サイドストーリー 偽りの羽根で飛ぼうとした蝶

「玲奈、ここの年号の覚え方だけどさ、語呂合わせ作ったんだ。『イイクニ(1192)』みたいな定番じゃなくて、もっと玲奈の好きな曲のリズムに乗せて……」


放課後の教室。西日が差し込む窓際で、相沢湊(あいざわ みなと)が熱心に説明している。

彼の机の上には、数種類の色のペンで綺麗に色分けされた自作ノートが広げられていた。

私のために。私の成績を上げるために。

湊はいつだって一生懸命だ。真面目で、誠実で、私に尽くしてくれる。


「……ねえ、湊。もう良くない? 頭パンクしそう」


私はわざと大きなあくびをして、頬杖をついた。

湊の手が止まる。困ったような、でもどこか甘やかすような苦笑いが返ってくる。


「もう少しだよ。ここさえ覚えれば、次の小テストは満点取れるから」

「満点なんていらないし。赤点じゃなきゃいいんでしょ?」

「玲奈は指定校推薦の候補に入ってるんだよ? K大に行きたいって言ったのは玲奈だろ?」


K大。その響きは甘美だ。

ブランド力があって、キャンパスはおしゃれな街にあって、合コンでもモテる。

そこに「推薦」で楽に入れるなら、それに越したことはない。

でも、そのためのプロセスがこんなに地味で退屈だなんて聞いてない。


「分かってるよぉ。でもさ、湊の説明、長いんだもん」


私は唇を尖らせて不満をアピールする。

こうすれば、湊はすぐに折れる。「ごめんごめん、休憩しようか」と言って、ジュースを買ってきてくれる。

私にとって湊は、便利な「家庭教師兼執事」のような存在だった。

私がちょっと甘えれば何でもしてくれる。私の言うことは絶対。

成績が上がったのも、もちろん湊の協力はあるけれど、基本的には「私が本気を出したから」だと思っていた。

湊のノートはあくまで補助。それを理解してテストで点数を取るのは私の実力。

そう、私は優秀なのだ。進学校で推薦枠を取れるくらいには。


「……じゃあ、ちょっと休憩にしよっか。俺、購買で甘いものでも買ってくるよ」

「うん! ありがとう湊、大好き!」


「大好き」と言えば、彼は顔を赤くして喜ぶ。

チョロい。本当にチョロい。

教室を出ていく彼の背中を見送りながら、私はスマホを取り出した。

画面には、SNSの通知が溜まっている。

派手なアイコンの男の子からのDM。


『玲奈ちゃん、今何してるー? ヒマなら遊ぼーぜ』


送り主は、桐生翔(きりゅう かける)。

隣町の高校に通う男の子で、インスタで見かけてカッコいいなと思っていた人だ。

金髪で、ピアスをしていて、湊とは正反対の「悪い男」の雰囲気。

湊といると、私の世界は「教室」と「図書室」と「家」だけで完結してしまう。

安全だけど、刺激がない。狭くて息苦しい。

でも翔くんは違う。私の知らない夜の街や、大人の遊び場を知っている。


『今、彼氏に勉強させられてるー。マジだるいw』


私は軽い気持ちで返信を打った。

これが、私の転落の始まりだとも知らずに。


***


湊と別れるのは、驚くほど簡単だった。

翔くんとの関係が進むにつれて、湊の存在がどんどん疎ましくなっていったからだ。

「勉強しろ」「将来のためだ」。

湊の言葉は、まるで口うるさい親の説教のようにしか聞こえなくなっていた。

翔くんは言ってくれた。「玲奈ちゃん可愛いんだから、勉強なんてしなくて良くね?」「俺が楽しませてやるよ」って。

その言葉のほうが、今の私にはずっと心地よかった。


あの日、ゲームセンターの前で湊に見つかった時も、私は焦りよりも「これでやっと終われる」という解放感を感じていた。

必死な顔で詰め寄る湊。

今まで見たことのない、絶望に染まった表情。

それを見て、私は胸の奥で歪んだ優越感を覚えていた。

ごめんね、湊。あんたみたいな真面目くんじゃ、私という蝶を捕まえておく虫かごには狭すぎたのよ。


「湊といると世界が狭くなるの」


これは本心だった。

あんたといると、私はただの「受験生」でいなきゃいけない。

でも翔くんといれば、私は「進学校の制服を着たイケてる彼女」になれる。

世界が輝いて見えた。

湊が徹夜で作ったノートをゴミ箱に捨てた瞬間、私は完全に自由になったと思った。

重たい鎖を断ち切って、広い空へと羽ばたいたのだと。


***


でも、その「自由」の代償は、すぐに回ってきた。


「はい、ここテストに出るぞー。公式の変形忘れるなよ」


数学の授業中。黒板に書かれる数式が、まるで異国の古代文字のように見えた。

先生が何を言っているのか、全く理解できない。

以前はどうだったっけ?

