第三話 メッキが剥がれる時
季節は梅雨入りを迎えようとしていた。空は連日、どんよりとした鉛色に覆われ、湿気を含んだ風が生温く肌にまとわりつく。俺、高坂和也にとっては、この鬱陶しい天気さえもどこか心地よく感じられた。自分の心の中が驚くほど晴れやかだったからだ。
「高坂、この前の模試、学年トップ10入りしてたぞ」
担任の教師に呼び止められ、声をかけられた。
「あ、ありがとうございます。最近、勉強に集中できてるんで」
「いい傾向だ。この調子なら志望校も夢じゃないぞ」
教師の満足そうな顔を見て、俺は小さく頭を下げた。ミオと別れてから一ヶ月。俺の生活は劇的に改善していた。睡眠不足は解消され、授業中に船を漕ぐこともなくなった。放課後は友人と遊びに行ったり、図書館で勉強したりと、自分の時間を自由に使えるようになった。成績が上がったのも当然の結果だ。
「自分を取り戻すって、こういうことなんだな」
帰り道、コンビニで買ったアイスを食べながら、俺は一人ごちた。かつては、このアイス代すらも「ミオのため」に節約していた。彼女がいつ家出してもいいように、いつ金が必要になってもいいように。今思うと、あれは呪いのような自己犠牲だった。
その頃、校舎の裏手にある駐輪場の隅で、全く逆の状況にある人物がいた。
相沢ミオである。
彼女はコンクリートの壁にもたれかかり、スマホの画面を必死に見つめていた。画面には「リョウくん」とのトーク履歴が表示されているが、ここ数日、彼女からの送信ばかりが並び、既読すらつかない状態が続いていた。
『リョウくん、今日会える?』
『話したいことがあるの』
『ごめんね、しつこくして。でも本当に困ってて』
ミオの指先は小刻みに震えていた。目の下にはファンデーションでも隠しきれない隈があり、艶やかだった髪もどこかパサついている。
彼女の家庭環境は、限界を迎えていた。父親が会社の金を横領していた疑惑が浮上し、家庭内は修羅場と化していたのだ。母親のヒステリーは以前にも増して酷くなり、もはや家にいること自体が命の危険を感じるレベルだった。
「お願い、出てよ……」
ミオは祈るように通話ボタンを押した。コール音が虚しく響く。十回、二十回。留守番電話サービスに接続される直前、ブツッという音と共に通話が繋がった。
『……あー、もしもし?』
気だるげな、そして明らかに不機嫌なリョウの声。ミオは救われたような気持ちになり、声を上ずらせた。
「あ、リョウくん! よかった、やっと出てくれた……」
『今、忙しいんだけど。何?』
「ご、ごめんね。あのね、今日、どうしても会いたくて。家にいられなくて……」
『はあ? またその話?』
ため息交じりの声。ミオの心臓が縮み上がる。
「だ、だって、本当にパパとママが凄くて……私、行く場所なくて……」
『だからさぁ、俺はお前の避難所じゃねーって言ってんだろ。てか、お前しつこすぎ。俺の女友達も「あの彼女、メンヘラでウザくね?」って引いてんだよ』
リョウの言葉には、以前のような甘さは微塵もなかった。あるのは剥き出しの軽蔑と、面倒なものを排除しようとする冷徹さだけ。
「そ、そんな……。私、リョウくんの彼女でしょ? 彼女が困ってるのに、助けてくれないの?」
『彼女っつーかさ、最初は顔可愛いし、不幸な感じがソソるなーと思って遊んでやったけど、中身がこんな面倒くさい奴だとは思わなかったわ』
遊んでやった。
その言葉がミオの脳内で反響する。
『お前さ、和也って奴のこと「重い」って言ってたよな? でもさ、一番重いのお前じゃん。自分の不幸を全部男に背負わせて、悲劇のヒロイン気取って。マジでキモいんだけど』
「キモい」。
最も恐れていた言葉を、最も愛されたい相手から投げつけられた。ミオは言葉を失い、ただ口をパクパクと動かすことしかできない。
『もう連絡してくんな。着信拒否するから。じゃあな』
一方的な通告と共に、通話は切れた。プー、プー、プー、という電子音が、ミオの心を切り刻んでいく。
「嘘……でしょ……?」
ミオはその場に崩れ落ちた。信じられなかった。あんなに優しかったリョウが。あんなに「可愛い」と言ってくれたリョウが。
でも、心のどこかで分かっていたのかもしれない。彼が求めていたのは「都合のいい女」であり、面倒な背景を持つ「人間としての相沢ミオ」ではなかったことを。
