「つまらない君より人脈がある彼がいい」と俺を捨てた彼女。俺が課題の代筆をやめた途端、彼氏の嘘がバレて二人揃って人生詰んだ件。〜今更泣きつかれても、俺は第一志望の内定済みなので〜

@flameflame

第一話 供給停止の宣告

12月の冷え込みが厳しくなり始めた頃、大学の図書館は独特の静寂と緊張感に包まれていた。期末試験まではまだ時間があるが、3年生にとってはゼミの最終発表やレポート、そして何より本格化しつつある就職活動のプレッシャーが重くのしかかる時期だ。暖房の効いた館内で、俺、相沢健人(あいざわ けんと)は、自分のノートパソコンに向かってひたすらキーボードを叩き続けていた。


「……よし、これで参考文献の引用も完了っと」


小さなエンターキーの音とともに、俺は大きく息を吐き出した。画面に表示されているのは『現代社会におけるメディアリテラシーの変容』というタイトルのレポートだ。文字数は五千文字。構成から執筆、最後の推敲まで、丸三日を費やした力作である。

だが、右上の作成者名には俺の名前はない。「吉岡里奈」――俺の恋人の名前が記されていた。


俺はこめかみを軽く揉みほぐしながら、時計を確認する。時刻は午後4時を回ったところだ。

里奈は要領が悪く、文章を書くのが壊滅的に苦手だった。「健人くん、お願い! このままだと単位落としちゃう!」と涙目で頼まれると、どうしても断れない。俺たちは高校時代からの付き合いで、彼女の頼りないところも含めて守ってやりたいと思っていたからだ。講義のノートを取り、出席管理をし、課題を代筆し、試験前には要点をまとめた「里奈専用ペーパー」を作る。それが俺の日常であり、彼女への愛情表現の一つだと信じていた。


スマホが短く震え、LINEの通知が表示される。里奈からだ。

『今どこ? 学食のテラス席に来て。話があるの』

絵文字もスタンプもない、素っ気ない文面。

レポートが完成したことを伝えようとしていた俺は、少し胸騒ぎを覚えた。いつもなら「終わった?」とか「ありがとう!」というメッセージが来るはずなのに。

嫌な予感を振り払うように、俺はパソコンをスリープモードにして鞄に詰め込み、図書館を後にした。


冬のキャンパスは寒々しいが、学食エリアだけは学生たちの熱気で溢れかえっている。その喧騒を抜け、ガラス張りのテラス席エリアへと向かう。夕日が差し込む窓際の席に、見慣れた茶色のロングヘアの後ろ姿があった。

だが、彼女は一人ではなかった。


「よお、お疲れさん。ガリ勉くん」


里奈の隣に座り、馴れ馴れしく彼女の肩に腕を回している男がいた。

西園寺翔(さいおんじ しょう)。派手な金髪メッシュに、ハイブランドのロゴが大きく入ったパーカー。学内でも有名なイベントサークル『バッカス』の代表を務める男だ。いわゆる「陽キャ」の代表格で、地味な俺とは住む世界が違う人間のはずだった。


「……里奈、これはどういうこと?」


俺が努めて冷静に問いかけると、里奈は俺と目を合わせようとせず、ストローでアイスコーヒーをかき混ぜながらボソリと言った。


「健人、ごめん。私たち、別れよう」


予想はしていたが、実際に言葉にされると心臓が早鐘を打った。頭が真っ白になりかけるのを必死に堪える。


「別れるって……理由を聞かせてくれないか? 俺、何かした?」

「何かした、っていうか……何もしないから、つまんないんだよ」


里奈がようやく顔を上げ、軽蔑するような眼差しを俺に向けた。その瞳に、かつて俺に向けてくれていた信頼や甘えの色は微塵もない。


「健人ってさ、真面目だけが取り柄じゃない? 授業出て、ノート取って、図書館行って……そんな生活、見てて息が詰まるの。翔くんみたいに、もっと広い世界を見てる人と一緒にいたいんだよね」

「広い世界?」

「そう。俺みたいな人脈(コネ)だよ、人脈」


翔がニヤニヤしながら口を挟んでくる。彼はテーブルの上に足を投げ出すような姿勢で、俺を見下ろしていた。


「お前さ、就活解禁目前で必死にSPIの勉強とかしてんだろ? マジでコスパ悪いよな。俺なんか、親戚が大手広告代理店の役員だし、商社の人事とも飲み友達だからさ。内定なんてコネで一発なんだわ」


