第二話 それぞれの「重さ」

目覚まし時計のアラームが鳴る。午前六時半。カーテンの隙間から差し込む朝日は、驚くほど澄んでいた。


俺、高坂和也は、布団の中で大きく伸びをした。体が軽い。頭もすっきりしている。こんなに爽快な目覚めは、一体いつぶりだろうか。


ここ一年ほど、俺の朝は常に鉛のような倦怠感とともに始まっていた。深夜二時、三時に叩き起こされるスマホの着信音。泣きじゃくるミオの声。彼女を宥め、時には家を抜け出して公園へ向かい、彼女が落ち着くまで背中をさすり続ける。睡眠時間は削られ、慢性的な寝不足が続いていた。


だが、昨夜は一度もスマホが鳴らなかった。当然だ。俺とミオの関係は終わったのだから。


「……よく寝た」


独り言が、何の重みもなく部屋の空気に溶けていく。スマホを確認する。通知はゼロ。かつては画面を見るたびに「また何かあったんじゃないか」と胃がキリキリしたものだが、今はただの黒い板だ。


俺はベッドから起き上がり、リビングへ降りた。母さんがキッチンで朝食の準備をしている。味噌汁の出汁の香りが鼻腔をくすぐる。


「おはよう、和也。顔色いいじゃない」

「おはよう、母さん。うん、久しぶりにぐっすり寝た気がする」

「そう……よかったわね」


母さんは少しだけ複雑そうな、でも安堵したような微笑みを浮かべた。俺は食卓に着き、出された焼き魚と卵焼きを口に運ぶ。当たり前の日常。誰にも邪魔されない、平穏な朝食。それがこんなにも美味しいものだったなんて、忘れていた気がする。


「和也、ちょっといいか」


コーヒーを飲んでいた父さんが、新聞を畳んで俺に向き直った。真剣な眼差しだ。


「昨日の話の続きだがな。俺と母さんで話し合ったんだ」

「うん」

「ミオちゃんのことだ。あの子の家庭環境が複雑なのは知っているし、同情もしていた。だが、お前の献身をあんな形で裏切ったことは許容できない」


父さんの声は低く、怒りを静かに孕んでいた。普段は温厚な父さんがここまでハッキリと言うのは珍しい。


「もし、あの子がまた助けを求めてきても、お前はもう関わるな。そして、もし家に押しかけてくるようなことがあっても、俺たちは決して入れないつもりだ」

「……分かった。俺も、もう関わるつもりはないよ」

「そうか。それがいい。お前はもう十分やったんだ。これからは自分の青春を楽しみなさい」


父さんの言葉に、母さんも強く頷く。


「そうよ。あの子のために、和也が犠牲になる必要なんて最初からなかったのよ。……正直に言うとね、お母さん、少しほっとしているの。あなたが夜中にこっそり出ていくたびに、心配で眠れなかったから」


母さんの告白に、俺は胸が痛んだ。俺がミオを支えているつもりで、実は俺自身も家族に支えられ、心配をかけていたのだ。


「ごめん、母さん。父さんも。……ありがとう」


俺は深く頭を下げた。罪悪感がないわけではない。ミオの家庭環境は依然として地獄のままだろう。だが、それを救うのは俺の役目ではなかった。彼女自身が「いらない」と言ったのだから。


俺は「元カノの保護者」という重い肩書きを下ろし、ただの高校生に戻った。その事実に、冷酷かもしれないが、俺は言いようのない解放感を覚えていた。


学校へ向かう足取りも軽い。通学路の景色が、昨日までとは違って鮮やかに見える。教室に入り、自分の席に着くと、友人の田中が話しかけてきた。


「よう高坂。お前、なんか今日雰囲気違わね?」

「そうか?」

「おう。なんかこう、憑き物が落ちたっつーか。目の下のクマもねえし」


田中は鋭い。俺は苦笑しながら、鞄を机の横にかけた。


「まあ、実際に落ちたのかもな。……ミオと別れたんだ」

「はあ!? マジかよ! お前ら、あんなに……いや、まあ、正直言うとさ」


田中は声を潜め、周りを伺いながら続けた。


「お前、相沢さんと付き合ってる時、すげー無理してるように見えたぜ。いつもスマホ気にして、部活も辞めてバイトばっかりしてさ。彼女のために金稼ぐとか言ってたけど、正直見てて痛々しかったわ」


客観的にはそう見えていたのか。俺は自嘲気味に笑った。


「そうだな。ちょっと、頑張りすぎてたみたいだ」

「別れて正解だって。高校生なんだからさ、もっと気楽に生きようぜ。今日の放課後、久しぶりにカラオケ行かね? お前、付き合い悪かったからなー」

「ああ、行くよ。久しぶりに歌いたい気分だ」


その時、教室の入り口がざわついた。ミオが入ってきたのだ。いつもなら俺の姿を見つけると小さく手を振ってきたり、あるいは不安そうな顔で駆け寄ってきたりするのだが、今日は違った。


