第三話 カースト転落

季節は秋へと移ろい、校庭の木々が色づき始めていた。

高校生活における最大のイベント、文化祭の準備期間が始まろうとしていた。


教室の空気は、これまでになく奇妙な均衡の上に成り立っていた。

俺、佐伯和也が相川玲奈の「翻訳係」を降りてから一週間。クラス内の力関係は、目に見えない水面下で激しく渦巻いていた。


玲奈は依然として、クラスのカーストトップである郷田隼人の隣に居座っていた。しかし、その地位は以前のような盤石なものではなくなっていた。

彼女が発する無神経な言葉の数々は、俺というフィルターを通さずに周囲へ撒き散らされ、着実にヘイトを溜め込んでいたからだ。


「ねえ隼人、今日の放課後、駅前の新しいカフェ行かない? 限定のパンケーキ食べたい」

「あー、わり。今日は部活の連中と約束あんだわ」

「えー、また? 昨日もそうだったじゃん。私と部活、どっちが大事なの?」

「うっせーな。付き合いあんだよ、俺にも」


隼人の態度は、日に日に冷淡になっていた。

最初の頃に見せていた猫なで声や、玲奈を甘やかすような仕草はもうない。彼は明らかに玲奈を持て余し始めていた。玲奈の容姿には惹かれていたものの、その性格の悪さと、周囲からの評判の低下を天秤にかけ、損切りするタイミングを計っているようにも見えた。


だが、玲奈はそのことに気づかない。いや、認めたくないのだろう。

彼女は必死に隼人の腕に絡みつき、周囲の女子たちに向けて「私は特別なの」というアピールを繰り返していた。その姿は、見ていて痛々しいほどだった。


「佐伯、あいつらまた揉めてるぜ」


前の席の松田が、呆れたように肩をすくめて話しかけてきた。


「まあ、放っておけよ。俺たちには関係ない話だ」

「冷てえなー。ま、それが正解だけど。……てか、今日のホームルーム、文化祭の出し物決めだろ? 絶対荒れる予感しかしないんだけど」

「……ああ、そうだな」


俺は黒板に書かれた「文化祭実行委員会」の文字を見つめた。

これまでは、行事ごとの話し合いでも俺が玲奈をコントロールし、クラスの意見をまとめてきた。だが今回、俺はただの傍観者だ。

火種はそこら中に転がっている。そして、ガソリンを撒くのは間違いなく玲奈だ。


予鈴が鳴り、担任が入ってくる。

運命のホームルームが始まった。


***


「えー、それでは文化祭の出し物について話し合いたいと思います。実行委員の長谷川さん、進行頼むぞ」


担任の言葉を受け、真面目そうな眼鏡をかけた女子生徒、長谷川さんが教壇に立った。彼女は少し緊張した面持ちで、チョークを握りしめた。


「事前にアンケートをとった結果、多かったのは『お化け屋敷』と『メイド喫茶』でした。今日はこの二つから絞りたいと思います」


クラスがざわめく。男子たちは「メイド喫茶一択だろ!」と盛り上がり、女子たちは「衣装作るの大変そう」「お化け屋敷の方が楽じゃない?」と現実的な意見を交わしている。


そこまでは、よくある平和な光景だった。

だが、その平穏を切り裂く声が、教室の後方から響いた。


「はあ? メイド喫茶? 正気?」


玲奈だ。

彼女は椅子に浅く腰掛け、足を組みながら嘲笑を浮かべていた。その声は決して小さくなく、盛り上がっていたクラスの空気を一瞬で凍りつかせた。


長谷川さんが困ったように眉をひそめる。


「えっと、相川さん。何か意見があるなら……」

「意見っていうかさ、単純な疑問なんだけど。このクラスの女子の顔面偏差値でメイド服とか着て、誰が得するの? 罰ゲームじゃん」


教室内が、シーンと静まり返った。

あまりにも直球すぎる暴言。男子たちはバツが悪そうに視線を逸らし、女子たちの表情が一斉に強張る。


以前の俺なら、即座に立ち上がっていただろう。


『あー、玲奈が言いたいのは、メイド喫茶やるなら中途半端なクオリティじゃなくて、プロ意識を持って徹底的に可愛くやらないと意味がないってことだよな? お客さんを楽しませるには、俺たち裏方の男子も照明とか内装で全力で女子をサポートして、最高のステージを作ろうぜって激励だろ?』


