第二話 崩れ始める虚像

翌日の朝、教室のドアを開けた瞬間、空気が変わるのを感じた。


普段通りのざわめきが一瞬だけ凪ぎ、数十対の視線が俺に突き刺さる。それは好奇心、憐れみ、そして少しの警戒が入り混じった複雑なものだった。高校生の情報網というのは恐ろしい。昨日の夕方、特別教室で起きた出来事は、すでにクラスの公然の秘密となっているらしい。


俺は努めて平静を装い、自分の席へと向かった。


視界の端に、窓際の一角が見える。そこには、いつものように相川玲奈が座っていた。だが、いつもと違うのは、その隣の机に腰掛け、大仰な態度で談笑している郷田隼人の姿があることだ。


「でさー、マジうざくて。あ、おはよ隼人くん」

「おう玲奈。今日も可愛いな」


二人は周囲の視線など意に介さず、朝から自分たちの世界に浸っている。玲奈はチラリとこちらを見たが、すぐにフンと鼻を鳴らして視線を外した。「負け犬が来たわ」とでも言いたげな態度だ。


胸の奥がチクリと痛むかと思った。けれど、意外なことに俺の心は凪いでいた。


(ああ、挨拶しなくていいんだ)


それが最初に浮かんだ感想だった。

毎朝、彼女の機嫌を伺い、「おはよう」のトーンで今日の調子を判断し、機嫌が悪ければ購買で甘いものを調達してご機嫌取りをする。そんなルーティンから解放されたのだという実感が、じわじわと湧いてくる。


俺は誰にも声をかけず、静かに席に着いて教科書を開いた。

クラスメイトたちは、俺と玲奈の接触がないことを見て取ると、再びそれぞれの会話へと戻っていった。だが、その空気にはどこか緊張感が漂っている。


「……よう、佐伯」


声をかけてきたのは、前の席に座っている男子、松田だった。バスケ部に所属していて、それなりにカースト上位のグループとも付き合いがある男だ。


「おはよう、松田」

「その……なんていうか、ドンマイ」


松田は気まずそうに頭を掻きながら、小声で囁いた。


「郷田と相川のことだろ? まあ、俺はもう関係ないから」

「そっか。まあ、お前がそう言うならいいけどさ。正直、すげえ意外だったわ。相川、お前のことだけは特別だと思ってたから」

「俺もそう思ってたよ。昨日の夕方まではな」


自虐的に笑ってみせると、松田は少しだけホッとしたような顔をした。

俺がひどく落ち込んでいたり、怒り狂っていたりしたらどうしようかと心配していたのだろう。こういう気遣いはありがたい。


「まあ、元気出せよ。今日の昼、飯一緒にどう? ほら、いつも相川の世話で忙しそうだったから誘えなかったけどさ」

「え、いいのか?」

「おう。他の連中も佐伯と話したがってたし」


思わぬ誘いに、俺は少し驚いた。玲奈と一緒にいた頃は、俺はあくまで「玲奈の付属品」であり、男子グループの輪に入ることは少なかったからだ。


「ありがとう。ぜひ行くよ」


俺が頷くと、松田はニッと笑って前を向いた。

背後からは、まだ玲奈の甲高い笑い声が聞こえてくる。だが、それはもう俺に向けられたものではない。俺は深く息を吐き出し、一限目の授業の予習に集中することにした。


***


昼休み。その「変化」は、誰の目にも明らかな形で現れ始めた。


玲奈は当然のように隼人のグループに合流し、机を囲んで弁当を広げていた。クラスのカーストトップが集まるその場所は、教室の中で最も華やかで、同時に最も近寄りがたい聖域だ。

俺は松田たち数人の男子と、少し離れた席で机をくっつけていた。


「いただきまーす」


俺たちがパンや弁当を食べ始めたのと同時に、教室の中央から大きな声が響いた。


「はあ? 何それ、マジで言ってんの?」


玲奈の声だ。反射的に体が強張る。長年の習慣で、「フォローしに行かなければ」という思考が脳裏をよぎる。だが、俺はすぐに思い直して箸を動かし続けた。もう、俺の仕事じゃない。