翔は大げさな身振りで自分の「凄さ」を語り始めた。


「里奈ちゃんみたいな可愛い子はさ、お前みたいな地味な男とチマチマ節約デートしてる場合じゃねーの。俺が紹介するハイスペックな合コンとか、業界人のパーティに顔出した方が将来のためなんだよ。なあ、里奈?」

「うん、そうだよ! 翔くん、私のことマスコミ関係にねじ込んでくれるって約束してくれたし。健人と一緒にいても、せいぜい中小企業の事務職止まりでしょ?」


里奈の声は弾んでいた。まるで、輝かしい未来が約束されたかのように。

俺は呆然とした。

俺が彼女のために積み上げてきた努力――共に勉強し、彼女が希望する業界に行けるように企業研究を手伝い、GPA(成績評価値)を維持させてきたこと――は、翔の語る不確かな「コネ」の前では無価値だと言うのか。


「里奈、本気で言ってるのか? 就活はそんな甘いものじゃない。それに、今の成績だって……」

「あーもう、うるさいなぁ!」


里奈が苛立ったようにテーブルを叩いた。


「そういう説教くさいところが嫌いなの! 成績なんて、要領よくやればどうにでもなるでしょ? 実際、私ここまでフル単で来れてるし。健人がいなくたって、私には翔くんがいるの。翔くんは顔が広くて頼りになるんだから!」


里奈は翔の腕に抱きつき、甘ったるい声を出した。翔は勝ち誇った顔で俺を見て、鼻で笑った。


「聞こえたか? 里奈ちゃんは俺を選んだんだよ。お前みたいな、教科書と睨めっこしかできない『使えない男』はお払い箱ってこと。悔しかったら、俺より太いパイプ作ってみろよ。ま、無理だろうけどなw」


二人の嘲笑が、周囲のざわめきと共に耳に突き刺さる。

怒りが湧くよりも先に、俺の中で何かが冷めていく感覚があった。

プツン、と。

これまで俺を突き動かしていた「責任感」や「情」という名の糸が、音を立てて切れたのだ。


俺は里奈のことを、不器用だけど頑張り屋だと思っていた。だから支えてきた。けれど、彼女にとって俺の献身は「あって当たり前の便利な機能」でしかなく、俺自身の人格や努力はどうでもよかったのだ。そして今、より性能が良さそうな(に見える)「新しいアプリ」を見つけたから、俺をアンインストールしようとしている。

それだけのことだ。


「……わかった」


俺は静かに頷いた。怒鳴る気にも、すがりつく気にもなれなかった。ただ、深い徒労感だけが残った。


「あっさり認めるんだ。ま、健人も自分の就活でいっぱいいっぱいだもんね。私の世話なんて重荷だったんでしょ?」


里奈は罪悪感を消すためか、自分に都合の良い解釈を口にする。俺はそれを否定も肯定もせず、ただ淡々と告げた。


「そうだね。これからは自分のために時間を使うことにするよ。……じゃあ、最後に一つだけ整理させてくれ」


俺は鞄からノートパソコンを取り出し、テーブルの上に置いた。

里奈が怪訝な顔をする。


「何? 今更未練がましく写真とか見せないでよ」

「いや、思い出の整理じゃない。実務的な整理だ」


俺は慣れた手つきでパスワードを入力し、クラウドストレージのフォルダを開く。画面には『里奈_大学講義』『里奈_課題提出済』『里奈_就活対策』といったフォルダがずらりと並んでいる。


「里奈、君はこの3年間、大学のポータルサイトや課題提出用のクラウドのパスワード管理を全部俺に任せていたよね。この共有フォルダ、俺のアカウントで作ったものだけど、覚えてる?」


「え? ああ、そうだったっけ。別にどうでもよくない?」


「どうでもよくないよ。君との関係が終わるなら、この共有も切る必要がある。個人情報の管理は大事だからね」


俺はマウスカーソルを動かし、『吉岡里奈関連』のメインフォルダを選択した。ここには、1年の頃からの全ての講義ノート、過去問のデータベース、そして先ほど完成させたばかりのレポートも入っている。さらに言えば、来週締め切りのゼミ発表用スライドのドラフトや、期末試験に向けた「裏マニュアル」もここにある。

