「あんたは私の格を下げる」と一軍男子と浮気した毒舌幼馴染。彼女がクラスに馴染めていたのは俺の『超・翻訳スキル』のおかげだと気付く頃には、もう手遅れだった。

@flameflame

第一話 緩衝材の消失

教室の空気が、ピキリと音を立てて凍りついたのが分かった。


放課後のホームルームが終わった直後の、本来ならば最も弛緩した空気が流れるはずの時間帯。その和やかな喧騒を一瞬にして真空状態に変えたのは、間違いなく俺の隣に座っている幼馴染、相川玲奈(あいかわ れいな)の一言だった。


「え、そのバッグ、本気で可愛いと思ってるの? なんかおばあちゃんのタンスから出てきたみたいでカビ臭そう」


玲奈の視線の先には、クラスメイトの女子、佐藤さんが新しい通学バッグを友人たちに見せて盛り上がっている姿があった。佐藤さんの顔から笑顔が消え、引きつったような表情が張り付く。周囲にいた女子たちの視線も、一斉に険しいものへと変わっていく。


まずい。これは非常にまずい。


俺、佐伯和也(さえき かずや)の背中に冷や汗が流れる。玲奈は容姿こそ学年でも指折りの美少女だが、その性格には致命的な欠陥があった。思ったことを一切の濾過なしに口に出す、天然なのか意図的なのか判別不能な毒舌家なのだ。


このままでは、玲奈はクラス全員を敵に回して孤立する。いや、もう半分くらい敵に回しているかもしれないが、決定的な亀裂が入るのだけは防がなければならない。


俺は即座に思考をフル回転させ、玲奈の暴言を脳内で「翻訳」する。長年の付き合いで培った、俺だけの特殊スキルだ。


「あー、玲奈が言いたいのはさ、そのバッグが『レトロでアンティークな雰囲気』があってすごいお洒落だってことだよな? ほら、最近ヴィンテージ風のアイテム流行ってるし、玲奈って言葉選びが独特すぎて誤解されやすいからさ」


俺は明るい声色を作り、佐藤さんと玲奈の間に割って入るようにして言葉を紡ぐ。そして、玲奈に向かって「な? そういう意味だよな?」と目で合図を送る。


玲奈は不満げに鼻を鳴らしたが、俺の必死の形相を汲み取ったのか、あるいは単に興味を失ったのか、軽く肩をすくめた。


「まあ、流行りの古着ミックスってことなら、分からなくもないけど」


肯定とも否定とも取れない言葉だが、今の状況ではこれで十分だ。俺はすかさず佐藤さんに向き直る。


「ごめんな佐藤さん。玲奈、ファッションのことになると自分のこだわりが強すぎて、ちょっと表現がキツくなっちゃうんだよ。でも、そのバッグの色味、すごく落ち着いてて制服にも合ってると思うよ」


俺のフォローと、玲奈が一応引いたことで、佐藤さんの表情も少し和らいだ。「もー、相川さん驚かせないでよー」「佐伯くんも大変だね」と、周囲の女子たちが苦笑交じりに場を収めてくれる。


ふう、と俺は心の中で深い溜息をついた。


今日も何とか乗り切った。まるで薄氷の上を歩くような毎日だ。俺がいなければ、玲奈の無神経な言葉のナイフは、クラスメイトたちの心をズタズタに引き裂いていただろう。そしてその報復は、間違いなく玲奈自身に返ってくる。


「和也、何ぼーっとしてんの? 喉乾いたからジュース買ってきてよ」


事の重大さを全く理解していない当の本人は、頬杖をつきながら俺を顎で使おうとする。その横顔は確かに美しく、長い睫毛や透き通るような肌は、黙っていれば誰もが見惚れるレベルだ。


