第四話 手遅れの教室
文化祭の準備が本格化してから数日が経ったある日の昼休み。
教室は活気に満ち溢れていた。段ボールや絵の具の匂いが立ち込め、あちこちで生徒たちが作業に没頭しながら談笑している。
「佐伯、ここの板の長さこれでいいか?」
「うん、バッチリ。あとで色塗るからそっちに置いといて」
「オッケー! さすが佐伯、手際いいなー」
俺、佐伯和也は、教室の後方でメイド喫茶の内装作業を指揮していた。
もともと手先が器用だったこともあるが、玲奈の世話で培った「先回りして準備する能力」や「全体の空気を読んで指示を出す能力」が、皮肉にもここで遺憾なく発揮されていた。
「佐伯くん、ちょっといい?」
「ん、どうしたミホ?」
「衣装のデザインなんだけど、ここのリボンの色、どっちがいいと思う?」
女子グループのリーダー、ミホが布切れを持って相談に来る。以前なら俺と話すことなどほとんどなかった彼女だが、今ではすっかり打ち解けていた。俺が玲奈の「通訳」ではなく、一人のクラスメイトとして認識された証拠だ。
「うーん、壁紙が暖色系だから、こっちのボルドーの方が映えるんじゃないかな。大人っぽい雰囲気も出るし」
「なるほどね! さすが、分かってるぅ。じゃあこっちにする!」
ミホは笑顔で戻っていく。
クラスの中心にいるという感覚は、俺にとって新鮮で、こそばゆいものだった。誰かに必要とされ、感謝される。それがこんなにも心が満たされることだとは知らなかった。
そんな充実した空間の中で、たった一箇所だけ、時が止まったような場所があった。
窓際の一番後ろの席。
そこには、相川玲奈が一人で座っていた。
彼女の机の上には、コンビニのおにぎりが二つ、無造作に置かれている。
周囲の喧騒がまるで別世界の出来事であるかのように、彼女は俯いて、小さくかじったおにぎりを咀嚼していた。
誰も彼女に話しかけない。
誰も彼女を見ようとしない。
それは「いじめ」という積極的な攻撃ではなく、もっと冷徹な「無関心」という名の排除だった。
彼女が存在していても、していなくても、クラスは回る。
むしろ、いないものとして扱った方がスムーズに回る。
その残酷な事実が、教室という閉鎖空間の中で可視化されていた。
玲奈は時折、顔を上げて周囲を見渡す。
その瞳は、かつての強気な光を完全に失い、怯えた小動物のように揺れていた。
視線の先には、かつての恋人である郷田隼人がいる。彼は他の女子たちと楽しそうにふざけ合っている。玲奈と目が合っても、彼は冷たく無視を決め込んでいた。
そして、玲奈の視線は俺へと向かう。
俺が他の生徒たちに囲まれ、笑っている姿を見て、彼女は唇を噛み締め、また俯く。
その繰り返しだ。
「……佐伯、いいのか?」
隣でペンキを塗っていた松田が、小声で俺に耳打ちした。
「何が?」
「いや、相川のことだよ。あそこまでハブられてると、さすがにちょっと可哀想っていうか……」
「可哀想、か」
俺はペンキの刷毛を止め、チラリと玲奈の方を見た。
確かに、かつてあれほど華やかだった彼女が、独りぼっちで小さくなっている姿は哀れを誘うかもしれない。
「でも、俺が声をかけたところで、何が変わる? 彼女が自分で撒いた種だ。自分で刈り取るしかないだろ」
「ま、そりゃそうだけどよ。お前、本当に吹っ切れたんだな」
「ああ。今は自分のことで精一杯だし、それが楽しいんだ」
俺は嘘偽りなくそう答えた。
冷たいかもしれないが、これが俺の正直な気持ちだった。もう、彼女の感情の責任を負うつもりはない。
その時、玲奈が席を立った。
ふらりとした足取りで、彼女は教室の出口ではなく、俺の方へと歩いてきた。
教室の空気が、少しだけピリつく。
作業の手を止めて、生徒たちが遠巻きに様子を伺う。