そんな苦しい翻訳をして、場を盛り上げ、女子たちのプライドを守りつつ、玲奈の発言を「高い意識の表れ」にすり替えていたはずだ。


だが、今の俺は動かない。

ただ黙って、手元のノートに落書きを続けていた。


「……相川さん、それは言い過ぎじゃないかな」


勇気を出して反論したのは、女子グループのリーダー格の一人、ミホだった。彼女はおしゃれに気を使っていて、クラス内でも発言力がある。


「みんな真剣に考えてるんだよ。協力する気がないなら黙っててくれる?」

「はあ? 私はクラスのためを思って言ってあげてるんですけど。客観的に見て、あんたたちがフリフリの服着て『お帰りなさいませ』とか言っても、客が引くだけでしょ? むしろホラーじゃん」


玲奈は悪びれることなく、さらに言葉を重ねた。

クスクスと、彼女一人が笑っている。隣にいる隼人に、「ねえ、そう思わない? 隼人も変なもの見せられたくないでしょ?」と同意を求めている。


隼人は頬杖をつき、不機嫌そうに窓の外を見ていた。

彼は何も答えない。それを玲奈は「肯定」だと受け取ったようだ。


「だからさ、お化け屋敷にして、女子は全員お化け役やればいいのよ。メイクしなくてもそのままで十分怖いし」


プツン。

何かが切れる音が、教室のあちこちから聞こえた気がした。


ダンッ!

ミホが机を叩いて立ち上がった。


「いい加減にしてよ! あんた、最近調子乗りすぎ!」

「そうだよ! 隼人くんと付き合ってるからって、何言っても許されると思ってんの?」

「いっつも上から目線で、性格悪すぎなんだよ!」


堰を切ったように、女子たちからの非難が殺到した。

これまでの鬱憤が一気に爆発した形だ。ミホだけでなく、大人しい長谷川さんや、他の女子たちも睨みつけている。男子たちも、さすがに玲奈を擁護する者は一人もいない。


玲奈は一瞬、驚いたように目を丸くした。

これまでは、どんなにきついことを言っても、最終的には和也が丸く収め、周囲も「まあ、相川さんだから」と苦笑いで許してくれていた。自分が「攻撃される側」に回る経験が、彼女には圧倒的に不足していたのだ。


「な、なによあんたたち。集団でヒステリー? 怖いわね」

「ヒステリーはお前だろ!」

「鏡見てから言えよ!」


罵声が飛び交う。担任の教師が慌てて「静粛に! やめなさい!」と声を上げるが、興奮した空気は収まらない。


玲奈の顔が少し引きつった。

彼女は助けを求めるように、周囲を見回した。

そして、その視線が俺のところで止まった。


(和也……!)


