつ)、つまり盗用とみなされます。君は大学3年生にもなって、そんな基本も分からないのですか?」
「す、すみません……」
公開処刑だった。
プライドはずたずたに引き裂かれ、穴があったら入りたいという言葉の意味を痛感した。
ふと健人の方を見ると、彼はパソコンの画面を見たまま、こちらを一瞥もしなかった。嘲笑うでもなく、哀れむでもなく、ただ「無関心」。それが一番辛かった。
「席に戻りなさい。後で話があります」
教授の冷徹な宣告を受け、里奈は逃げるように席に戻った。涙が滲んで視界が歪む。
だが、悪夢はこれで終わりではなかった。
「次は、西園寺君」
翔がダルそうに立ち上がり、前に出た。
彼が映し出したスライドもまた、里奈が作った粗悪品だった。しかも、里奈が自分の分で力尽きた後に作ったものだから、さらに質が低い。
翔はスライドのひどさに一瞬顔をしかめたが、持ち前のハッタリで乗り切ろうとした。
「えー、俺が思うに、最近の地域社会は絆とかが薄れてて、マジでヤバいと思うんすよね。だからこそ、SNSとか使ってバイブス上げてくのが重要っていうか……」
専門用語ゼロ、論理性ゼロの、居酒屋の雑談のような発表。
学生たちは失笑を通り越して呆れ返っている。
真田教授は怒りを通り越して無表情になっていた。
「西園寺君、君の提出したレポートを見ましたが」
「はい?」
「『現代社会の希薄化』について書かれた段落ですが、これ、3年前の卒業生のブログ記事と一字一句同じですね」
教室がざわめいた。
翔の顔色がサッと青ざめる。
里奈は息を呑んだ。時間がなくて焦ってコピペした箇所が、まさかそんな簡単に見つかるとは。
「え、いや、それは……参考文献として……」
「参考文献リストには載っていません。それに、君のレポートの後半部分、吉岡さんのレポートと構成が酷似しているのは偶然ですか?」
教授の鋭い指摘に、翔は言葉に詰まった。
そして、追い詰められた彼は、信じられない行動に出た。
「いや、違うんすよ先生! これは俺が書いたんじゃなくて、そこの吉岡が勝手にやったことなんです!」
翔がビシッと里奈を指差した。
「俺、忙しくて手が回らなくて。そしたら吉岡が『私がやっとくから』って勝手にデータ送ってきて。俺はそれを信じて出しただけで、中身がパクリだなんて知らなかったんすよ! 俺は被害者です!」
「は……?」
里奈は耳を疑った。
確かに書いたのは自分だが、頼んできたのは翔だ。しかも「俺の彼女ならやって当然」と脅すようなことまで言っておきながら、いざとなったら全ての責任を自分になすりつける気か。
「ちょっと、翔くん!? 何言ってるの!? 翔くんがやれって言ったんじゃない!」
「ハァ? 嘘つくなよ。お前が『点数稼ぎたいから翔くんの名前も貸して』って言ってきたんだろ?」
醜い責任の押し付け合い。
神聖なはずの教室が、泥沼の痴話喧嘩の場と化した。
ドン、と教授が教卓を叩いた。
「いい加減にしなさい!」
雷のような怒号が響き渡り、二人はびくりと肩を震わせて黙り込んだ。
「二人とも、講義終了後に私の研究室に来なさい。徹底的に事情を聞かせてもらいます。……相沢君」
「はい」
突然名前を呼ばれ、健人が顔を上げた。
「君は以前、吉岡さんの学習支援をしていると聞いていましたが、今回の件に関与していますか?」
健人はゆっくりと立ち上がり、毅然とした態度で答えた。
「いいえ。私は一週間前、彼女との交際を解消しました。それ以降、学習面のサポートも一切行っていっていません。今回のレポート作成には1ミリも関与していません」
「……なるほど。前期との落差の理由がよく分かりました」
教授は納得したように頷き、冷たい視線を里奈と翔に戻した。
それはつまり、これまでの里奈の成績が「相沢健人という下駄」によって履かされていたものであり、今日の実態こそが彼女の真の実力であると、公式に認定された瞬間だった。
授業が終わり、重苦しい空気の中で学生たちが教室を出て行く。
健人もまた、鞄を持って立ち去ろうとしていた。
里奈は教授の呼び出しを待つ間、すがるような思いで健人に声をかけようとした。
「健人……」
しかし、健人は振り返らなかった。
その背中は、「もう俺には関係ない」とはっきりと拒絶していた。
教室の隅では、翔が里奈を睨みつけていた。
「ふざけんなよ、お前のせいで恥かいたじゃねーか。どう落とし前つけてくれんだよ」
小声で罵倒してくる翔の顔は、かつて憧れた「頼れる彼氏」ではなく、自分の保身しか考えない卑怯な男のそれだった。
里奈は震えながら気づいてしまった。
自分を守ってくれていた強固な城壁はもうない。
そして、今自分が立っている場所は、薄氷の上ですらない、底なし沼の真上なのだと。
教授室への廊下を歩きながら、里奈の脳裏に浮かぶのは、図書館で静かに微笑んでくれていた健人の顔だった。
「里奈は頑張ってるよ。大丈夫、俺がついてるから」
あの優しい言葉は、もう二度と聞くことはできない。
失ったものの大きさが、ボディブローのように遅れて効いてきた。
だが、本当の地獄はこれからだった。
教授室での尋問、そして迫り来る期末試験。
「メッキ」が剥がれた後に残ったのは、錆びついた鉄屑のような、惨めな現実だけだった。
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