「はいはい。いちごオレでいいんだろ?」

「分かってるじゃん。あ、あと購買のパンも。小腹空いた」

「了解。……玲奈、さっきみたいな言い方は気をつけろよ? みんながみんな、俺みたいに玲奈の言葉を好意的に解釈してくれるわけじゃないんだから」


俺が小言を言うと、玲奈は面倒くさそうに手を振った。


「あんたがいれば問題ないでしょ? 和也は私の通訳係なんだから、しっかり仕事しなさいよ」


悪びれる様子など微塵もない。彼女にとって、俺が間に入って場を取り持つことは、呼吸をするのと同じくらい当たり前の現象なのだ。


俺たちは幼馴染で、一応、恋人同士ということになっている。

親同士が仲が良く、小さい頃からずっと一緒だった。「和也がいないと玲奈ちゃんは心配だわ」という玲奈の母親の言葉を呪いのように背負い込み、彼女が高校で孤立しないように必死で立ち回ってきた。


地味で目立たない俺が、クラスのカースト上位グループに顔を出せるのも、ひとえに玲奈の「付属品」として認識されているからに他ならない。


「分かったよ。行ってくる」


俺は苦笑しながら席を立った。これが俺の日常。疲れるけれど、俺が守ってやらなければという妙な義務感と、彼女が見せるふとした時の可愛さに絆されて、今日まで関係を続けてきた。


