「私の唯一の居場所は貴方だけだった」と泣きついてももう遅い。毒親持ちの彼女を全て受け止めていた僕を「重い」と捨てた結果、彼女は孤独な雨の中で朽ちていく
@flameflame
第一話 崩れた避難所
午前二時。世界が寝静まるこの時間帯に、俺のスマホが不穏な振動を始めた。枕元で短く、しかし執拗に繰り返されるブブブ、というバイブレーション。眠気の残る目をこすりながら画面を確認すると、そこに表示されていたのは「ミオ」の二文字だった。
俺、高坂和也(こうさか かずや)にとって、この深夜の着信は日常の一部になりつつあった。いや、日常にしてはいけない「異常」なのだが、彼女にとってはこれが唯一の救難信号なのだ。
「……もしもし、ミオ? 大丈夫か?」
意識を覚醒させ、できるだけ穏やかな声を出す。電話の向こうからは、押し殺したような嗚咽と、何かガラスのようなものが割れる乾いた音が微かに聞こえてきた。
「かず……や……。ごめん、また、ママが……」
震える声。過呼吸気味の呼吸音。俺はすぐに事態を察した。彼女の母親がまたヒステリーを起こし、暴れているのだろう。相沢ミオの家庭環境は劣悪だ。父親は仕事にかまけて家庭を顧みず、精神的に不安定な母親は、夜な夜な娘に呪詛のような言葉を吐きかけ、時には物が飛び交う。
「わかった。すぐに行く。いつもの公園でいいか?」
「うん……ごめんね、和也。本当に、ごめんね……」
「謝らなくていい。着替えてすぐ出るから、電話はこのまま繋いでおこう」
俺はベッドから這い出し、ジャージの上にパーカーを羽織った。一階のリビングを通り抜ける時、ふとダイニングテーブルに目が留まる。今日の夕飯の残りである煮物がラップをかけられて置かれていた。両親は俺とミオの関係を知っている。「あの子の避難場所になってあげなさい」と、深夜の外出さえも黙認してくれている、温かく寛容な両親だ。
俺の家には、当たり前の「平和」がある。でも、ミオの家にはそれがない。だから俺が、彼女の代わりの平和にならなければならない。そう思っていた。そう信じて疑わなかった。
夜の空気は冷たく、肺に吸い込むと少しだけ鉄の味がした。自転車を走らせること十分。住宅街の外れにある小さな公園のベンチに、小さく丸まった人影があった。
「ミオ!」
自転車を放り出し、駆け寄る。ミオはパジャマの上に薄いカーディガンを羽織っただけの姿で、ガタガタと震えていた。裸足にサンダル履き。家から逃げ出す時に、靴を履く余裕さえなかったことが痛いほど伝わってくる。
「和也……!」
彼女は俺の顔を見るなり、縋りつくように抱き着いてきた。冷え切った体が、俺の体温を求めて強く押し付けられる。俺は黙って彼女の背中を撫で、パーカーを脱いで肩にかけてやった。
「寒かっただろ。もう大丈夫だ。俺がいる」
「うん……うん……。怖かった。ママがね、あんたなんか産まなきゃよかったって……花瓶、投げてきて……」
涙で濡れた顔を俺の胸に埋め、ミオは子供のように泣きじゃくった。俺はその華奢な体を守るように抱きしめ続ける。こうして彼女のすべての負の感情、恐怖、悲しみを受け止めること。それが彼氏である俺の役目だと思っていた。彼女にとっての精神的な支柱、絶対的な安全地帯。それが俺のアイデンティティだったのだ。
しばらくして、ミオの震えが収まってきた頃、俺は自販機で温かいココアを買って手渡した。
「ほら、少し温まるといい。落ち着いたら、うちに来るか? 母さんも気にしてたし」
「……ううん。今日は、大丈夫。もう少ししたら帰る。朝になったらパパが帰ってくるはずだから」
ミオは缶を両手で包み込みながら、弱々しく首を横に振った。そして、ふと視線を落とし、ポケットからスマホを取り出した。
その瞬間、彼女の表情が微かに変化したのを俺は見逃さなかった。
さっきまでの怯えたような、縋るような表情ではない。画面に表示された通知を見た瞬間、頬に微かな朱が差したように見えたのだ。涙で濡れた瞳が、スマホのバックライトに照らされて妙に艶っぽく光る。
「……誰から?」
何気なく尋ねると、ミオはビクリと肩を震わせ、慌てて画面を伏せた。
「え? あ、ううん。ただの迷惑メール。最近多くて困っちゃう」
「そうか。変なサイトとか踏まないように気をつけろよ」
「分かってるよぉ。和也は心配性だなぁ」
彼女はそう言って笑ったが、その笑顔はどこか上の空だった。俺のパーカーを羽織り、俺が買ったココアを飲みながら、彼女の意識はここではないどこかへ向いているような、奇妙な疎外感を覚えた。
その時の俺は、それがただの気のせいだと自分に言い聞かせた。彼女は傷ついている。家庭環境のストレスで不安定になっているだけだ、と。まさか、その通知の相手が、彼女を泥沼へと引きずり込む男のものだとは、想像さえしていなかった。