雨が降り出した。ポツリ、ポツリとアスファルトを濡らし、やがて本降りへと変わっていく。ミオは濡れるのも構わず、駐輪場で呆然と立ち尽くしていた。
家に帰れば、怒号と暴力が待っている。
頼れる恋人は、もういない。
友人に相談しようにも、リョウと付き合い始めてから、真面目な友人たちとは疎遠になってしまっていた。
孤独。
完全なる孤独が、冷たい雨と共にミオを包み込んだ。
ふと、彼女の脳裏にある光景が浮かんだ。
温かいリビング。湯気の立つ料理。穏やかに笑う和也とその両親。
「和也……」
無意識のうちに、彼女はその名前を呟いていた。自分が捨てたはずの、退屈で重い男。でも、彼だけが、世界でたった一人、ミオの汚い部分も、重い事情も、すべてを受け入れてくれていたのだ。
「私が……間違ってたの?」
認めたくない事実が、喉元までせり上がってくる。リョウの刺激的な魅力は、ただのメッキだった。少し擦れば剥がれ落ちる、安っぽい金メッキ。対して和也の「重さ」は、純金のような、変わらない価値を持つ本物の愛情だったのだ。
ミオはふらふらと歩き出した。傘も差さずに雨の中を。行く当てなどないはずなのに、足は勝手にある場所を目指していた。
一方、和也はその頃、自宅のリビングでくつろいでいた。
「すごい雨だな」
窓の外を見ながら、父さんが言った。叩きつけるような雨音が、室内にも響いてくる。
「そうねえ。梅雨入りかしら」
母さんが洗濯物を取り込みながら答える。和也はソファでスマホをいじりながら、友人とメッセージのやり取りをしていた。週末の映画の予定を決めているのだ。
「和也、アイス食べるか?」
「食べるー」
何の変哲もない会話。何の心配事もない時間。ミオと付き合っていた頃は、雨が降るたびに「ミオは大丈夫だろうか」「濡れていないだろうか」と気が気でなかった。だが今は、雨音さえも心地よいBGMだ。
その時、インターホンが鳴った。
ピンポーン。
こんな雨の夜に誰だろうか。父さんが不思議そうな顔をして立ち上がる。
「宅配便か? 何も頼んでないはずだが」
父さんが玄関に向かい、モニターを確認する。そして、その背中が固まった。
「……ミオちゃんか」
その名前に、和也の心臓がドクンと跳ねた。反射的に立ち上がりそうになるが、ぐっと堪えて座り直す。
「どうしたの、あなた?」
母さんがキッチンから顔を出す。
「ミオちゃんが来てる。ずぶ濡れだ」
リビングに緊張が走った。母さんの表情が強張る。
「……どうする? 和也」
父さんが俺に問いかけた。その目は、俺を試しているようでもあり、俺の意志を尊重しようとしているようでもあった。
モニターを覗き込む。画面の向こうには、雨に打たれ、髪を顔に張り付かせたミオが映っていた。震えているのが画面越しでも分かる。かつてなら、俺は迷わず飛び出してドアを開けていただろう。タオルを持って、温かい飲み物を用意して。
でも。
『和也と一緒にいると、自分が惨めな子供に思えてくる』
『重いの!』
『和也には関係ないでしょ!』
あの日、彼女が吐き捨てた言葉が蘇る。彼女は俺を否定した。俺の家族の優しさを、俺の献身を、全て「重い」「ウザい」と切り捨てて、別の男の元へ走ったのだ。
そして今、その男に捨てられたからといって、都合よく戻ってきたのか。
「……開けないで」
俺は静かに、しかしはっきりと言った。
「和也……」
母さんが心配そうに俺を見る。
「ここで開けたら、俺はまた『都合のいい避難所』に戻るだけだ。彼女は自分で選んだんだよ。リョウって男を。俺を捨てて、あっちに行ったんだ。その結果に責任を持つべきだ」
冷たい言葉かもしれない。でも、これは俺が俺自身を守るために、そして家族の平穏を守るために必要な決断だった。
「分かった」
父さんは頷き、インターホンの通話ボタンを押した。
『……はい』
『あ、あの……和也、いる……?』
スピーカーから聞こえるミオの声は、弱々しく、今にも消え入りそうだった。
『和也はいるが、会うつもりはないと言っている』
『え……? で、でも、私、話がしたくて……謝りたくて……』
『ミオちゃん。君が和也に何をしたか、覚えているね? 君は彼を深く傷つけた。我々の好意も踏みにじった。もう、君をこの家に入れることはできない』
父さんの声は厳格だった。大人の、怒りを含んだ拒絶の声。