だが、そんな日常が音を立てて崩れ去る瞬間は、あまりにも唐突に訪れた。


***


購買でパンとジュースを買い込み、教室に戻ろうとした時のことだ。

廊下の角を曲がろうとした俺の耳に、聞き覚えのある笑い声が飛び込んできた。


「あはは! マジで? ウケるんだけど」


玲奈の声だ。いつもの不機嫌そうなトーンとは違う、甘えるような、弾むような高い声。俺には滅多に向けられない声色に、心臓が嫌なリズムで跳ねた。


声は、使われていない特別教室の方から聞こえてくる。


俺は足音を殺し、吸い寄せられるようにその教室へと近づいた。ドアの隙間から、夕陽に染まる教室の中が見える。


そこにいたのは、玲奈だった。

そして、その腰に手を回し、親密な距離で向かい合っているのは、サッカー部のエースであり、クラスの男子のリーダー格でもある郷田隼人(ごうだ はやと)だった。


「ちょ、隼人、くすぐったいってば」

「いいじゃん別に。誰も見てねーし」


隼人が玲奈の首筋に顔を埋める。玲奈は身をよじるが、そこに拒絶の色はない。むしろ、隼人の広い肩に手を添え、受け入れているようにさえ見えた。


俺が持っていたビニール袋が、カサリと音を立てた。


その微かな音に反応し、二人の動きが止まる。隼人が鋭い視線をドアの方に向け、玲奈がぱっと顔を上げた。


「……誰?」


隼人の低い声。俺は隠れることもできず、ゆっくりとドアを開けた。


夕陽が眩しい。逆光の中で、二人のシルエットが鮮明に浮かび上がる。俺の手には、玲奈に頼まれたいちごオレとパンが握りしめられたままだ。


「……和也?」


玲奈が目を丸くした。だが、そこに焦りはなかった。まるで、邪魔が入ったことを不快に思うような、そんな冷ややかな視線だった。


「お前……、何してんだよ」


震える声で問いかけるのが精一杯だった。状況は明白だ。それでも、何か言い訳をしてくれと、心のどこかで願っていたのかもしれない。


しかし、その淡い期待は、隼人の嘲笑によって打ち砕かれた。


「あーあ、見つかっちった。わりぃな佐伯、お前の彼女、借りてたわ」


隼人は悪びれることなく、ニヤニヤと笑いながら玲奈の肩を抱き寄せた。「借りてた」という言葉が、俺のプライドを無神経に踏みにじる。


俺は玲奈を見た。

否定してくれ。無理矢理迫られたと言ってくれ。

そうすれば、俺はまだお前の味方でいられる。


だが、玲奈の口から出た言葉は、俺の想像を絶するほど残酷なものだった。


「はぁ……。見られちゃったなら仕方ないか」


玲奈はため息をつき、髪をかき上げながら俺を真っ直ぐに見据えた。そこには、幼馴染としての情も、恋人としての罪悪感も、一切存在しなかった。


「あのさ、和也。ちょうどいいから言うけど、私たち、もう終わりにしない?」

「……終わりって、別れるってことか? なんでだよ。俺はずっとお前のために……」

「だからよ」


玲奈が俺の言葉を遮る。その瞳には、侮蔑の色が宿っていた。


「あんたさ、地味なのよ。性格も、見た目も、全部。私みたいな一軍女子の隣にいるのがあんたじゃ、バランス悪いって思わない?」


「バランス……?」


「そう。隼人はサッカー部のエースで、クラスの中心。私と並んで歩いても絵になるでしょ? でも和也は? ただの幼馴染ってだけで、何の取り柄もないじゃない」


玲奈は隼人の腕に身を預け、勝ち誇ったように笑った。


「はっきり言うわ。あんたみたいな地味な奴と一緒にいると、私の『格』が下がるのよ」


頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。

格が下がる。

俺がこれまで、彼女のために費やしてきた時間、労力、そして心。その全てが、彼女にとっては自分のブランド価値を下げる「ノイズ」でしかなかったというのか。


教室でのフォローも、機嫌取りも、全ては彼女がクラスで笑っていられるようにと願ってのことだった。それなのに、彼女はその土台を支えているのが誰かも理解せず、ただ上辺だけの華やかさを求めて、俺を切り捨てようとしている。


「……そうか」


怒りが湧くよりも先に、俺の中に広がったのは、底知れない虚無感だった。

そして同時に、奇妙な納得感もあった。


ああ、これでやっと解放されるんだ。


もう、彼女の暴言を必死に翻訳しなくていい。

彼女の機嫌を伺って、自分の感情を殺さなくていい。

理不尽な要求に応えるために、走り回らなくていい。


「お前、マジでそう思ってんのか」


俺の声は、自分でも驚くほど冷静だった。


「思ってるわよ。隼人と一緒にいた方が、私はもっと輝けるもん」

「佐伯ぃ、お前みたいな良いヤツポジションの奴ってさ、正直つまんねーんだよな。玲奈ちゃんも刺激が欲しいんだとよ。分かってやれよ」


隼人が馬鹿にしたように笑う。玲奈もそれに同調して、クスクスと笑った。


二人はお似合いだ。

他人の痛みが分からない者同士。上辺だけの輝きに執着する者同士。


俺の中で、玲奈に対する執着の糸が、プツリと切れる音がした。


「分かった」


俺は静かに頷いた。


「えっ?」


抵抗されると思っていたのか、玲奈が拍子抜けしたような声を出す。


「別れよう。お前がそこまで言うなら、俺がこれ以上関わる理由はない」

「な、なによそれ。あっさりしすぎじゃない? もっとこう、縋り付いてくるとか……」

「そんなことしないよ。お前の望み通り、俺は消える。これからは郷田とお幸せにな」


俺は手に持っていたいちごオレとパンを、近くの机の上に置いた。


「これ、頼まれてたやつ。餞別代わりに置いていくよ」


「は? ちょっと、和也!」


玲奈の呼び止める声を背に、俺は特別教室を出た。

背後で隼人が「あいつ、負け惜しみかよダッセー」と笑う声が聞こえたが、もう何も感じなかった。


廊下を歩く足取りは、不思議なほど軽かった。

窓から差し込む夕陽が、いつになく鮮やかに見える。


俺はずっと、玲奈という爆弾を抱えて、爆発しないように細心の注意を払って生きてきた。

その爆弾を、自ら手放したのだ。


「……翻訳スキル、終了だな」


小さく呟くと、俺は一度も振り返ることなく、昇降口へと向かった。


玲奈は知らない。

自分がクラスという生態系の中で、どうして捕食されずに生きてこられたのかを。

「地味で格を下げる」俺という緩衝材が、どれだけの衝撃を吸収していたのかを。


彼女がそれを知るのは、そう遠くない未来のことだろう。

だが、その時に俺が手を差し伸べることは、もう二度とない。


俺の高校生活の第二章が、今この瞬間から始まったのだ。

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