翌日の放課後。
教室の窓から見える空は高く澄み渡っていたが、俺の心には昨夜の違和感が澱のように溜まっていた。授業が終わり、ホームルームが解散になると同時に、俺はミオのクラスへと向かった。昨夜の今日だ。精神的に参っているかもしれないし、今日は俺の家で夕飯を食べていけばいい。母さんもミオの好きなハンバーグを作ると張り切っていた。
しかし、ミオの教室を覗くと、彼女の席は空だった。
「あれ、相沢ならもう帰ったぜ? なんか他校の奴が迎えに来てたけど」
クラスメイトの男子生徒が、不思議そうに教えてくれた。
「他校の奴?」
「ああ。なんかちょっとガラ悪い感じの、ピアス開けた派手な男。工藤って言ったかな? 有名な不良だよな、あいつ」
心臓が嫌な音を立てた。工藤リョウ。隣町の高校に通う男で、女癖が悪く、喧嘩っ早いことで有名な人物だ。真面目で大人しいミオとは接点などないはずの男。
嫌な予感に背中を押され、俺は校門へと走った。昇降口を抜け、正門を出たところで、見慣れた後ろ姿を見つける。
「ミオ!」
呼び止めると、彼女は驚いたように振り返った。その隣には、気だるげにポケットに手を突っ込んだ、背の高い男が立っていた。金髪混じりの髪、着崩した制服。噂通りの男、工藤リョウだ。
「……和也」
ミオの表情が強張る。リョウは俺を一瞥すると、鼻で笑うように視線を逸らした。
「なんだよ、こいつが噂の『保護者』くん?」
「リョウくん、やめて……」
ミオが小声で窘めるが、リョウは意に介さない。俺は努めて冷静さを保ちながら、ミオに歩み寄った。
「ミオ、今日はうちに来る約束だろ? 母さんがハンバーグ作って待ってる」
「え……あ、その……」
「悪いな優等生くん。ミオちゃんはこれから俺と遊ぶんだよ。ハンバーグとか、ガキじゃあるまいし」
リョウが割り込むように俺とミオの間に立った。挑発的な視線。だが、それ以上にショックだったのは、ミオがその背中に隠れるようにして、俺から目を逸らしたことだった。
「ミオ、どういうことだ? 昨日、あんなに辛そうだったじゃないか。こんな奴と関わっていいことなんてない。こいつの噂は知ってるだろ?」
「あ? なんだとテメェ」
リョウが凄むが、俺は引かなかった。ミオを守らなければならない。その一心だった。しかし、次に聞こえてきたのは、俺の予想を裏切る冷ややかな声だった。
「……帰って、和也」
ミオが顔を上げ、俺を睨んでいた。その瞳に宿っていたのは、昨夜のような依存の色ではなく、明確な拒絶だった。
「え?」
「だから、帰ってって言ってるの。今日はリョウくんと行くから」
「でも、お前の母親がまた……」
「そんなの関係ない! 和也には関係ないでしょ!」
叫び声が響き、周囲の生徒たちが足を止めてこちらを見ている。ミオは肩で息をしながら、堰を切ったように言葉を吐き出した。
「いつもいつも、守ってあげる、助けてあげるって……私、和也のペットじゃないんだよ! そういう『いい人』ぶった顔、もううんざりなの!」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。俺が捧げてきた献身、深夜の奔走、心のケア。そのすべてが「ペット扱い」「うんざり」という言葉で切り捨てられたのだ。
「ミオ、俺はただ、お前の力になりたくて……」
「それが重いの! 和也と一緒にいると、自分が惨めな子供に思えてくる。私が可哀想だから優しくしてるんでしょ? 安全な場所から、哀れな私を見下ろして満足してるだけじゃん!」
違う。そんなつもりは微塵もなかった。ただ彼女に笑ってほしかっただけだ。彼女の居場所を作りたかっただけだ。だが、俺の言葉はもう彼女には届かなかった。
「リョウくんは違うの。私を『可哀想な子』扱いしない。私を一人の女として見てくれる。ドキドキさせてくれる。和也みたいな、ぬるま湯みたいな優しさとは違うの!」
ミオはリョウの腕に強くしがみついた。リョウは勝ち誇ったようなニヤついた笑みを浮かべ、ミオの腰に手を回す。
「聞いたかよ、保護者くん。お前の役目は終わりだってさ。これからは俺が、たっぷり刺激的な毎日を教えてやるからよ」
「行こう、リョウくん」
ミオはもう二度と俺を見ようとしなかった。二人は親密そうに体を寄せ合い、夕焼けに染まる道を歩き去っていく。俺はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
手足が冷たい。昨夜の寒空の下よりも、ずっと芯まで冷えていく感覚。
「重い」か。
「ぬるま湯」か。