そうだ、授業の前日や当日の朝に、湊が「ここだけ覚えればいい」っていう要約プリントを渡してくれていたんだ。

教科書の難解な記述を、私のレベルに合わせて噛み砕き、イラスト付きで解説してくれたプリント。

私は授業を聞く代わりに、そのプリントを眺めていれば良かった。

先生が黒板に書く内容は、湊のプリントの「確認」でしかなかったから、理解できて当然だったのだ。


「……なにこれ、意味わかんない」


小さく呟く。

教科書をめくってみるけれど、どこが重要でどこが補足なのかすら分からない。

情報の洪水に溺れそうになる。

隣の席を見る。そこには、もう湊はいない。

斜め後ろの席で、彼は背筋を伸ばして授業を受けている。

私に視線を向けることは一度もない。


(ま、いっか。翔くんと遊ぶ約束あるし)


私は考えるのをやめて、机に突っ伏して寝ることにした。

分からないものは仕方ない。

それに、私には「指定校推薦」という切符がある。

今まで積み上げてきた評定平均があるんだから、少しくらいテストの点数が落ちても大丈夫。

先生だって、進学実績が欲しいんだから、推薦を取り消したりしないはず。

そう高を括っていた。


放課後は翔くんとデートだ。

カラオケで歌って、プリクラを撮って、ファミレスでダベる。

「勉強? マジやめとけって。シワ増えるぞ」

翔くんはそう言って笑い飛ばしてくれた。

そうだよね、今は青春を楽しむ時だよね。

湊といた時の、あの息詰まるような勉強の日々が嘘みたいに楽しい。

私は幸せだ。間違ってない。

そう自分に言い聞かせながら、心のどこかで鳴り響く警鐘を無視し続けた。


***


崩壊は、音もなく、しかし確実に足元まで迫っていた。

中間テストの結果が返ってきた日。

私は自分の目を疑った。


『数学:12点』

『英語:18点』

『世界史:24点』


並んでいるのは、見たこともないような低い数字ばかりだった。

クラスメイトたちのひそひそ話が聞こえる。

「吉岡、やばくない?」「魔法が解けたって感じ」「やっぱり相沢くんのおかげだったんだ」

違う。私はバカじゃない。

ただ、今回は勉強しなかっただけ。準備不足だっただけ。

本気を出せば、いつだって高得点は取れるはずなんだ。


「おい、吉岡」


担任に呼び出された進路指導室で、私は現実を突きつけられた。

推薦取り消しの警告。

次はないという最後通牒。

先生の冷たい視線が突き刺さる。

「相沢がいないとお前は何もできないのか」と言外に言われている気がして、悔しさで唇を噛んだ。


「……できますよ。次は絶対取ります」


強がりを言って部屋を出た。

でも、どうやって?

教科書を開いても分からない。参考書を買ってみたけど、解説の意味が分からない。

今まで私が「自分の実力」だと思っていたものは、全て湊が丁寧に舗装してくれた道路の上を歩いていただけだったのだ。

その舗装がなくなり、突然荒れ果てたジャングルに放り出された私は、一歩も進むことができなかった。


焦りが募る。

翔くんに相談しても、「へー、大変だね」とスマホを見ながら生返事されるだけ。

「俺、バカな女って嫌いじゃないけど、面倒くさいのはパスかな」

彼の言葉の端々に、冷たい棘が見え隠れするようになっていた。

付き合い始めた当初のような情熱的な態度は消え、私が「進学校の優等生」というブランドを失いつつあることに気づくと、露骨に距離を置き始めたのだ。


(どうしよう……このままだと本当にヤバい)


プライドなんて言っていられなかった。

K大に行けなくなったら、私の人生設計は崩壊する。

親になんて言えばいい? 友達になんて言い訳すればいい?