彼女は俺と目が合うと、ふいっと露骨に顔を背けた。そして、わざわざ俺の席から離れた通路を通って自分の席へと向かう。その横顔には、どこか勝ち誇ったような、あるいは「私はもうあなたに縛られない」という強がりを含んだ冷たさがあった。


俺は小さく息を吐き、視線を教科書に戻した。胸が痛まないと言えば嘘になる。だが、それ以上に「もう追いかけなくていいんだ」という安堵が勝っていた。


一方、その頃のミオの心境は、俺が想像する「解放感」とは少し違う色を帯びていたようだ。


放課後。ミオは校門の前で待っていた工藤リョウのバイクにまたがっていた。


「ようミオ。今日も可愛いじゃん」

「ありがと、リョウくん」


リョウは馴れ馴れしくミオの腰に手を回し、周囲の視線を気にする様子もなくキスをする。和也とは違う、強引で粗野な振る舞い。ミオは恥ずかしさと同時に、背徳的な高揚感に包まれていた。


「今日はどこ行く?」

「ゲーセン行って、その後はダチの溜まり場で飲むか。新しいのが入ったんだよ」

「うん、行く!」


バイクのエンジン音が轟き、風を切って走り出す。和也の自転車の荷台とは違う、圧倒的なスピードと振動。しがみつかなければ振り落とされてしまいそうな恐怖と、リョウの背中から伝わる体温。


(これよ。私が求めていたのは、こういうドキドキなの)


ミオは心の中で叫んだ。和也との時間は、確かに穏やかだった。優しかった。でも、それはまるで老人ホームのような静けさで、若くてエネルギーを持て余している自分には退屈すぎた。和也はいつも「大丈夫?」「寒くない?」と心配ばかりして、ミオを腫れ物のように扱った。


でもリョウは違う。私を対等な「女」として扱ってくれる。連れて行かれる場所は騒々しくて、タバコの匂いがして、少し怖いけれど、それが「生きてる」って感じがする。


ゲームセンターの喧騒の中、リョウはUFOキャッチャーで大きなぬいぐるみを一発で取ってみせた。


「ほらよ、やる」

「すごーい! ありがとう、リョウくん大好き!」


ミオが抱きつくと、リョウはニヤリと笑って頭を撫でた。その手つきは少し乱暴で、髪が乱れたけれど、ミオは気にしなかった。和也なら、乱れた髪を丁寧に直してくれただろう。いちいち比較してしまう自分に気づき、ミオは首を振った。


(和也のことはもういいの。あんな重い男、忘れるんだから)


リョウの仲間たちと合流し、ファミレスでたむろする。彼らの会話は下品で、他人の悪口や喧嘩の武勇伝ばかりだったが、ミオは必死に笑顔を作って相槌を打った。ここで「つまらない」なんて顔をしたら、リョウに嫌われてしまうかもしれない。そんな無意識の緊張が、彼女の神経を少しずつ摩耗させていることに、彼女自身はまだ気づいていなかった。


夜の九時過ぎ。

「じゃあな、ミオ。今日はここまで」

リョウは家の近くの路地裏でバイクを止めた。


「えっ、もう帰るの? まだ一緒にいたいな……」

「明日はバイトあんだよ。それに、お前も門限とかあんだろ?」

「そんなのないよ。帰りたくない……」


ミオはリョウのジャケットの裾を掴んだ。家に帰りたくない。あの地獄のような家に。


「チッ」


リョウが小さく舌打ちをしたのを、ミオは聞き逃さなかった。ビクリとして顔を上げると、リョウは面倒くさそうな表情を浮かべていた。


「あのさ、俺、そういうジメジメしたの嫌いなんだわ。楽しく遊ぶのはいいけど、依存とかマジ勘弁。お前、和也とかいう奴にもそうやってベタベタしてたわけ?」

「え……ち、違うの。ただ、リョウくんともっと一緒にいたくて……」

「はいはい。分かったから今日は帰れって。また連絡するから」


リョウは有無を言わせぬ口調でそう言うと、ミオを降ろしてアクセルを吹かした。テールランプが闇の中に消えていくのを、ミオは呆然と見送った。


取り残された静寂。急に夜風が冷たく感じる。和也なら、絶対にこんな置き去り方はしなかった。必ず家の玄関が見えるところまで送ってくれて、「何かあったらすぐ電話して」と言ってくれたはずだ。


(……比べるのはやめよう。リョウくんは忙しいんだし、サバサバしてるだけ)


自分にそう言い聞かせ、ミオは重い足取りで家に向かった。


玄関のドアを開けた瞬間、腐ったような酒の臭いが鼻を突いた。


「……あ、おかえりぃ、ミオちゃん。遅かったじゃないの」


リビングのソファには、空になった焼酎のボトルが転がり、母親が焦点の定まらない目でこちらを見ていた。髪は振り乱れ、目は充血している。いつもの「発作」が始まっている合図だ。