俺が築き上げてきた、彼女のための安全な避難所。温かい食事、静かな睡眠、否定されない空間。それらは彼女にとって、退屈で、重苦しい束縛でしかなかったということだ。彼女が求めていたのは、安らぎではなく、リョウのような危険な男がもたらす高揚感だったのだ。
俺のポケットの中で、スマホが震えた。母さんからのメッセージだ。
『和也、ミオちゃんは何時頃に来る? ハンバーグ、もう焼き始めるわね』
画面の文字が滲んで読めない。俺はスマホを握りしめ、溢れそうになる感情を必死に押し殺した。怒りなのか、悲しみなのか、それとも喪失感なのか。自分でも分からない感情が胸の中で渦を巻いている。
ただ一つ確かなことは、俺の家という「避難所」は、たった今、彼女自身の手によって破壊されたということだ。
俺は大きく深呼吸をし、震える指で母さんに返信を打った。
『ごめん。ミオ、今日は来られないって』
送信ボタンを押すと同時に、俺の中で何かがプツリと切れた音がした。それは、彼女に対する未練や愛情といったものが、音を立てて崩れ落ちる音だったのかもしれない。
帰り道、俺は一人で自転車を漕いだ。いつもならミオの愚痴を聞きながら歩く並木道も、今日は酷く静かだった。
家に帰ると、母さんが玄関まで出迎えてくれた。
「あら、和也一人? ミオちゃん、具合でも悪かった?」
「いや……」
俺は靴を脱ぎながら、できるだけ平坦な声を出そうと努力した。ここで泣いたり、取り乱したりして、両親に心配をかけたくない。
「母さん、父さん。話があるんだ」
リビングに入ると、父さんが新聞を置いて眼鏡を外した。母さんもエプロン姿のまま、心配そうに俺の顔を覗き込む。温かいオレンジ色の照明。煮込みハンバーグの甘い香り。ここは、相変わらず平和で、温かい場所だ。ミオが何よりも焦がれ、そして自ら捨て去った場所。
「俺、ミオと別れたよ」
二人の動きが止まる。母さんが息を呑む音が聞こえた。
「えっ……どうして? あんなに仲が良かったのに」
「俺が重かったんだってさ。もっと刺激的な人がいいって、他の男のところに行った」
事実だけを淡々と告げる。口に出してみると、不思議なほど心が凪いでいくのを感じた。ああ、そうか。俺は解放されたんだ。深夜の着信に怯えることも、彼女の顔色を伺って言葉を選ぶことも、彼女の母親のヒステリーに巻き込まれることも、もうしなくていいんだ。
「和也……」
母さんが悲痛な顔で俺に近づき、そっと抱きしめてくれた。父さんは重々しく頷き、俺の肩に太い手を置いた。
「辛かったな、和也。お前はよくやったよ。あの子のために、自分を犠牲にしてまで尽くしていたのを、俺たちは見ていたからな」
「そうよ……。あの子、家庭のことで大変だったのは分かるけど、和也の気持ちを踏みにじるなんて……」
母さんの声が微かに震えている。俺のために怒ってくれているのだ。その温かさが、冷え切った心にじんわりと染み渡る。
「ありがとう、母さん、父さん。でも、もう大丈夫。なんか、すっきりしたから」
これは強がりではなかった。本当に、肩の荷が下りたような感覚だった。俺の献身は報われなかったかもしれない。けれど、俺にはこの温かい家族がいる。帰るべき場所がある。
ミオはそれを選ばなかった。自ら「ここ」ではない「外」を選んだのだ。
「さあ、飯にしよう。腹減ったよ」
俺は努めて明るく振る舞い、食卓に着いた。ミオの分の空席が少しだけ痛々しかったが、俺はそれを見ないふりをして、母さんがよそってくれたハンバーグを口に運んだ。肉汁の旨味とデミグラスソースのコクが口いっぱいに広がる。いつもと変わらない、優しい母の味だ。
その頃、ミオはリョウのバイクの後ろに乗って、夜の街を疾走しているのだろうか。冷たい風を受けながら、彼女が求めた「刺激」とやらを味わっているのだろうか。
だが、俺は知っている。刺激というものは、いつか慣れてしまうものだ。そして、熱狂が冷めた後に残るのは、どうしようもない虚無感と、冷え切った現実だけだということを。彼女の家庭環境が変わったわけではない。彼女が抱える闇が消えたわけではない。ただ、その闇を受け止めていた「避難所」が消滅しただけだ。
窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。窓ガラスを叩く雨粒の音が、これからの彼女の運命を暗示しているようで、俺は静かにカーテンを閉ざした。
ここから先、彼女がどんな道を歩もうと、もう俺には関係のないことだ。俺は、俺の幸せを守る。ただそれだけを心に決め、俺は家族との団欒に戻っていった。
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