聞き耳を立てるつもりはなかったが、玲奈の声は通りやすく、教室中に響き渡っていた。どうやら、隼人のグループにいる女子、ミキの話に噛みついているようだ。


「だーかーら、そのアイドル推すとか正気? ダンスも下手だし顔も整形っぽくない? 私なら絶対無理ー。ファンとか信者じゃん、キモッ」


一瞬、教室の空気が止まった。


ミキはそのアイドルの熱狂的なファンで、ライブのために遠征するほどだというのはクラスでも有名な話だ。当然、隼人のグループ内でもそれは周知の事実として受け入れられていたはずだ。それを、新入りの玲奈が真正面から、しかも「キモい」という最悪の言葉で否定したのだ。


普段なら、ここで俺が割って入っていた。


『あー、玲奈が言いたいのはさ、そのアイドルが整形を疑われるくらい整った顔立ちしてるってことだよな? それにダンスも独特な世界観があって、一度ハマると抜け出せない魅力があるって意味だろ? 言葉が足りなさすぎるんだよ、お前は』


そうやって無理やりポジティブな意味に変換し、笑いに変えていた。ミキも「もー、相川さん口悪いんだから! 佐伯くんが通訳してくれなかったら喧嘩になってるよ?」と苦笑いで許してくれていただろう。


だが、今の玲奈の隣に俺はいない。

そこにあるのは、剥き出しの悪意と、無神経な言葉だけだ。


「…………」


沈黙。

重苦しい、鉛のような沈黙が隼人のグループを包み込む。

ミキは顔を真っ赤にして俯き、箸を持つ手が震えている。隣にいる女子たちも、信じられないものを見るような目で玲奈を凝視している。


しかし、玲奈はその空気に気づいていない。


「ねえ隼人、この卵焼き食べてみてよ。自信作なんだから」


彼女は自分が論破して勝利したとでも思っているのか、あるいはミキのことなど既に興味がないのか、甘えた声で隼人に話しかけた。


隼人は一瞬、引きつったような表情を浮かべた。さすがに彼も、この空気の悪さは察知したらしい。しかし、まだ付き合い立ての彼女を公衆の面前で叱るわけにもいかないのか、曖昧に笑って誤魔化した。


「お、おう……。うめぇな」

「でしょ? 私、料理もできるんだから」


玲奈は得意げに胸を張る。

だが、その周囲の温度は氷点下まで下がっていた。ミキの友人が、冷ややかな声で呟く。


「……ミキ、購買行こうか。なんかここ、空気悪いし」

「う、うん……」


ミキと数人の女子が、逃げるように席を立った。

残されたのは、隼人とその男友達、そして玲奈だけだ。隼人の男友達も、バツが悪そうにスマホをいじり始めている。


「あれ、ミキたちどこ行くんだろ? せっかく私が話に入ってあげたのに」


玲奈は不思議そうに首を傾げた。その無自覚な傲慢さに、俺は背筋が寒くなるのを感じた。彼女は本気で、「自分がグループに入ってあげたことで、格が上がった」と思っているのだ。周囲が気を使ってくれていたこと、俺が必死に緩衝材になっていたことなど、微塵も理解していない。