ミホたち女子グループは、露骨に嫌そうな顔をして、俺と玲奈の間を遮るように動こうとしたが、俺はそれを手で制した。
玲奈が、俺の目の前に立つ。
かつての威圧感はない。ボサボサの髪、くまのできた目元。制服のリボンも少し曲がっている。
「美少女」という外見的アドバンテージさえ、内面の崩壊と共に霞んで見えた。
「……和也」
消え入りそうな声だった。
「何?」
「……あのさ、ちょっと……話せないかな」
「今、作業中なんだけど」
「お願い。少しだけでいいの。二人きりで……」
玲奈は必死に訴えるように、俺の袖を掴もうとした。
だが、その手は空を切った。俺が一歩下がって避けたからだ。
「……っ」
玲奈の手が、行き場を失って宙を彷徨う。
その仕草に、彼女の絶望が凝縮されていた。これまでは、俺が必ずその手を受け止めていたからだ。
「話ならここで聞くよ。隠すようなことじゃないだろ?」
「で、でも……みんな聞いてるし……」
「聞かれて困るような話なら、最初からしなきゃいい」
突き放すような俺の言葉に、玲奈の目から涙が溢れた。
ポロポロと、大粒の涙が頬を伝い、床に落ちる。
「ごめん……なさい」
絞り出すような謝罪の言葉。
教室中が静まり返り、彼女の声だけが響く。
「私、間違ってた。隼人なんかより、和也の方がずっと良かった。和也がいなくなって、初めて分かったの。私がクラスで上手くやれてたのは、全部和也のおかげだったって」
彼女はしゃくり上げながら、言葉を続けた。
「私、バカだった。格がどうとか、そんなのどうでも良かったの。和也は優しくて、いつも私を見ててくれて……一番大切な人だったのに」
それは、恐らく彼女の本心からの言葉なのだろう。
孤立し、裏切られ、どん底に落ちて初めて見えた景色。
失って初めて気づく大切さ。
ありふれた、あまりにも遅すぎる後悔。
「だから……お願い、和也。もう一度やり直したい。私、今度は和也のこと大事にするから。毒舌も直すし、わがままも言わない。だから……また、私の隣にいて」
玲奈は泣き崩れるようにして、俺に縋り付こうとした。
クラスメイトたちの視線が俺に集中する。
中には、「許してやれば?」という同情的な目を向ける者もいるかもしれない。幼馴染の絆、かつての恋人。泣いて謝る美少女。
復縁のシナリオとしては、悪くない舞台装置だ。
だが。
俺の心は、驚くほど冷え切っていた。
目の前で泣いている彼女を見ても、「可哀想だ」という感情よりも、「なぜ今さら?」という呆れの方が勝っていた。
俺はゆっくりとしゃがみ込み、玲奈と目線の高さを合わせた。
優しく語りかけるように、しかし決定的な拒絶の言葉を紡ぐために。
「玲奈」
「……和也?」
玲奈が期待を込めて顔を上げる。
「謝ってくれてありがとう。お前が自分の過ちに気づけたことは、良かったと思うよ」
「じゃ、じゃあ……!」
玲奈の表情がぱっと明るくなる。
だが、俺は残酷な続きを告げた。
「でも、無理だ」
「……え?」
「俺たちはもう終わったんだ。お前が俺を捨てた時に、俺の中で何かが完全に壊れたんだよ。もう、お前を見ても何も感じない。好きとか嫌いとか以前に、ただの『昔の知り合い』なんだ」
玲奈の顔が凍りつく。
「そ、そんな……。だって、ずっと一緒だったじゃない。幼馴染で、あんなに尽くしてくれて……。それが、そんな簡単に消えるわけないでしょ?」
「簡単じゃなかったよ。お前のために無理して、我慢して、自分を押し殺して。それでもお前が好きだったから耐えてた。でも、お前はその想いを『格が下がる』って踏みにじったんだ。……あれで、俺の糸は切れたんだよ」
俺は立ち上がった。
見下ろす形になった玲奈は、とても小さく見えた。
「それにさ」
俺は少しだけ声を明るくした。
「俺、これからデートなんだよね」
