第四話 格差の春
三月。
春の訪れを告げる柔らかな日差しが、校庭の桜の蕾をゆっくりと膨らませている。
本来なら、希望と期待に胸を躍らせる季節だ。
しかし、正門の前に立ち尽くす吉岡玲奈の心には、凍てつくような冬の嵐が吹き荒れていた。
今日は卒業式だった。
周囲では、卒業証書の筒を持った生徒たちが、晴れやかな笑顔で記念撮影をしている。
「大学でもよろしく!」「飲みに行こうぜ!」といった明るい声が飛び交う中、玲奈だけが、まるで色彩を失ったモノクロ映画の登場人物のように、生気のない顔で立っていた。
彼女の手には、予備校の入学案内のパンフレットが握りしめられている。
表紙には『キミのやる気をサポート! 逆転合格を目指せ!』という、今の彼女にとっては皮肉でしかないコピーが踊っていた。
「……はあ」
深く、重いため息が漏れる。
結果から言えば、玲奈の受験は「全敗」だった。
指定校推薦を取り消された後、慌てて一般入試に向けて勉強を始めたものの、基礎学力の欠如は致命的だった。
英語の長文は暗号にしか見えず、数学の公式はどれを使えばいいのか見当もつかない。
かつて湊が作ってくれていた「魔法のノート」がない今、彼女は武器も防具も持たずに戦場に放り出された兵士と同じだった。
頼みの綱だった翔にも捨てられ、精神的にもボロボロの状態で挑んだ試験。結果は火を見るよりも明らかだった。
K大学はおろか、滑り止めとして受けた偏差値の低い大学でさえも、不合格通知が届いたのだ。
「あんたが浮かれている間に、周りは必死に勉強してたのよ! 自業自得でしょ!」
昨夜、母親に怒鳴られた言葉が耳に残っている。
両親は激怒し、そして呆れ果てていた。
「K大推薦」というブランドを鼻にかけていた娘が、蓋を開けてみれば行く当てのない浪人生になったのだから無理もない。
来年からの予備校費用は、玲奈がアルバイトをして一部を負担するという条件で、なんとか出してもらえることになった。
かつてのような華やかな大学生活、合コン、サークル活動。それらはすべて、蜃気楼のように消え失せた。
「なんで、こうなっちゃったんだろ……」
玲奈は俯き、自分の足元を見つめた。
髪の色は、校則と親からの命令で黒に戻されていた。手入れをする余裕も金もなく、毛先は傷んでパサついている。
メイクも薄く、目の下にはクマが張り付いている。
数ヶ月前まで、学内でも一、二を争う美少女としてちやほやされていた姿は、もうどこにもなかった。
「……湊」
ふと、その名前が口をついて出た。
もし、あの日。
彼が渡そうとしたノートを受け取っていたら。
彼の誘いを断らず、翔について行かなければ。
今頃は、K大学への入学手続きを済ませ、湊と一緒に春休みの旅行計画でも立てていたかもしれない。
後悔という名の毒が、じわじわと全身を蝕んでいく。
「世界が狭い」なんて、どの口が言ったのだろう。
湊が用意してくれていたのは、確実な未来への「特急券」だったのだ。それを自ら破り捨て、泥沼に飛び込んだのは自分自身だ。
その時だった。
校舎の方から、一際大きな歓声と笑い声が聞こえてきた。
玲奈がのろのろと顔を上げると、光の中に二つの人影があった。
相沢湊と、一ノ瀬雫だ。
玲奈の呼吸が止まった。
二人は並んで歩いていた。ただそれだけの光景なのに、周囲の空気がそこだけ輝いているように見えた。
湊は制服を正しく着こなし、背筋を伸ばして歩いている。その表情は自信と希望に満ち溢れ、以前のような「玲奈の世話係」としての疲労感は微塵もない。
そして、その隣にいる一ノ瀬雫。
いつもクールな表情を崩さなかった彼女が、今は花が咲いたような柔らかい笑顔を湊に向けている。
眼鏡を外し、コンタクトにしたのだろうか。理知的な瞳がより一層美しく強調され、風になびく黒髪が艶やかに光っている。
二人は、周囲の生徒たちからも祝福されていた。
「相沢、一ノ瀬さん、T大合格おめでとう!」「お前ら、マジですげーよ!」「伝説のカップルだな!」
口々に称賛の言葉が投げかけられている。
T大学。
K大学よりもさらに格上の、国内最難関の国立大学だ。
二人はそこへ、揃って現役合格を果たしたのだ。
玲奈は、校門の陰に隠れるようにして身を縮こめた。
見つかりたくない。
今の惨めな自分を、彼らに見られたくない。
そう思う一方で、目が離せなかった。
かつて自分のものだったはずの「隣の席」に、自分よりも遥かに優秀で美しい女性がいるという現実。
それが、どうしようもない敗北感を突きつけてくる。
二人が校門に近づいてくる。
その会話が、風に乗って玲奈の耳に届いた。
「……ねえ、相沢君。引っ越しの準備は進んでる?」
「ああ、大体ね。一ノ瀬さんのアパートから二駅だから、自転車でも行ける距離だよ」
「ふふ、じゃあ週末は私の部屋で勉強会ね。大学の講義、楽しみだわ。特にあの教授のゼミ、一年生から聴講できるみたいだし」
「ああ、俺も楽しみだ。もっと広い知識に触れられると思うと、ワクワクするよ」
楽しそうだった。
心底、未来に希望しか抱いていない声だった。