声には出していなかったが、その目は明らかに訴えていた。

『なんとかしなさいよ』

『いつものように、上手いこと言ってこの場を収めなさいよ』


俺はペンを置き、ゆっくりと顔を上げた。

そして、玲奈と目を合わせ──無表情のまま、ふいと視線を逸らした。

松田の方を向き、「次の授業、体育だよな」とどうでもいい話しかける。


玲奈の顔に、愕然とした色が浮かぶのが分かった。

翻訳機はもう動かない。緩衝材はもう存在しない。


孤立無援となった玲奈は、最後の砦である隼人に縋り付いた。


「ね、ねえ隼人! なんとか言ってやってよ! こいつら、私のこと虐めてくるんだけど!」


玲奈は隼人の腕を掴み、涙目で作った表情で訴えた。

クラスのカーストトップである隼人が一喝すれば、この場の空気は変わる。彼女はそう信じて疑わなかった。自分が「選ばれた女」であるというプライドが、そこにはあった。


教室中の視線が隼人に集まる。

隼人はゆっくりと、玲奈に掴まれた自分の腕を見た。

そして、鬱陶しそうにその手を振り払った。


「……触んなよ」


低く、冷たい声だった。

玲奈が硬直する。


「え……?」

「お前さ、空気読めなさすぎなんだよ。俺の顔に泥塗るのもいい加減にしろ」


隼人は立ち上がり、冷ややかな視線で玲奈を見下ろした。

そこには、恋人に向ける温かさは微塵もない。あるのは、汚いものを見るような侮蔑と、面倒ごとは御免だという保身の色だけだった。


「は、隼人……? 何言ってるの? 私は、隼人の彼女として相応しいように、レベルの低い提案を却下しようと……」

「だから、その勘違いが痛いっつってんだよ」


隼人の言葉が、教室に響き渡る。

彼は呆れたように溜息をつき、残酷な真実を口にした。


「俺さ、お前の顔はいいと思ってたけど、中身がここまで終わってるとは思わなかったわ」

「そ、そんな……。でも、前は私の毒舌も『面白い』って言ってくれたじゃない!」

「ああ、それはあれだろ」


隼人は顎で、教室の隅にいる俺を指した。


「そこの佐伯が、お前のクソみたいな性格を上手く翻訳して、可愛く見せてたからだろ? 俺はそれに騙されてただけだわ」


ざわり、と教室がどよめいた。

クラス全員が薄々感じていたことを、隼人が決定的な言葉として突きつけたのだ。


「佐伯がいなくなってからのお前、マジでただの性格悪い女だぞ。一緒にいて疲れるし、周りから『あんなのと付き合ってる郷田も同類』とか思われるのが一番迷惑なんだよ」


「……っ!」


玲奈の顔から、サーッと血の気が引いていく。

彼女が最も恐れていたこと。それは「自分の価値が否定されること」だ。

「格が下がる」と言って俺を捨てた彼女が、今、自分が選んだ「格上の男」から、「お前といると格が下がる」と言い渡されたのだ。


「もういいわ。別れよ」

「ま、待って! 嘘でしょ!? 謝るから! 私、これからは気をつけるから!」


玲奈は椅子を蹴倒して立ち上がり、去ろうとする隼人の背中に縋り付こうとした。

だが、隼人の取り巻きの男子が立ちはだかり、それを阻んだ。


「おいおい相川、見苦しいぞ」

「隼人はもう無理だってよ」


冷笑を浮かべる男子たち。

そして、周囲を取り囲む女子たちの冷たい目。

「ざまあみろ」「自業自得だよね」という囁きが、四方八方から突き刺さる。


玲奈はその場に立ち尽くした。

美しい顔が、恐怖と屈辱で歪んでいく。

自分がクラスの中心にいたのは、自分のカリスマ性によるものではなかった。

隼人が自分を選んだのは、中身を愛していたからではなかった。


全ては、彼女が「地味で格下」と見下して切り捨てた、俺という存在があったからこそ成り立っていた虚構だったのだ。


「う……うそ、なんで……」


玲奈の声が震える。

彼女はもう一度、俺の方を見た。

今度は命令でも、甘えでもない。本気の、絶望的な救難信号だった。


(助けて、和也。お願い、嘘だと言って。私の味方をして)


その目は涙で濡れ、懇願していた。

昔の俺なら、きっと走って駆け寄り、彼女を庇っていただろう。「隼人、言い過ぎだろ」と男たちに食ってかかり、彼女の手を引いて教室を出ていたかもしれない。


だが。


俺は静かに彼女を見つめ返し──そして、ゆっくりと首を横に振った。


『無理だ』


言葉には出さなかったが、その意思は伝わったはずだ。

俺はもう、お前の味方じゃない。お前が自分で招いた結果だ。

俺は視線を外し、隣の松田に話しかけた。


「……で、メイド喫茶の件だけどさ、俺は賛成だよ。裏方で力仕事でも何でもやるし」

「お、おう! 佐伯が手伝ってくれるなら百人力だな!」


俺の声を聞いて、凍りついていた空気が少し動き出した。

ミホが鼻を鳴らし、髪をかき上げる。


「そうね。佐伯くんもああ言ってるし、変な野次は無視して進めましょうか」

「賛成ー!」

「じゃあ衣装係決めるね!」


クラスの話題は、再び文化祭へと戻っていく。

まるで、相川玲奈など最初からいなかったかのように。


玲奈は教室の中央で、完全に孤立していた。

誰も彼女を見ない。誰も彼女に話しかけない。

彼女の周りだけ、ぽっかりと穴が空いたような真空地帯ができている。


彼女は震える手で自分の鞄を掴むと、逃げるように教室を飛び出していった。

その背中は、かつての女王の威厳など見る影もなく、ただの惨めな敗北者のそれだった。


俺はその様子を視界の端で捉えながら、不思議なほど冷静だった。

胸が痛むこともない。勝利の快感に酔うこともない。

ただ、因果応報という言葉の意味を、淡々と噛み締めていた。


「……さて、やるか」


俺はノートに、メイド喫茶の内装案を書き始めた。

これからは、誰かの顔色を伺って言葉を選ぶ必要はない。

自分のアイデアで、自分たちのクラスを盛り上げる。

その当たり前の楽しみが、今の俺には何よりも輝いて見えた。


教室の外から、すすり泣くような声が聞こえた気がしたが、秋の風がすぐにそれを搔き消した。

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