『そんな……お願い、おじさん……私、行く場所がないの……ママが怖くて……リョウくんにも捨てられて……』
ミオが泣き出した。その泣き声を聞いて、俺の胸が少しだけ痛んだ。彼女の恐怖は本物だろう。彼女の絶望も本物だろう。でも、それは彼女が招いた種だ。
「父さん、貸して」
俺は父さんから受話器を受け取った。
『……和也? 和也でしょ? お願い、ドアを開けて……寒いよぉ……』
「ミオ」
俺は短く彼女の名前を呼んだ。
『和也、ごめんね。私が間違ってた。リョウくんなんて最低だった。やっぱり和也じゃなきゃダメなの。和也が一番優しかった……』
「違うよ、ミオ」
俺は彼女の言葉を遮った。
「お前は俺を選んだんじゃない。リョウに捨てられて、他に選択肢がなくなったから、俺のところに来ただけだろ」
『ち、違う! 本当に和也が好きだったって気づいたの!』
「嘘をつくな。お前があの日言ったこと、全部忘れてないぞ。『重い』『ぬるま湯』『ペットじゃない』。あれが本心だったんだろ? 今さらそんなこと言われても、俺にはもう響かない」
『和也……』
「俺はもう、お前の避難所じゃない。俺には俺の生活があるし、俺の幸せがある。お前の不幸を背負ってやる義理はもうないんだ」
『じゃあ、私どうすればいいの!? このままじゃ死んじゃうよ!』
ミオが叫んだ。悲痛な叫びだった。だが、俺は冷静だった。
「警察に行くなり、児童相談所に電話するなりすればいい。お前を助けてくれる公的な機関はいくらでもある。でも、それは俺じゃない」
俺は通話ボタンを切った。モニターの画面がフッと消える。
「……終わったか」
父さんが静かに言った。
「うん。……ごめん、冷たいことして」
「いいや。お前は立派だったよ。自分の尊厳を守ったんだ」
父さんが俺の肩を叩く。母さんも、目に涙を浮かべながら頷いてくれた。
「辛かったわね、和也。でも、これで本当にお別れね」
「うん。もう、終わったことだ」
俺は深呼吸をした。胸の中のモヤモヤが、完全に晴れたわけではない。後味の悪さは残る。だが、これでよかったのだと自分に言い聞かせた。もしここで情に流されてドアを開けてしまえば、俺は一生、彼女の「都合のいい男」として搾取され続けていただろう。
外では、まだ雨が降り続いている。
ミオがまだそこにいるのか、それともどこかへ行ったのか、俺には確認する術もないし、その気もなかった。
駐輪場の屋根の下、とはいかない。和也の家の門の前で、ミオは膝から崩れ落ちていた。
「うぅ……うあぁぁ……」
声にならない嗚咽が漏れる。雨が容赦なく体に打ち付け、体温を奪っていく。
閉ざされた門。
冷たいインターホン。
そして、二度と開くことのない玄関のドア。
彼女は理解した。
自分が失ったものの大きさを。
「重い」と疎ましく思っていたものが、実は自分を雨風から守ってくれる頑丈な「屋根」だったことを。
その屋根を自らの手で破壊し、今、自分はずぶ濡れになって震えているのだということを。
「リョウくん……助けて……」
無意識に元カレの名前を呼んでしまうが、彼が助けに来ることはない。彼は今頃、新しい女と遊んでいるか、暖かい部屋でゲームでもしているだろう。ミオのことなど、これっぽっちも思い出さずに。
「和也……」
和也の名前を呼んでも、もう彼は出てこない。彼は今、暖かい家の中で、家族と笑い合っている。ミオが永遠に入ることのできない、光に満ちた世界で。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
誰に向けたかも分からない謝罪を繰り返しながら、ミオは雨のアスファルトに拳を叩きつけた。痛みなど感じなかった。心に空いた巨大な穴から吹き抜ける風の冷たさに比べれば、身体の痛みなど些細なものだった。
因果応報。
その言葉の意味を、ミオは骨の髄まで理解させられていた。
自分が他人に与えた痛みは、回り回って、何倍にもなって自分に返ってくるのだ。
雨はさらに激しさを増し、彼女の涙を洗い流していく。だが、彼女の罪悪感と後悔だけは、決して洗い流されることはなかった。
暗い夜空の下、少女の泣き声だけが、誰にも届かずに消えていった。
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