「勉強会」という単語ですら、二人の間では甘いデートの約束のように響いている。
かつて玲奈が「つまらない」「息が詰まる」と拒絶した勉強が、彼らにとっては世界を広げるための翼になっているのだ。
湊がふと、空を見上げた。
「……俺さ、ずっと狭い場所にいたような気がするんだ」
「狭い場所?」
「ああ。誰かの顔色を窺って、誰かのために時間を浪費して。……でも、今は違う。君と一緒に、どこまでも広い世界へ行ける気がするんだ」
その言葉は、玲奈の心臓を直接握り潰すかのような衝撃を与えた。
『狭い世界』。
それは玲奈が彼を捨てた時に吐いた言葉だ。
だが今、本当に狭い世界に閉じ込められたのは誰か。
予備校と自宅とバイト先という、閉塞したトライアングルの中を這いずり回ることになった自分。
対して湊は、最高峰の知性を持つパートナーと共に、無限の可能性が広がる大海原へと漕ぎ出そうとしている。
「ええ、行きましょう。私たちなら、どこへだって行けるわ」
一ノ瀬が湊の手を握った。
湊が強く握り返す。
二人の間には、誰も入り込むことのできない強固な信頼と愛情があった。
二人が校門を抜けようとしたその瞬間。
玲奈の存在に気づいたのか、湊の視線が一瞬だけこちらを向いた。
「……っ」
玲奈はビクリと体を震わせた。
何か言われるかもしれない。
「ざまあみろ」と罵られるかもしれない。
あるいは、憐れみの言葉をかけられるかもしれない。
しかし、湊の反応はそのどちらでもなかった。
彼は玲奈を視界に入れた瞬間、まるで道端の石ころでも見るかのように、すっと視線を外したのだ。
怒りも、軽蔑も、同情すらない。
完全なる「無関心」。
彼の世界において、吉岡玲奈という存在は、もはや背景の一部ですらなくなっていた。
「どうしたの? 相沢君」
一ノ瀬が問いかける。
湊は前を向いたまま、穏やかに答えた。
「いや、なんでもない。……行こうか、雫」
「うん、湊君」
二人は名前で呼び合いながら、玲奈の横を通り過ぎていった。
春の風が二人を包み込み、光の中へと消えていく。
玲奈は、一言も発することができなかった。
手を伸ばすことさえ許されなかった。
圧倒的な格差。
住む世界が違うとは、こういうことなのだと思い知らされた。
「……あ、ああ……」
乾いた喉から、嗚咽が漏れた。
予備校のパンフレットが、手から滑り落ちてアスファルトに落ちる。
泥に汚れたその紙切れは、あの日、自分がゴミ箱に捨てた湊のノートと重なって見えた。
捨てたのは自分だ。
「世界が狭くなる」と見下し、安っぽい快楽と承認欲求のために、最も大切な宝物をドブに捨てた。
その報いが、この孤独だ。
「う、ううっ……ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
誰に対する謝罪なのか、自分でも分からなかった。
ただ、取り返しのつかない喪失感が、津波のように押し寄せてくる。
校門の前でしゃがみ込み、泣きじゃくるかつての学園のマドンナ。
その姿を気にかける者は誰もいない。
生徒たちは皆、自分の未来に向かって歩き出している。
玲奈だけが、過去という名の牢獄に取り残されていた。
***
駅へと続く桜並木の下。
俺、相沢湊は、隣を歩く雫の手の温もりを感じながら、深く息を吸い込んだ。
空気は澄んでいて、春の匂いがする。
「……さっき、彼女がいたわね」
雫が前を向いたまま、静かに言った。
やはり気づいていたか。彼女の観察眼は鋭い。
「うん、いたね」
「声をかけなくて良かったの?」
「かける言葉なんてないよ。彼女は彼女の選んだ道を行く。俺たちは俺たちの道を行く。それだけだ」
強がりではなく、本心だった。
かつては彼女の笑顔一つで一喜一憂し、彼女の人生を背負おうとしていた。
だが今振り返れば、それは依存であり、共依存だったのかもしれない。
彼女を失ったことで、俺は自分を取り戻した。
そして、互いに高め合える本当のパートナーに出会えた。
「そうね。……私たち、忙しくなるものね」
「ああ。大学の勉強はもちろんだけど、やりたいことが山ほどある。留学もしたいし、研究もしたい」
「私もよ。負けないからね」
雫が挑戦的な笑みを浮かべる。
その笑顔が、たまらなく愛おしい。
守ってあげなければならない存在ではなく、背中を預け合い、共に走れる存在。
これこそが、俺が本当に求めていた関係だったのだ。
「望むところだ。……これからもよろしく、雫」
「こちらこそ。ずっと一緒にいてね、湊君」
俺たちは繋いだ手に力を込め、歩幅を合わせて歩き出した。
頭上には満開の桜。
その花びらが舞い散る中、俺たちの視界には、どこまでも広がる青空と、輝かしい未来だけが映っていた。
後ろを振り返ることは、もう二度とない。
狭い世界に自らを閉じ込めた彼女と、広い世界へと羽ばたいた俺たち。
二つの道は完全に分かたれ、二度と交わることはないだろう。
それが、俺たちの恋の、そして青春の結末だった。
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