「……は?」
玲奈だけでなく、周囲の松田やミホたちも驚いた顔をする。
「デートって……誰と?」
「隣のクラスの女子。文化祭の実行委員会で仲良くなってさ。今度、映画見に行こうって誘われたんだ」
これは嘘ではない。
俺がフリーになったと知った他クラスの女子から、昨日LINEで誘いを受けたのだ。まだ付き合ってはいないが、好意を持ってくれているのは確かだった。
俺はもう、過去に囚われていない。新しい未来へと歩き出している。
「嘘……でしょ……?」
玲奈は信じられないという顔で首を振った。
彼女の中では、俺はずっと彼女のことを想い続け、彼女が戻ってくれば喜んで受け入れる都合の良い存在だったのだろう。
その幻想が、粉々に砕け散った瞬間だった。
「だから、お前の相手はできない。俺はもう、お前の緩衝材じゃないし、お前の人生の脇役でもない。俺は俺の人生の主人公として生きていくから」
俺はきっぱりと言い切った。
胸の奥にあった最後の澱が、すっと消えていくのを感じた。
「じゃあな、玲奈。元気で」
俺は背を向け、松田たちの元へと戻った。
もう、振り返ることはない。
玲奈はその場に崩れ落ちたまま、動けなかった。
嗚咽が漏れる。だが、誰も彼女に駆け寄る者はいなかった。
かつて彼女が切り捨てた周囲の優しさは、もう彼女には向けられない。
「……行くぞ、佐伯」
「おう」
松田が俺の背中を押し、作業を再開させる。
教室の空気は、再び日常へと戻っていく。
玲奈の泣き声だけが、異質なノイズとして残されていたが、やがてそれも喧騒にかき消されていった。
その日の放課後。
俺は待ち合わせ場所である校門へと向かった。
秋晴れの空は高く、澄み渡っている。
「佐伯くん!」
校門の脇で待っていたのは、ショートカットの似合う活発そうな女子、木村さんだった。彼女は俺を見つけると、屈託のない笑顔で手を振ってくれた。
「お待たせ。待った?」
「ううん、全然! 今来たところ。……ふふ、なんか緊張するね」
「そうだな。でも、楽しみだよ」
俺たちは並んで歩き出した。
玲奈の時のような、常に顔色を伺い、言葉を選ぶ緊張感はない。
ただ自然体で、ありのままの自分でいられる心地よさ。
ふと、校舎の窓を見上げた。
教室の窓辺に、人影が見えた気がした。
長い髪の女子が、こちらをじっと見下ろしている。
玲奈だろうか。
彼女は今、どんな顔で俺を見ているのだろう。
後悔? 嫉妬? 絶望?
どんな感情を抱いていようと、それはもう俺には届かない。
彼女は、俺という「唯一の理解者」を失い、冷たい教室という檻の中に一人取り残された。
かつて自分が作り出した「格」という名の牢獄に、自ら閉じ込められたのだ。
そこから抜け出せるかどうかは、彼女次第だ。もしかしたら、この痛みを糧に成長し、まともな人間になれるかもしれない。あるいは、プライドを守るためにさらに孤立を深めるかもしれない。
だが、それはもう俺の物語ではない。
「佐伯くん、あそこのカフェ寄ってかない? 新作のドリンク出たんだって」
「いいね、行こうか。俺、甘いもの好きなんだ」
「あ、知ってる! 意外と甘党なんだよね」
木村さんの明るい声が、俺の意識を現在へと引き戻す。
俺は隣を歩く彼女を見て、自然と微笑んだ。
「うん。……これから、よろしくな」
その言葉は、木村さんへの挨拶であり、同時に、新しく生まれ変わった自分自身へのエールでもあった。
駅へと続く道は、夕陽に照らされて黄金色に輝いている。
俺の足取りは軽く、未来への希望に満ちていた。
もう、誰も俺の格を下げることはできない。
俺は俺の足で、自分の価値を証明していくのだから。
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