恐怖で震える夜、思い出すのは湊の顔だった。

「大丈夫だよ、玲奈ならできるよ」

そう言って励ましてくれた、優しい笑顔。

あの笑顔があれば。あのノートがあれば。

私はまた「優秀な吉岡玲奈」に戻れる。


そうだ、湊にお願いしよう。

一時の気の迷いで別れちゃったけど、彼は私のことが大好きだったんだから。

私が泣いて謝れば、きっと許してくれる。

「しょうがないなあ」って、また勉強を教えてくれるはずだ。

だって、あんなに尽くしてくれたんだから。そんな簡単に嫌いになれるわけがない。


そう信じて疑わなかった。

自分の都合のいいように世界を解釈していた。


***


雨の日の図書室。

私はプライドをかなぐり捨てて、湊の元へ走った。

ずぶ濡れの制服、崩れたメイク。

なりふり構っていられなかった。翔くんには「推薦落ちるとか冷めるわ」とあっさり捨てられた直後だった。

私にはもう、湊しか残されていなかった。


「湊、助けて……!」


図書室の静寂を破って叫んだ。

生徒たちの視線が集まる中、私は湊の足元にすがった。

これでいい。可哀想な私を演じれば、湊は放っておけないはずだ。


けれど。

私を見下ろす湊の瞳は、凍りつくほど冷たかった。


「……で?」


耳を疑った。

かつて愛を囁いてくれた唇から出たのは、無関心そのものの言葉だった。

怒りですらない。軽蔑ですらない。

そこにいたのは、私という存在を「処理すべき面倒なゴミ」として見ている他人だった。


「俺はお前の道具じゃない」


その言葉が、鋭利な刃物のように胸に突き刺さった。

分かっていた。心のどこかでは、自分が彼を利用していたことを分かっていた。

でも、彼もそれを望んでいると思っていた。私に尽くすことが彼の幸せなんだと、勝手に思い込んでいた。


「俺は、俺の価値を理解してくれる人のために時間を使いたい」


湊の隣には、一ノ瀬雫がいた。

クラスでも地味で目立たない、ガリ勉の図書委員。

私の方がずっと可愛いはずなのに。私の方がずっと華やかなはずなのに。

今の彼女は、不思議なほど輝いて見えた。

理知的な瞳、凛とした立ち振る舞い。

そして何より、湊と対等に並び立ち、信頼し合っている空気感。


湊は、私が見下していた「狭い世界」の中で、私には一生手に入らないような「本物の絆」を育んでいたのだ。

私の知らなかった湊の顔。

自信に満ち、知的で、男らしい顔。

それを引き出したのは私ではなく、あの一ノ瀬雫だった。


「断る」


復縁の申し出も、ノートの貸し出しも、全て拒絶された。

「捨てたよ。お前がゴミだと言ったから」

淡々と告げられた事実は、私自身の価値がゴミになったことを意味していた。


二人が去っていく背中を見ながら、私は絶望の底に突き落とされた。

翔くんに捨てられたことなんて、どうでもよかった。

本当に失ってはいけなかったものを、自らの手で粉々に砕いてしまったことへの後悔。

それが津波のように押し寄せてきて、私は床に突っ伏して泣くしかなかった。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


どれだけ謝っても、もう届かない。

湊はもう、私のいない世界で、私よりもずっと素敵な人と、未来へ歩き出している。

私は一人、雨の降る冷たい暗闇に取り残された。


***


そして、春。

卒業式の今日、私は校門の隅で亡霊のように立ち尽くしていた。

手には予備校のパンフレット。

大学受験は全滅した。

当然の結果だ。基礎学力もない、努力の仕方も分からない、支えてくれる人もいない。

そんな人間が、難関大学に受かるはずがない。


「相沢、一ノ瀬さん、おめでとう!」


歓声が聞こえる。

光の中に、湊と一ノ瀬さんがいた。

T大合格。K大よりもさらに上の、雲の上の存在。

二人は光り輝いていた。

春の日差しが二人を祝福し、未来への希望がその全身から溢れ出ているようだった。


湊がふと、こちらを見た気がした。

私は身を縮めた。

何か言われるかと思った。

でも、彼はすぐに前を向いた。

私なんて、もう彼の視界には入っていないのだ。

道端の小石と同じ。記憶に残す価値もない存在。


「……あ、ああ……」


涙が溢れて止まらなかった。

世界が狭かったのは、湊じゃない。私だった。

「楽をして楽しみたい」「ちやほやされたい」。そんなちっぽけな欲望のために、自分の殻に閉じこもり、本当に大切な人が差し伸べてくれていた手を振り払った。

その手が、私をどれだけ高い場所へ連れて行ってくれようとしていたのか、今になってようやく理解した。


湊が言っていた「世界が広がる」という感覚。

彼は今、隣にいる一ノ瀬さんと共に、それを実感しているのだろう。

私には一生理解できない、知性と努力と信頼によって到達できる高み。


「うっ、うう……」


パンフレットが涙で濡れる。

私に残されたのは、孤独な浪人生活と、一生消えない後悔だけ。

ブランドも、プライドも、愛も、未来も。

全てを失った。


華やかな袴姿の女子生徒たちが、私の横を通り過ぎていく。

「あの子、吉岡さんじゃない?」「うわ、落ちぶれたね」「ざまあみろって感じ」

容赦のない陰口が聞こえる。

言い返す気力もなかった。

その通りだ。私は、ざまあみろと言われるような生き方をしてきたのだから。


遠ざかっていく湊の背中が、陽炎のように揺らぐ。

もう二度と、あの背中に触れることはできない。

もう二度と、あの優しい声で名前を呼ばれることはない。


私は膝から崩れ落ち、アスファルトに手をついた。

春の風は暖かかったけれど、私の心には冷たい木枯らしが吹き荒れていた。

偽りの羽根で空を飛ぼうとした蝶は、地面に叩きつけられ、二度と飛ぶことはできない。

それが、私の物語の結末だった。

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「君といると世界が狭い」と不良に走った彼女。俺の自作ノートで維持していた成績が暴落し、指定校推薦が消えてももう遅い。俺は才媛と難関大へ行く @flameflame

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