これらは全て、俺が睡眠時間を削って作成し、彼女のために蓄積してきた「知の結晶」だ。


「じゃあ、このフォルダの共有を解除するね。……いや、俺のアカウントにあるのも容量の無駄だから、削除させてもらうよ」


「は? 別に消さなくても……」


里奈が言いかけた言葉を遮るように、俺は『削除』キーを押した。

確認のポップアップが出る。

『本当に削除しますか? この操作は取り消せません』


「さようなら、里奈」


俺は迷わずエンターキーを叩いた。

一瞬にして、数ギガバイトのデータが電子の海へと消え去った。画面上のフォルダ一覧から、里奈の名前がついた項目が全て消滅する。


「あ……」


里奈が間の抜けた声を上げたが、事態の深刻さは理解していないようだった。彼女の中では、レポートや課題は「湧いてくるもの」か「誰かがどうにかしてくれるもの」という認識なのだろう。


「おいおい、当てつけかよ? 器ちっせーなー」


翔が馬鹿にしたように笑う。


「別にいいじゃん、そんなゴミデータ。里奈ちゃんの就活は俺がバックアップするし、大学の課題なんて俺のサークルの後輩にやらせれば一瞬で終わるしな。お前の作った地味なノートなんかより、よっぽど効率いいのがあるんだよ」

「そう、だよね! 翔くんがいるもんね!」


里奈はすぐに気を取り直し、翔に媚びるような笑顔を向けた。

俺はパソコンを閉じ、鞄にしまった。もう、この場所に留まる理由は一つもない。


「西園寺、君がそこまで言うなら安心だ。里奈のこと、よろしく頼むよ。彼女、スケジュール管理も一人じゃできないし、PCの基本操作も怪しいから、君の優秀な人脈とやらでサポートしてあげてくれ」


皮肉を込めてそう言ったが、翔は「任せとけって」と余裕しゃくしゃくだ。彼は知らないのだ。里奈がどれほど手のかかる存在か。そして、里奈が誇っていた「好成績」が、100%純粋に俺の労力の産物であったことを。

そして里奈もまた、知らない。翔が豪語する「コネ」や「人脈」がどれほど薄っぺらいものか、噂レベルではあるが俺の耳にも入ってきていることを。


「じゃあ、俺はこれで」


席を立つと、里奈は一度も俺を見ようとしなかった。すでに彼女の関心は翔との会話――次のデート先や、虚飾に満ちた将来の話――に移っているようだった。

俺は背を向け、出口へと歩き出した。

学食を出て、冬の冷たい外気に触れた瞬間、体が震えるほどの寒さを感じたが、それ以上に胸の奥がすっと軽くなるのを感じた。


重荷は下ろされたのだ。

これからは、誰かのために時間を犠牲にする必要はない。

自分のために学び、自分のために未来を掴み取る。本来あるべき学生生活に戻るだけだ。


「……さて、帰って自分のエントリーシートを書くか」


独り言は白く曇り、空へと溶けていった。

背後で笑い合う二人の声は、もう雑音にしか聞こえなかった。

彼らがこれから直面するであろう地獄――「生命線」を失ったことによる崩壊の連鎖――を、彼らはまだ想像すらしていない。


来週には、必修科目の最終レポート提出期限が迫っている。

再来週には、ゼミの個人発表がある。

そして一ヶ月後には、進級をかけた期末試験が始まる。


これまで俺が「魔法」のように処理していたそれらの障害が、牙を剥いて彼らに襲いかかる時、果たしてその「人脈」とやらは役に立つのだろうか。

俺は冷ややかな予感を抱きながら、一歩一歩、自分の道を踏みしめて歩き出した。

スマホを取り出し、スケジュールアプリを開く。そこには『里奈レポート締切』『里奈バイト送迎』といった予定がびっしりと書き込まれていた。

俺は歩きながら、それらを一つ一つ、指先でタップして削除していった。


『予定を削除しました』

『予定を削除しました』

『予定を削除しました』


画面が真っ白になり、やがて俺自身の『第一志望・商社インターン選考』という予定だけが残った。

シンプルで、美しいスケジュール画面だ。

俺は小さく息を吸い込み、冬の澄んだ空を見上げた。

そこには、今まで見落としていた一番星が、静かに、しかし確かに輝いていた。

俺の人生が、ようやく俺の手に戻ってきたのだ。

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