「……ただいま。すぐ部屋に行くから」

「待ちなさいよ!」


母親が叫び、手元にあったリモコンを投げつけてきた。プラスチックの塊が壁に当たって砕け散る。


「あんた、またあの男と遊んでたの!? 成績も下がって、近所の目も気にして、私はこんなに苦労してるのに! あんたは父親に似て自分勝手ねぇ!」

「やめてよ! ママだって仕事もしないで酒ばっかり飲んで!」

「誰のおかげで飯が食えてると思ってんだ! この穀潰しが!」


罵声が飛んでくる。ミオは耳を塞いで自分の部屋に駆け込み、鍵をかけた。ドンドンとドアを叩く音と、母親のヒステリックな叫び声が響き渡る。


「開けなさい! 親に向かって鍵をかけるなんて!」


恐怖で心臓が早鐘を打つ。手が震える。怖い。誰か、助けて。


ミオは無意識のうちにスマホを握りしめ、連絡先を開いていた。指が勝手に「和也」の名前を探そうとする。


(だめ……和也とは別れたんだ。もう頼れない)


そうだ、私にはリョウがいる。強くて、刺激的な、新しい彼氏が。リョウなら、この状況を笑い飛ばして、私を連れ出してくれるかもしれない。


ミオは震える指でリョウに電話をかけた。コール音が長く感じる。十回、二十回。出ないかと思ったその時、ようやく繋がった。


『……あ? なんだよ、さっき別れたばっかだろ』


リョウの声は不機嫌そのものだった。背後でガヤガヤと騒ぐ声や、電子音が聞こえる。おそらくまだ仲間と遊んでいるのだ。「バイトがある」というのは嘘だったのか。


「ご、ごめんねリョウくん。あの、ママがまた暴れてて……怖いの。部屋のドア叩いてて……」

『はあ?』

「お願い、助けて。ここから連れ出してほしいの。近くの公園まで行くから……」


ミオは縋るように訴えた。しかし、返ってきたのは冷淡な拒絶だった。


『お前さぁ、空気読めよ。俺、今ダチとゲームしてんだけど』

「でも……本当に怖いの……」

『知らねーよ。お前の家の事情とか、俺に関係なくね? 親がウザいなら家出すりゃいいじゃん。俺を巻き込むなよ』


突き放すような言葉。ミオの思考が停止する。


「え……? でも、リョウくん、彼氏でしょ……?」

『彼氏だからって、ベビーシッターじゃねーんだわ。てか、そういう重いのマジで無理。和也って奴はそういうの喜んでやってたかもしれねーけど、俺に求めんな』


「重い」。

その言葉が、鋭利な刃物となってミオの胸に突き刺さった。自分が和也に投げつけた言葉。それがそのまま、自分に返ってきたのだ。


『泣き言なら他で言えよ。じゃあな』


プツリ。

通話が切れた。無機質な電子音が耳に痛い。


ミオはスマホを持ったまま、ベッドの上に崩れ落ちた。ドアの外ではまだ母親が叫んでいる。「出てこい」「殺してやる」といった言葉が聞こえる。


和也なら。

和也なら、電話に出た瞬間に「すぐ行く」と言ってくれた。どんなに夜遅くても、雨が降っていても、息を切らして駆けつけてくれた。そして、震える私を抱きしめて、「もう大丈夫だ」と言ってくれた。


その「重さ」は、実は「愛」だったのだと、ミオは今さらになって気づき始めていた。リョウの言う「軽さ」や「刺激」は、都合が悪くなれば簡単に切り捨てられる「無責任」と同義だったのだ。


「う、うぅ……」


ミオは枕に顔を埋め、声を殺して泣いた。和也の温かい腕の中が恋しかった。あの煮込みハンバーグの匂いがする、安全なリビングが恋しかった。でも、自分からそれを捨てたのだ。「重い」と言って。


その頃、和也の家では。


和也は風呂上がりに、リビングで両親とテレビを見て笑っていた。バラエティ番組のくだらない冗談に声を上げて笑う。隣にはフルーツの皿があり、平和な時間が流れている。


ふと、外で遠雷が鳴った気がした。


「雨、降るかもな」

「明日の朝には止むといいけど」


父さんが窓の外を見る。和也もつられて夜の闇を見つめた。


一瞬、ミオのことが頭をよぎった。今頃どうしているだろうか。あの家で、また怯えているのだろうか。


だが、和也は首を振ってその思考を追い払った。


「まあ、俺には関係ないか」


彼はリモコンを手に取り、チャンネルを変えた。もう、誰かのために自分の夜を犠牲にする必要はない。彼は温かいソファに深く身を沈め、瞼を閉じた。今夜もきっと、いい夢が見られるだろう。


遠く離れた場所で、かつて自分が守っていた少女が、孤独と恐怖に震えていることなど、もう知る由もなかった。

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