「うわぁ……」


俺の隣で、松田が小声で呻いた。


「あれはキツいな。佐伯、お前よく今まであれを制御できてたな。猛獣使いかよ」

「猛獣使いっていうか……必死だっただけだよ。彼女が孤立しないようにって」

「愛だねえ。まあ、その愛も踏みにじられたわけだけど」

「茶化すなよ」


俺は苦笑したが、不思議と傷ついてはいなかった。

むしろ、客観的にあの状況を見ることで、自分がこれまでどれだけ異常な努力を強いられていたかを再確認させられた。


「でもさ、佐伯がいなくなって分かったよ」


向かいに座っていた別の男子、田中が言った。彼は大人しい性格で、普段あまり目立たないタイプだ。


「相川さんって、やっぱり性格キツいんだな。佐伯くんがいつも『いやいや、こういう意味だから』ってフォローしてたから、俺たちも『まあ、根は悪い子じゃないのかな』って思おうとしてたけど」

「そうそう。佐伯フィルターが外れると、ただの性格悪い美人だよな」


田中と松田の言葉に、俺は目から鱗が落ちる思いだった。

俺のフォローは、無駄じゃなかったのだ。ちゃんと周囲は、俺の行動を見てくれていた。そして、俺がいなくなったことで、玲奈の本質が露呈し始めていることも理解している。


「……みんな、分かってて黙っててくれたんだな。ありがとな」

「いやいや、俺らは佐伯が不憫だっただけだって。でもまあ、これでやっと肩の荷が下りたんじゃね?」


松田が俺の肩をバンと叩く。その力強さが、妙に嬉しかった。


「そうだな。これからは自分のために時間を使うよ」

「おう、そうしろそうしろ。とりあえず放課後、カラオケ行かね? 佐伯、歌上手いって噂だし」

「え、どこ情報だよそれ」

「文化祭の準備ん時、鼻歌歌ってたの聞いた女子情報」


俺たちは笑い合った。

こんな風に、何の気兼ねもなく友人と笑い合って昼食をとるなんて、高校に入ってから初めてかもしれない。これまではいつ玲奈が癇癪を起こすか、失言をするかと気が気じゃなかったから。


俺たちの笑い声が聞こえたのか、玲奈がこちらを睨みつけてくるのが見えた。


「何よあいつら、うるさいわね。……和也のくせに、楽しそうにしちゃって」


小さな声だったが、口の動きでなんとなく分かった。彼女は不満げに箸で弁当をつついている。

恐らく彼女のシナリオでは、捨てられた俺は惨めに一人で食事をし、彼女と隼人の煌びやかな姿を指をくわえて見ているはずだったのだろう。だが現実は、俺は解放感を満喫し、彼女の周囲には不穏な空気が漂い始めている。


その認知のズレは、時間の経過と共にさらに大きくなっていった。


午後の授業でのことだ。

英語の授業中、教師がペアを作って英会話の練習をするように指示を出した。

俺は迷わず、隣の席になった松田とペアを組んだ。


一方、玲奈は当然隼人と組もうとしたのだが、隼人はすでに前の席の男子とペアを組んでいた。席の配置上、仕方のないことではある。

玲奈は少しむっとした顔をしたが、仕方なく余っていた女子に声をかけた。


相手は、地味で大人しい、図書委員の佐々木さんだった。


「ねえ、ペア組んであげる。よかったわね、私と組めて」


玲奈の上から目線の言葉に、佐々木さんはビクリと肩を震わせた。

嫌悪感と恐怖が入り混じったような表情。だが、玲奈はそれに気づかず、教科書を広げる。


「発音チェックしてあげるから、先に読んでみてよ」


親切のつもりなのかもしれないが、その言い方は完全に「指導」だ。佐々木さんは蚊の鳴くような声で英文を読み始めた。


「声ちっさ。全然聞こえないんだけど。もっと自信持ちなよ、だから暗いって言われるのよ」


容赦ないダメ出し。佐々木さんの顔が泣きそうに歪む。

教室のあちこちから、非難めいた視線が玲奈に集中する。


以前なら、俺は自分のペア練習を中断してでも助け舟を出していただろう。「佐々木さん、声質が綺麗だから、もう少しボリューム上げたらすごく良くなるよ」とか、「玲奈、耳遠いんじゃないのか?」と茶化して、毒を薄めていたはずだ。


だが、俺は動かない。

松田と、「この構文、難しくね?」と話し続ける。


「……っ、私、体調悪いので保健室行きます」


耐えきれなくなった佐々木さんが、涙目で立ち上がり、教室を飛び出していった。

授業が中断し、教師が驚いて後を追うか迷っている。


「はあ? 何あの子、せっかく教えてあげてたのに。失礼しちゃう」


玲奈は心底呆れたように肩をすくめ、隼人の方を振り返った。


「ねえ隼人、あの子すごくない? メンタル弱すぎでしょ」


同意を求める玲奈。しかし、隼人は渋い顔をしていた。

彼もまた、クラスの空気を読むことには長けている。今の状況で玲奈に同調すれば、自分の株まで下がることを本能的に悟ったのだろう。


「……まあ、言い方ちょっとキツかったんじゃねえの」

「えっ?」


隼人の口から出た、初めての否定の言葉。玲奈は目を丸くした。


「何言ってるの? 私はあの子のためを思って……」

「いや、だからさ。泣かすことねーだろって話。空気読めよ」


隼人は小声で吐き捨てると、プイと顔を背けた。

玲奈は口を開けたまま、言葉を失っている。


彼女にとって、世界は「自分」と「それ以外」で構成されていた。自分が正しいことを言えば、周囲は賞賛し、感謝するものだと信じていた。なぜなら、これまでは俺がそのように世界を歪曲して伝えていたからだ。


『玲奈の的確なアドバイスに、佐々木さんもやる気出したみたいだな』

『玲奈の正直な意見、みんな参考にしてるよ』


そんな俺の嘘(通訳)が剥がれ落ちた今、彼女は初めて、生身の世界と対峙している。

そこにあるのは、賞賛ではなく拒絶。感謝ではなく軽蔑だ。


「な、なによ……みんなして」


玲奈は周囲を見回した。

クラスメイトたちの目は冷たい。

「性格悪すぎ」「何様なの」「隼人くんも災難だね」

そんなひそひそ話が、かすかに聞こえてくる。


玲奈の視線が、教室の隅にいる俺とぶつかった。

俺は静かに彼女を見つめ返した。助けを求めるような、あるいは「なんとかしなさいよ」と命令するような色が、彼女の瞳に一瞬浮かんだ気がした。


だが、俺はすぐに視線を外し、松田との会話に戻った。


「Sorry, could you say that again?(悪い、もう一度言ってくれる?)」

「Sure.(いいよ)」


俺はもう、彼女の翻訳機ではない。

彼女の放った言葉は、そのままの意味で、そのままの鋭さで、彼女自身の世界を切り刻んでいく。


その日の放課後。

俺は松田たちと約束通りカラオケに向かった。

笑い、歌い、くだらない話で盛り上がる。喉が枯れるほど歌った後、俺はふと思った。


(こんなに喉を使ったのは久しぶりだな)


これまでは、玲奈のフォローのために声を張り上げ、弁明のために言葉を尽くしていた。

けれど今は、純粋に楽しむために声を使っている。


「佐伯、次お前の番!」

「おう、入れるわ!」


マイクを握りしめながら、俺は確信した。

俺の人生は、ようやく俺のものになったのだと。


一方で、俺の知らないところでは、亀裂はさらに深まっていたらしい。

後で聞いた話だが、放課後、玲奈は隼人に一緒に帰ろうと誘ったが、「今日は部活のミーティングがあるから」と素っ気なく断られたそうだ。

実際にはミーティングなどなく、隼人は他の友人とゲーセンに行っていたらしいが。


玲奈の築き上げてきた虚像の城は、俺という土台を失い、音を立てて崩れ始めていた。

だが、本当の崩壊はまだ始まってもいない。

彼女がそれに気づくのは、自分一人では何も支えられないことを、残酷なまでに思い知らされた時だろう。


そしてその瞬間は、目前に迫っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る